二十八羽目
声が聞こえるよりも先に。詠唱が終わるよりも先に。衝撃波が貫くよりも先に。
俺の足は既に動き出していた。たった一人の同居人のもとへと。それでも伸ばした手は、まだ少し届かない。あぁ、どうもこの世界は俺を嫌っているらしい。いつもそうだった。どれだけ力を振り絞ろうと、その最後の一滴を見透かしたように遠のいて行く。
視界は恐ろしく澄んでいる。風が凪ぐ。空が凪ぐ。木々が凪ぐ。雲が凪ぐ。
時が、凪ぐ。
ごめんなポンコツ。あと一歩が足りなかったよ。目を伏せた。力が解けた。全てを諦めた。目を閉じた。
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『こんにちは』
『───っ!』
刹那、瞼の裏側には見知った顔があった。
『なんで……』
『理由を答えるなら、そうですね。貴方があまりにも悲しそうな顔をしていたからでしょうか』
『意味が分からない』
『まぁ、そうでしょうね』
ふんわりと彼女は微笑む。それから思い出したかのように、いそいそと紅茶を注ぎ始めた。
『俺は、確か古代種と戦って……』
『えぇそうですよ。貴方とそれから白鯨、中々いい勝負をしていました』
まるで日常の小話でもするように彼女は温かく言葉を紡ぐ。その穏やかさが俺の焦りに拍車をかけた。
『ちょっと待ってくれ。俺は今ここでアンタと紅茶を飲み交わす余裕も、与太話をしている時間もないんだ。早く、早く戻らないと』
『まぁまぁ、取り敢えず一杯どうですか?』
『そんな悠長にしてられるか! アイツを、ポンコツを助けないと!』
『大丈夫ですよ。ここは向こう側と時間の流れ方が違いますから』
『……何?』
『取り敢えず、一杯どうです?』
今にも泣き出してしまいそうな、切なげで儚げな表情を浮かべる彼女は俺に座るよう促す。長い話になるのだろう。差し出された紅茶がそう告げている気がする。思えば彼女は初めから、俺に会う度に悲しそうな顔をしていた。聞かなければいけないことが沢山ある。今まではぐらかされてきた事も、俺をここに招く理由も。でもそれは、今じゃない。どれだけここの時間の流れが違おうと、俺は閉じた目を開いて手を伸ばし続けなければならない。
『そんなに心配しなくても大丈夫ですよ。すぐに終わりますから』
『なら早く答えてくれ。俺の目の前に現れたアレは一体何なんだ? キュニアスの迷宮で俺が見たのとは全く違っているがアレも古代種なのか?』
『えぇ、そうですよ。ただ貴方がキュニアスの迷宮で戦ったのとは少々違います』
『違う、というのは?』
『名を持っているか、持っていないか』
『……?』
迷宮で見た古代種とついさっき見たアレは段違いだった。何もかもが違う。異質を通りこした異質。その感じがただ名前の有無によって変わるというのだろうか。
『信じられない、とでも言いたげな表情ですね?』
『まぁ、そりゃな』
『名前というのは貴方達が思っている以上に重要なんです。この世界に紐づけて、定義して。そうすることでようやく存在出来る……そういう風に私がしましたからね』
丸太づくりの郷愁的な部屋の中で彼女はため息をつきながら、そう言った。
『話が見えないな。つまりどういう事だ?』
『あら? どうやら貴方まだ全てに行きついているわけではないのですね。あの子は結局、放任することにしたのでしょうか? まぁそれも一つの選択肢ですね。あの子にはあの子なりに葛藤があったでしょうし、もしかしたら、いいえ今でも迷い続けているのでしょう。きっとそうです』
小さな声で細々と話しながら彼女の頭は下がっていく。
『ちょ、ちょっと待て。勝手に一人で考え始めないでくれ』
『あっ、私としたことが。すみません』
俯きながら考え込んでいたその頭を勢いよく上げ、再びしょんぼりと俯いてしまった。これが本当に校長が恐れる存在なのだろうか。これが本当に始まりの魔女と称され、泰樹達が終わらせようとしている存在なのだろうか。俺にはそう思えない。
『それで、さっきの話からするとアレには名前があるってことだよな?』
『はい。貴方が戦っている相手の名はメルム。今の言葉で翻訳すると災いという意味です』
『災い』
意味を音で反芻しながら、ここに呼ばれる直前のことを思い出す。確かに一種の災いのような理不尽な力を持っていた。それに詠唱していた魔法も、泰樹が声を荒げるだけあって相当の威力だろう。
『メルムの危険性は一撃の重さ。この一つにつきます。魔力量としては他の名持ちに劣りますが、それでも一つ一つの攻撃の威力と範囲は随一です』
『名は体を表すって感じだな』
それこそまさに災いのように。
『でも待ってくれ。そんなやつがこの世界に存在しているなら、どうして今まで問題にならなかったんだ? こうちょ……時ヶ峰の魔女は何も言っていなかったし泰樹も存在自体は知っていたようだが、現れるのは予期していなかったように思える』
『えぇ、そこなんですよ。本来古代種は貴方も知っている協定が出来る以前から、大神と私によって封じられていました。それがどういう理由かキュニアスの迷宮に現れ、今度は森の中に現れてしまった』
『……つまり、その封印とやらが誰かに解かれたと?』
『その通りです。キュニアスから連絡があった後、大慌てで確認しましたが物の見事に解かれていました』
その瞳には悔しさと申し訳なさが滲み出ている。恐らく誰も予想していなかったし、予想出来なかった事態なのだろう。言い換えればそれだけ危険な状態であるということだ。
『誰の仕業かってのは分かってないんだろうな。話の流れ的に』
『お恥ずかしい限りですがその通りです。本来、封印を解くということは文字通り封じている印を解きほぐすということです。今にも蓋を押し上げて中身が飛び出してきそうな箱を、頑丈な糸できつく縛り上げて押さえている状態とでも言いましょうか。そしてその糸は今でも私の手の中にあるのです』
『なるほど。つまり糸を解く際には長い糸を伝ってその振動が伝わるはずだが、それらしき予兆さえ感じられなかったと』
『理解が早くて助かります。老いても始まりの魔女である私に、一切の情報を与えることなくそれが出来る術者を私は知りません』
だから誰か分からない。そもそも開けられるはずがない。けれども確かに箱は開けられた。そして災いは何も知らない俺たちの下へと降りかかる。なんとも笑えない話だ。
『手がかりが無いんじゃどうしようもないな』
『強いて言うのなら解き方が私のそれとよく似ていたことでしょうか。若干の手荒さは伺えましたが』
『そんなに似ていたのか』
『えぇ、まるで私がもう一人いるかのような嫌な気分です』
酷く気味の悪い物を見るかのような表情からしてよっぽどなのだろう。模倣というものは完全ではない。どれだけ高度な技術を持ってしてもそれは模倣である。オリジナルを精巧に忠実に再現したからといってもそれがオリジナルになることは決してない。そして今なぞられているのは始まりの魔女だ。世界を始めるなどという大層な魔法を持ち、全ての魔女の生みの親。理由は詳しく知らないが、時ヶ峰の魔女と白鯨が取り壊そうとしている部屋に住まう引き籠り。そんな彼女がもう一人の自分がいるようだと言うのだ。いかに得体の知れない者がいるのか嫌でも実感してしまう。
『なぁ、あんたが封じていた古代種ってのはどのくらいいるんだ?』
『もう随分と前の事ですからあまり覚えていませんねぇ』
おいおい投げやりに窓の外を見るんじゃない。
『あ、多分あの子なら覚えているかもしれません。リストを作っていたような気がします』
また出たよあの子。一体誰のことを指しているんだ。
『なぁ、あの子あの子ってずっと気になっていたが誰のことなんだ?』
『誰ってそんなのもちろん現大神に決まっているじゃないですか』
『……は?』
キョトンとした表情で凄く知っている名詞を口にしたぞこの魔女。馴染み過ぎて理解が追いつかない。
『いやちょっと待て。大神ってアレか? あの天界にいるちっちゃいアレか?』
『貴方もよく知っているあの大神ですよ?』
『……』
『貴方もよくしっ』
『二度も言わなくていい』
聞こえていないと思ったのか同じ抑揚で繰り返しだした言葉を手で制止する。いや分かっているけどさ。ポンコツと同じぐらいの小ささと言えど天使を統べる大神。あいつがこの魔女と知り合いであってもおかしくはない。
『そういや最初、放任するとかなんとか聞こえたが?』
『貴方の事はもうあの子に一任していますからね。色々あるんです。一応確認はしてみますよ。私も貴方が何処まで知っているか気になりますからね。それに私にも責任はありますし』
そこまで言って彼女は一度紅茶を飲む。その動作は何度もしてきたのだろう。だから無駄がない。けれど彼女は敢えてその動作をゆっくりとする。そんな風に思えてしまう。そう思う度に俺はまだ何も知らないのだと訴えられている気がする。お前はただ、上辺だけの知識を知ったような気になっているだけなのだ。何度もここに足を向けながら、対面している魔女のことさえ知らない。何かを知ろうとしながら本格的には動けていない。それが今のお前だ。目の前の紅茶がそう告げているような気がした。
『これから先、どうしても貴方には大変な事が起こってしまいます。その原因を作り上げてしまった事を本当に申し訳なく思います』
『アンタに謝られる理由は分からないが、幸いなことに俺には天使がついてる』
『そうでしたね。向こうに戻ったらちゃんと彼女を救ってあげるんですよ?』
『ここに来る前に手は届かなかったんだけどな』
『あら? 貴方が得意なのは風ではなかったですか?』
『───あ!』
『頑張ってくださいね』
そう言って穏やかな笑みと、すっかりパニックで抜け落ちていた方法を思い出させてくれた彼女の姿が徐々に遠くなる。瞼が抵抗する意思を持たずに落ちていく。ゆっくりと意識は落ちていく。深く深く落ちていく。目が覚めたら風を起こそう。そう思った瞬間、完全に意識は途絶えた。
####
僕が手を打つよりも先に。忌々しい詠唱が終わるよりも先に。彼の、雫の足は姫路ちゃんに向かって動き出していた。それでもまだ手は届かない。少しだけ、本当に一瞬だけ世界が止まった気がした。いや止まったいうよりも切り取られたかのようだ。目を伏せていたはずの雫はお得意の風を使って加速する。あぁ本当に君は凄いやつだよ。僕とは違って手を伸ばし続けて救ってしまうのだから。
「む、上に逃げるか」
「こらこら何をよそ見しているんだい? お前の相手は僕がすると言ったはずだが?」
拘束術式を多重展開。上下の陣から無数の鎖を打ち込む。それほど大きな身体ではないにせよ、どうせ僕の鎖は塁の拘束術には到底敵わないし、目の前のこいつはその塁が本気を出してやっと動きを封じられるかどうかという所だろう。最初から期待はしてない。だから僕は保険という名の本命をしかける。乾いた口内を唾で潤して、僕は詩を紡ぐ。
「海に乞い空に請うた。先がなくとも力を振るった。目下の敵を撃つために。全てを主に捧ぐために───」
「ぬ?」
今頃力を加えたってもう遅い。僕の詠唱は完結した。虚を突かれた状態から詠唱を強制解除できる化物は一人しかいない。そしてそれはお前じゃない。久し振りに当たってもらおう。数千年振りの一撃を。
「白く輝く無数の矢」
純白に煌めく矢が一本また一本と砂埃を盛大に吹き上げて、ついでに大きな爆撃音を奏でながら辺り一面を覆いつくす。僕の詠唱魔法の中で五番目程度に短く、それでいて高威力を叩き出せるから割と重宝しているやつの一つだ。視界が砂埃に覆われてから数秒、僕は息をするのも忘れて目を開き続けた。感触は悪くない。放った矢は全て届いたはずだ。
「流石は白鯨と言ったところか」
だから声が聞こえるなんてことがあっていいはずがない。だというのに、嫌というほど重量のある声が耳に届いた。数分前の不意撃ちとは違い本命を直撃させたはずなのだ。それでも目の前の相手には通用していない。そんなの減らず口を叩くしかないじゃないか。
「……えぇー、あれだけやってまだ耐えるの? 前はもっと簡単に倒れてくれたのにー」
「であろうな。確かに以前であれば我は倒れ、あの忌々しい箱に詰め込まれていたであろうよ。いや今回もそれなりに損傷は負ってしまったがな」
「じゃ今回も倒れてくれると有難いんだけどなぁ」
「そうもいかん。我らとて目的があるのでな。そうおめおめと膝を崩せぬのよ」
「それまたなんとも」
大層な目的だなと思う。彼らが抱く目的なんぞたかが知れている。その境遇というか生涯に関しては同情しないわけでもないけれど、それを現代に持ち込むのはちょっとどうかと思う。過去は過去だ。今を生きる者達にとっては無関係だ。
「また、戦争でも引き起こすつもりかい?」
「さてな。我らは事の顛末を語れるほどの器ではない。故に昔も今も好きにするだけよ」
やれやれとでも言うように肩をすくめる。こいつの裏に誰がいるのか調べないといけないんだろうなぁ。戦場に訪れる束の間の静寂に僕は警戒をしつつ思考を巡らす。どうやったて口を割ってくれる相手でもなければ、今この場で殺せる相手でもない。できないわけではないだろうけど、問題というか制約が多すぎる。
「一つ聞いてもいいかい?」
「構わん」
「この際、君がどうやって脱出したのかっていうのは置いておくよ。ただそれに以上に、どうして雫を、静寂の悪魔を狙うんだい?」
「先にも言ったであろう。アレは我らと同じ物だ。同胞を助けるのもまた同胞の役目であろう」
「助ける? 馬鹿を言うんじゃないよ。僕らからしたら君は今、災いをもたらしているだろう?」
「おかしな術がかかっている状態を貴殿は幸福だというのか? 本来の姿を忘れ、己が過去すら無かったものとすることが求める姿か?」
「あぁ、僕らはそれで良いと思っている」
「歪んでいるな」
「君がそれを言うなよ」
静寂は一転し恐怖と敵意に支配される。互いの殺気が混ざり合う。さて次はどうしようか。策を巡らすのと同時に夥しい量の血飛沫を見る。仮に僕が百の倒し方を思いついたとしたならば、あいつきっと百の殺し方を思いついている。そんな相手だ。それでも僕は時間を稼がなければならない。今頃雫が姫路ちゃんを連れて校長を呼びに行っているだろう。拳を交えて理解したはずだ。自分では到底敵わない。だからあの魔女を呼ばなければならないと。ともすれば僕の役目は一つだ。校長と塁達がここに来るまでの間、時間を繋げばいい。それだけだ。
「さて化物、いやメルム。そろそろ再開しようか。君は昔から待つことは苦手だったはずだ」
「そうだな。だが我も一つ聞かせてもらおう」
「なんだい?」
「貴殿にとってこの世界とは何だ」
「そうだね。ここは僕にとっての大事な場所だよ」
言葉が音となり僕の口から離れたのと同時に後方へ跳躍する。跳びながら省略に省略を重ねた最速詠唱。どれだけ魔術の技術が進歩したところでほとんどが魔法には及ばない。雫の言っていた強力な自己暗示という面ではどちらも変わらないけれども、メルムを相手に生半可な力は意味を成さない。
「燃え盛る我が紅玉」
「決して冒されぬ七つの光線」
一つの焔と七つの煌きが真正面から衝突する。その影響は凄まじいもので、周囲の草木が焼け朽ちている。これは確実に怒られるなぁ。そんなことを思いながらも次を放つ。この森にどれだけ被害が及ぼうとも今はそれを躊躇ってはいられない。
手数重視の僕と火力重視のメルム。完全に相殺できる数を放ちその裏に次を仕込んでも、避けることなく潰されてしまう。もちろんそんな事は慣れている。これでも終末を生き残った化物だ。幾度となく僕のプライドやら傲りやらはこっぴどく折られてきた。もう折られる心も残っていない。
弾幕と大砲が煙を上げる。迂闊に距離を詰めてはいけない。しっかりと距離を保って隙が出来た時にだけ懐にぶっ放す。それでもメルムは倒れない。どんな攻撃を受けようとも、立っていることが当たり前のように立ち続ける。ふとした見てくれでは特徴をつかめないような、剛にも柔にも当てはまる肉体。雫も、というかメルムと一戦を交えることになってしまった化物は同じことを思うだろうな。
「相変わらず遠いな貴殿は」
「僕は遠距離組なんでね」
メルムの頭上を旋回するように飛び回りながら、不規則な動きの矢を放っていく。まぁ、フェイクを仕込もうが全てを束ねて射ってみようが大して変わりはないのだけれどさ。相変わらず古代種に分けられる化物と戦うのは骨が折れる。塁がいたらもう少し楽が出来ただろうけど、いない相方の事を嘆いたってしょうがない。頼むから早く来てくれよー。
「果てることのない我が主の栄光」
何度撃ち合っただろうか。その間に数回は殴り合った。それなりに傷ついてそれなりに傷つけた。けれど決定打はどちらも与えられていない。それでも僅かに僕の方が圧されている。この戦況を見た誰もがそう言うだろう。
「そろそろ終いか? ふむ。些か失望したぞ白鯨。前回より小手先の技術と質は進歩しているようだが、量が圧倒的に足りていない。以前の貴殿は凄みがあった。他の誰よりも鋭利で、淡々と我が兵を屠っていた。だと言うのにどうしたのだ。いつから貴殿はそんなにも貧弱になったのだ」
「ずっと起き続けてるやつがひたすら寝てたやつに、魔力量で劣るのは仕方ないだろう」
「よもや貴殿、その魔力を誰かに貸し与えているわけではあるまいな」
「……んー、それは秘密かな」
間髪を入れずに確信を突けるのは流石だよ。君はもとから相手の現状を理解するのが得意だったね。あの頃もそれに苦労したんだった。とは言えだメルム。君は一つだけ勘違いしている。今の僕が過去の僕よりも弱くなったというのならそれは間違いだ。今の僕にはあの頃にはなかったものがあるのだ。
「不完全燃焼ではあるが、今回は我の勝ちだな」
「いいやメルム。今回も僕の勝ちだ」
きっと僕は今、あくどい表情をしているだろう。さながらイタズラが成功した子供のように。
「何を言う。その疲労が証拠であろう。今さら負け惜しみなど───」
「降伏か撤退かを選びやがれ!」
誰よりも澄んでいて、誰よりも多くの色を持つ声が空から聞こえた。それは何とも高圧的で何人たりとも逆らえないような詩。そこから僕とメルムの間に高々と檻が降りる。檻はメルムの両脇を後方に果てしなく伸び続けている。上から見るとコの字をしていることが分かるだろう。一度その檻につかまってしまったのなら撤退か降伏かを選ぶしかない。
「……どうやら我は恐ろしくツイているようだ。良いぞ良いぞ。あぁ時ヶ峰の魔女よ。貴女に貫かれた腹の傷が、貴女を残虐に冷血に無情に無惨に苛酷に猛悪に殺せと疼いてやまないのだ。今すぐこの檻を壊してそこへ行こう」
「ぬかせ成れ果て。誰が私を殺すって?」
数秒後には一触即発だろうなぁと思った。けれどもそうはならなかった。
「そこまでですメルム。その魔力を沈めなさい」
凜とした声が頭に響いた。
「時ヶ峰の魔女に杖。それに鈴と双子。いかに災いを冠する貴方でも荷が重いのでは?」
空間が歪んだ。幻覚ではない。純粋にその場所が捻じ曲げれ、切り離されて別の場所に繋がった。
「帰りますよ。王がお待ちです」
「左様か。では仕方ない」
メルムが驚くほど素直に半歩下がり背を向けると、異様なほどに焼け爛れた腕が視界に入った。全身を駆け巡る血が沸き立つ。僕はあの腕を知っている。どれほど時間が経とうとも決して忘れまいと記憶に刻んだ腕。あぁ、駄目だよ僕。下肢に力を込めるじゃない。こらこらそんなに攻撃的な魔力を熾すんじゃない。というかさっきの戦いで消費しすぎただろうに。何処からそんな魔力が湧き出てくるんだい。ほら、落ち着くんだ。止まれ。止まれ。止まれ。止まってくれ。誰か僕を止めてくれ。
「行くな泰樹!」
「───ッ!」
普段の調子からは考えられないほどに怒気と焦りを込めた鋭い声が聞こえた。そのお陰でようやく僕は自分の体の主導権を奪い返せた。あとほんの百分の一秒でも雫の声が届かなければ僕はきっと同じ過ちを犯していただろう。主を失ったあの時のように。
メルムは徐々に姿を消していく。僕らはそれを黙って見送ることしかできない。
「あぁ、そうだ。貴殿の魔力は返してもらっておいたほうがいいぞ白鯨。今の貴殿では我と共に廃れることすら叶わん」
「言ってくれるじゃないか」
「また会おう」
不敵な笑みと共にメルムは世界に溶けた。ずっと開き続けたいた目を瞬くと、歪んでいた空間は何事もなかったかのように元に戻っていた。
「……」
沈黙が漂う。この状況を理解できた化物が何人いるだろう。時ヶ峰にいる化物の大半は終末を経験していない。それ故に戸惑っているのかもしれない。得体の知れない何かがいる。その事実は覆らないけれど、それを理解するには時間がいる。現に僕だってそうだ。疑問が疑問を呼び頭の中に山積みにされている。思考の糸が毛玉になる。どうやって解いてやろうか。それを考えると言葉は出てこない。
しかし、そんな緊迫した空気は一つの絶叫によって突き破られた。
「わ、私の森があぁあぁぁあああぁぁぁぁ!」
「ナ、ナトゥーラ!?」
「ちょっとちょっとアンタ約束が違うじゃないの! 森の被害は最小限に抑えるって言ったわよね!?」
「や、まぁちょっとしたイレギュラーがあったというか……」
「時ヶ峰の魔女様がそんな事に対応出来ないはずがないでしょ!」
「痛い痛い! 放せってこら」
「……なぁ泰樹、これは一体どういう状態なんだ?」
「あ、雫に姫路ちゃん無事だったんだね」
君のおかげで助かったよとは言わないで、適当に誤魔化しておこう。
「飯ヶ谷さんのお陰で何とかです。して、あちらの私よりも小さな方は?」
「あの子はね、この森を根底から支えている精霊だよ」
「精霊ですか?」
姫路ちゃんが心底不思議そうに首を傾げるのも無理はない。あの精霊の見た目はただの幼女だ。僕だって最初は何の冗談かと疑った。だってあんなに小学生という単語が真っ先に浮かぶような子が、この森を統べているなんて思いもしないじゃないか。
「全くもう。お姉ちゃんがいないからって好き勝手しすぎよ! 怒られるの私なんだからね!?」
「面目ない」
「本当に思ってるんでしょうね?」
「思ってる思ってる。というかこの原因はあいつだ。私じゃない」
「白鯨は今、アンタの管轄下である時ヶ峰の生徒なんだから校長が責任を取るのは当然のことでしょ」
「うぐっ」
「……あはは」
校長に指を指された僕は乾いた笑いで誤魔化す事しかできなかった。いや、本当にごめんナトゥーラ。




