羽休め No.002
天使を堕天させ、地界に行かせることだ。そうシルベラは言った。
「では一体、誰を堕とすか。いや、そもそも堕天とはどうするものなのか。天使長は色々な策を探した」
「ふむふむ。それで?」
「そして一つの結論に辿り着いた」
「結論?」
「あぁ。もう考えても始まらないと言うことで、さっさと一人地界に堕としてしまおう」
「何というかそれは、あまりにも大雑把過ぎやしないかい?」
彼は苦笑い浮かべながらクッキーに手を付ける。柔らかなクッキーと紅茶のバランスが素晴らしい。
「では誰を堕とすのか、という疑問がだろう?」
「そうだね。普通の天使じゃそんな大役は背負いきれないだろうし」
「そこで天界にいる全ての天使を集め大会を開いた。純粋に誰がこの天界で一番強いのかを決めるって趣旨でな」
人差し指を一本立て、ゆっくりと言う。
「一番強い奴が決まった。名を〝ケミル〟と言った。お前も聞いたことがあるんじゃないか?」
「世間知らずな研究者には分からないよ」
「それもそうだな」
苦笑交じりにシルベラは答えた。
「ちなみに君はどうだったんだい?」
「……聞くな」
当時の状況をしみじみとでも思い出しているのか、シルベラは悔しそうに口をへの字に曲げていた。その様子を彼は眼を細めて見ていた。だがその表情も直後シルベラの一言で引き締まった。
「そして奴が落とされた。涙を流しながら下へと堕ちて行った。あの涙を知る者は俺と天使長だけだ。まぁ、俺の場合は偶然居合わせたというか何というか。兎も角、俺はあの光景を一度も忘れたことは無い」
唇を噛み締めたその表情には後悔の念が伺える。
ケミル。奇跡を生み、審判を下す者。神に最も近いと称された天使。
そんな天使を堕とすと言うことは合理的なようにも見えるが、どうなのだろうか。
「それで結局、彼はどうなったんだい?」
「あいつは確かに堕とされた。門が開かれていた事から考えると、確かにあいつは大役を果たしたんだろうが、詳しいことは誰も知らん」
「なるほどねぇ。天使も天使で色々あったわけか」
「まぁな」
彼らのティータイムは決して優雅とは言えない。会話の内容は世界の裏側を、耳を澄ませば遠くから聞こえてくる悲鳴と爆撃音。ここが戦場と化すのも遠くはない。
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化物と少年は魔力を熾す。桁違いの常軌を逸した純粋な暴力と、世界の理を根底から覆す救い。
定義を宣言した彼らの表情は穏やかなものであった。とても今から殺し合いを、死合いをするような者が浮かべる表情ではない。
「人間にここまでの力が必要とも思わない」
「それを言うならお前にだって必要ないだろ?」
「いやいや私には必要だ。と言うか私だから必要だ」
「言っている意味が分からん」
「世界を壊すにはこれくらいの力が必要なんだ」
「ふむふむ。なら俺は化物から世界を救うのために、この力が必要だ」
分かり合えない。少年と化物は互いにそう感じた。そもそも始まりから道を違えている。仕方のない事なのだ。
「さぁ化物。楽しもうぜ」
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ある日、世界一の技術者は難題に直面していた。彼を悩ませるほどの問いとは如何なものだろうか。彼だからこそ悩む余地があり、彼以外であればすぐさま逃げ出してしまうに違いない。
「さっきから頭を捻っているがどうしたんだ?」
「うん。実はね、また新しい自立人形の製作要望があってね」
「お前なら何でも簡単に作れそうだがな」
「いやー、今回に関してはそうも行かないよ。これ見て」
そしてシルベラの眼前に突き出された一枚の紙切れには、冗談だと一蹴してもいいことが有無を言わさない単調な文体で書かれていた。
「禁術を付与させた自立人形?」
「無茶言うよねー」
「難しいのか?」
「難しいなんてもんじゃないよ。禁術って言ったら使う魔力量は尋常じゃないし、それに耐えられる体にしないといけないし」
心底うんざりだ、とでも言うように彼は頭を横に振る。しかし彼もれっきとした技術者だ。作れないなどと言う事は彼の誇りが許さない。
「それで今は禁術を一から調べてるんだよ。君の上司は気風が良いね。全部くれたよ」
机の上には五枚の紙切れが厳重に保管された状態で置いてある。この紙切れに記されている文が、世界を揺るがす魔法の始まりなのだ。だが彼が言うように、ただ読み上げるだけでは発動しない。それ相応の魔力量と資質が必要なのだ。一つの力を得る為には一つを対価にしなければならない。かたや時間であったり、かたや生命であったり。これが抗うことの出来ぬ理である。
「今のところ禁術を使うことは出来そうな感じ。問題はやっぱりそれに耐えられるだけの体を作れるか」
「……世界一の技術者の名は伊達じゃないな」
「はっはー。心外だねぇ。どんな魔法であっても使うこと自体は簡単なんだよ。魔力を熾せば良いだけだからね。それに足りない分はこの世界が補ってくれるし」
「大気中の魔力を取り込むのも大概だがな」
「今はそうかもね。でもいつかそれが常識になると思うよ。無詠唱だってそこそこ広まってきてるのだし」
珍しくしっかりとした話が続くことにシルベラは驚きを覚えていた。今まで彼が話すのは中身も無いただの戯言。紅茶を飲みながら、おどけた表情で語るいつもの仕草はそこには無かった。純粋に技術者の眼差しでこちらを振り返ることなく思考を続けている。いつだったか彼はこう言った。思考は早く遠くに飛ばすことで初めて成立するのだと。彼は今、その言葉通りの事をしている。常人でも化物でさえ及ばぬ場所に思考を飛ばしている。
そんな彼の背中をシルベラは天使だった頃のように優しげな眼で見つめる。彼の仕事シルベラが手を出すことは出来ない。やっている事を完全に理解できているのは彼以外に誰もいない。
「あぁー。もう無理。休憩しよう」
「……ほらこれもくれてやる」
「太っ腹だねぇ。ありがとう」
紅茶を淹れる彼に対していつからかシルベラは菓子を持ってくるようになった。最初はただの労いのつもりだった。けれども今となってはシルベラ自身もこの歪なティータイムを心待ちにするようになっていた。
人間であって人間でない技術者。
元天使であって現悪魔。
蓋を開ければ〝終末〟と称される戦場が広がる世界。
幸福なんてものはとうに消えた。そんな今だからこそ彼らは彼らである事が出来る。壊れかけた世界が彼らを容認してくれる。それを彼らは肌で感じ、眼では見ぬようにしているのだ。
「あ、今日はクッキーなんだね」
「ちょっとしたツテでな。今時あまっても食べる人もいないからって事で貰った」
「なるほどねぇ。じゃ僕はそれを終わらせるべく早いとこ自立人形を完成させなきゃいけないのか」
「お前の小さな手で作られている事が未だに不思議だ」
「余計なお世話だよ」
まるで兄と弟のような会話である。
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気がつけば彼は人が変わったように没頭していた。三日三晩、研究と製作の繰り返し。最後に何を食べたのか、いやそもそも食べたかどうかさえ思い出せない。今は生きていくうえで最低限必要な事に割く時間さえもが恨めしい。この力を使うことが出来る外装を作り上げなければならい。その使命感が彼を蝕んでいった。かつての優しげな雰囲気とはかけ離れた姿がそこにはある。
「……違う。これも失敗」
五つの禁術を全て付与させることは机上の理論でさえ簡単にはいかなかった。だから彼はこう考えた。限られた時間の中での最善策は一体何かと。そして行き着いた先が、三つの禁術を付与させること。その結論に行き着いてからもう五つの自立人形を作った。そして五つ目が壊れた。問題は山積みではないにしろ、一つ一つの問題が恐ろしく険しい。
最もな原因としては、やはり禁術の力に耐えることが出来ないことだろう。今回の自立人形には心はない。簡単な命令を理解する思考は持ち合わせているが、そこに自立人形の考えは無い。あってはいけないのだ。人形が自我を持ち、自ら考えて力を行使するようになってしまっては今回の依頼とは趣旨が合わない。
しかしそれでも禁術の与える影響は凄まじいもので、心の無い、自我の無いはずの自立人形が力に侵され溺れ廃棄せざるを得なくなっている。付与させることには成功した。残るはその問題だけなのだ。
「……少しは休んだらどうだ?」
「そんな暇はないんだよシルベラ。僕は早くこれを完成させないと」
乾いた笑いを浮かべる彼にシルベラは何も言えない。もう何もしてあげることが出来ないのだ。優雅なティータイムも、中身の無い無駄話も、ずっと昔の事のように感じていしまう。だからこそ、この選択は間違いなのだろう。振り切って彼を止めるべきなのだろう。だが、バラキエルは静止することなく、むしろ自分が静止して見守っている。それが彼にとって最高のお膳立てとなるからだ。
「俺は外に出ているぞ。気が向いたら差し入れてやる」
返事を聞くよりも先にシルベラは扉を閉めた。聞きたくなかったのだ。あの疲れ果てた声を。
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どれくらいの時間が経っただろう。数日だったか数ヶ月だったか。もしかしたら数年も経ってしまったかもしれない。工具の中に彼は身を投げる。今までの重圧を全て振り下ろすように、全身から力を抜く。
「やっと出来たよ、シルベラ」
視界が霞む。涙のせいかもしれない。疲労のせいかもしれない。でもそれよりも伝えないと。ずっと見守ってくれていたあの悪魔に。
「来なよ」
「……案外、時間がかかったな」
眼前のそれは未だ眼を覚まさない。胸元には玲瓏な水晶玉が煌いている。
「今から最後の仕上げなんだ」
「仕上げだと?」
「魔力を熾すんだ。そうすることでこの子の自我が目覚めるんだ」
「……」
「それから多分、殺戮が始まる。この子が持っているのは世界を壊すための力だ」
彼は徐に立ち上がった。それから水晶玉ごと胸の中に押し込み、力の限り握り砕いた。ほどなくして、化物が眼を覚ます。
「ようやく眼が覚めたかい」
虚ろな赤い瞳を揺らすそれに反応はない。
「君には力がある。禁術と言われる力だ」
震える声で彼はそう言った。
「君は今から沢山の命を奪うことになるだろう。そんな君を作ってしまった僕を、どうか許しほしい」
赤い瞳のそれに悪魔のような黒羽は生えていない。さながら人間のような姿だ。それはもう一度眼を閉じ、それから再びゆっくりと眼を開いた。そして、勢いよく空へ舞った。羽を持たぬそれが空を飛べたのは魔法のおかげ。
一人なった彼は星の瞬く空を見上げ、立ち尽くしながら呟く。
「君の名に相応しい空だねぇ。〝静寂の悪魔〟くん」
優し気な眼元には、小さな小さな雫が溜まっていた。
「シルベラ、君だってそう思うだろう?」
「……そうだな」
一人の人間と一人の悪魔は、静かな星空を見上げながらそう短く言葉を交わす。
「あの名前はね、僕の願いが込めてあるんだ。悲鳴が続くこの世界を、安らかな静寂で包み込んでほしいっていう私の願いが」
「それで〝静寂の悪魔〟なのか」
「うん」
二人は空に輝く星でも、遠くで聞こえる理不尽な音でもない、何かを見つめ聞いている。
後に、この静寂の悪魔と呼ばれる自律人形はシルベラの下へ行く。そして自律人形ではなく悪魔として人間の世界で生きていく。その際に名前が必要だろうとシルベラは考えた。世界一の技術者と、天使と悪魔、それからこの世界が流した涙を忘れないように。。
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「おいこらポンコツ。あれだけあった食材がことごとく消えているんだが……?」
「いやー、不思議なこともあるんですねぇ」
「……」
「待ってください待ってください。落ち着きましょう? かよわい天使に拳を硬く握るのは流石に駄目ですって!」
「大丈夫だ。叩き起こすときよりは弱くしてやるから」
「いや本当そう言う問題じゃ、ぴゃー」
世界は今日も随分と平和である。




