十翼目
私の一日は飯ケ谷さんに叩き起こされる所から始まります。毎日毎日同じ方法で起こされると意外と慣れてしまいますね。私は本当に朝が苦手、というか嫌いなので飯ケ谷さんが起こしてくれるのは助かります。なのですが、一応は私も女の子ですのでもう少し優しめに起こして欲しいと言うのが本音です。
「さっさと顔洗ってこっち手伝え」
「ふわぁい」
飯ケ谷さんは既に朝食のハニートーストを焼いていました。蜂蜜の甘い香りが少しだけ眠気を覚ましてくれます。洗面所の鏡で自分を見ると、本当に天使なのかと我ながら思います。自慢の金髪はあっちこっちにぴょこぴょことはねて、碧い瞳は少しばかり淀んで見えます。冷水に顔をつけて無理矢理でも、意識を覚醒させます。うぅ、眠いですよ。櫛で大まかに髪を梳かしたら、飯ケ谷さんの手伝いをするので髪を後ろで束ねます。本来私は髪を結う事は好きじゃなくて、何もしないでいるのが好きなのですが、料理をする時だけは衛生関係云々で結ぶようにしています。
「改めましておはようございます」
「おう。じゃ、そっちの野菜切っといてくれ」
「はーい」
飯ケ谷さんはいつも決まって初めの指示しか出しません。それは私が使えるからなのでしょうか。そういう事にしておきましょう。多分飯ケ谷さんは私が調子に乗らないように絶対に褒めてくれたりはしませんからね。時たま褒めてくれることもありますが。本来なら私は一人暮らしをする予定だったので、天界で家事全般は熟せるように沢山させられました。かなりスパルタで教えられたので絶対に忘れる事は無いと思いますね。
野菜を千切りして、飯ケ谷さんにバトンタッチです。そうしたらまだ次の仕事が待っています。お弁当に入れるお肉を焼いていきます。その間に飯ケ谷さんは、他に軽く食べられる物をサクサクと作っています。本当にこの悪魔は悪魔らしくないですね。天使である私以上に料理スキルが高いとかなんなんですか。お母様に鍛えられたとか言ってましたが、一体どんな人間なんでしょう。まぁシルベラと結婚するぐらいですからね。相当肝の据わった方だとは思います。
「こっち全部終わりましたよ~」
「あいよ。じゃ、あとは皿を並べてくれ」
「了解でーす」
コップとお皿を二つずつ取って、テーブルに並べます。私は水しか飲んでいなかったのですが、最近飯ケ谷さんが炭酸水というものを教えてくれたおかげで、また新しく気に入ってしまいました。シュワシュワしていてサッパリで、とっても飲みやすいです。対する飯ケ谷さんは、基本的に朝はレモンティーしか飲みません。コーヒーを自分で淹れて飲んでいるのを何度か見かけているので、私が淹れましょうかと尋ねたところ、私の技術では不満があるようで一向に飲んでくれません。飯ケ谷さんが特別こだわりが強いのか、それともコーヒー好きは皆そうなのかは分かりませんが、まだまだ私では駄目なんですね。しょんぼり。
「よし、じゃ食べるか」
「そですね。いただきます」
向かい合って手を合わせて食べ始めます。テレビではニュースキャスターが爽やかに、情報を伝えてくれています。この人達がいるから、人間の皆さんは朝からも頑張れるのでしょうね。しかし女子アナという職業はかなり狭き門なんだとか。それでもここに立っている人間は別に特別だったわけではなく、努力で門を開いた人たちなのでしょう。まぁ、当然のことですが努力しなくてもこじ開ける人もいますけどね。羨ましい限りです。
「飯ケ谷さんは音楽とか聴くんですか?」
ちょうど音楽の話題をやっていたので聞いてみました。
「割と聞いている方だとは思うぞ。魔法開発の時とかはかならず聞いてる」
「へぇー。なんだか意外ですね。飯ケ谷さんは何もない中で黙々と作業してそうなイメージでしたが……」
「あぁ。俺は逆に音が無いと捗る作業も捗らないからな。音楽って偉大なんだぞ」
「確か、色んな種類の音楽がありましたよね」
「沢山あるな。でも俺は特にこれと言った曲ないぞ」
「今度聞かせてくださいよ」
「別に構わないぞ」
悪魔、というか飯ケ谷さんの新たな一面が発覚しました。天界でも似たようなものはありましたが、人間のように沢山の種類は無かったですからね。楽しみです。
朝は大体こんな感じでのんびりゆったりしてます。普通の高校生よりも私達の活動開始時間は早いので、時間にはかなり余裕があります。ですが飯ケ谷さん曰く、あまりのんびりし過ぎると学校に遅れてしまうらしいので注意が必要です。という訳で、そろそろ良い時間ですし学校に行きますかね。
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学校の授業には概ねついていけていると思います。言語系は天界の基礎教育でやりましたし、人間が知っている程度の歴史なんてちょちょいのちょいですよ。何故私が急にこんなことを言い出したのかと言うと、今日は先週のテストが返却されるそうだからです。どうしましょうすっかり忘れていました。そもそもテストをしたこと自体を思い出せません。
「次、飯ケ谷」
ゆっくりと立ち上がって飯ケ谷さんは答案を取りに行きます。にしてもつまらない表情ですね。他の皆さんが点数しだいで一喜一憂しているのに対して、いつにも増してつまらなそうです。信仰の白鯨もとい、東さんの点数を確認したら再び突っ伏しましたよ。点数が良かったのでしょうか?あ、私の名前が呼ばれましたね。まぁ、返されているのは世界史ですし割と良い感じだとは思いますけどね。
「おぉ、姫路ちゃんも良い点数取るね」
「も、ってなんですか。も、って」
「いやほら、歴史関係は雫が本当に強いからね」
「何点ですか飯ケ谷さん」
「あぁ? ほれ」
そう言って適当に放り出された紙には、一と零が二つ並んでいました。
「悪魔なんかに負けるなんて……」
「膝から崩れ落ちるな。失礼だな」
「まぁまぁ。雫にしてみたら今回も余裕でしょ?」
「本当に簡単だった」
さも当然のように言ってくれる飯ケ谷さんが憎いです。私だって点数高い方なんですけどね。あぁ、でも飯ケ谷さんと言うか勝負事で悪魔に負けたのが悔しいです。大神様すみません。
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四限目も終わり私はいつもの場所に向かいます。渡り廊下を歩いていると、いつにも増して綺麗な新緑が眼に入ってきました。中庭の景色はいつ見ても絶景ですね。しかしまぁ、東側の森林にはもっといい景色があると東さんは言っていましたが、人間の世界とはこうも静謐で清涼感溢れる景色が沢山あるのでしょうか。手が加えられていない自然は、最近ではほとんど無くなってしまったようですがだからでしょうかね。本来の景色がより一層際立つのは。
そんなことを思いながら私は足を進めます。特別棟の階段を四階まで上がり、そこから更に短い階段を上がります。眼の前には見るからに重厚そうな扉がズンと立っています。ノブを回し、ゆっくりと扉を開けると青と白で彩られた空が悠々と広がっています。
私はここで昼食を取ることが案外好きです。学食と言う所にも足を運んでみたいと思う事はあるのですが、如何せん私は未だに人間が怖いので仕方がありません。人間が怖いというのは私がまだ小さかった頃の事が関係しているのですが、ご飯を食べるときに暗い話は思い出したくありません。それに、そのうち飯ケ谷さんたちも来るでしょうしね。
「おいこらポンコツー。炭酸買って来たぞ」
「いやはや、そういう雫はお決まりのお茶だけどね」
「なんか文句あるか?」
「いえいえー」
ほら、飯ケ谷さんと東さんがいつものように賑やかに来ましたよ。いつでもこの調子ですね。なんだかんだ言って飯ケ谷さんは随分と楽しそうに一日を過ごしています。思考回路は少々暗い感じで、人間とはあまり関わりませんが、化物と会話するのは楽しそうです。
「ほれ炭酸」
「有難うございます」
「それで、全教科返って来たわけだがどうだったんだ?」
「ま、ざっとこんな所ですね」
そう言いながら、私は現代文、古典、日本・世界史、英語を順に見せます。それぞれトップとは言えませんがかなりいい成績なのではないでしょうか。
「ふむふむ。全部九割以上か。凄いね姫路ちゃん」
「天界で叩きこまれましたからね!」
「で、残りの教科は?」
「……」
「残りの教科は?」
あう。飯ケ谷さんどうしてそんなに迫って来るんですか怖いですよ。視線を逸らしていると、遂に諦めたのか飯ケ谷さんはため息ともに手を引っ込めました。刹那、飯ケ谷さんは手を指揮棒のように一振り。その瞬間私の周りに少し強めな風が吹きます。そしてポケットの奥から紙が動く感覚。これは、もしかして……
「えっと、数学、化学、物理、生物……」
「ちょっと魔術は使用禁止でしょう!?」
「バレなきゃ問題ない。おいこら逃げるな」
「はーなーしーてーくーだーさーい! 自分でも見たくないんですよ!!」
「うわぁ、これまた酷い点数だね。文系科目とここまで差が出るんだ」
「まさかの追い打ち!?」
ポケットの奥底に何重にも折り重ねてしまっておいたのに、なんなんですか飯ケ谷さんの自作魔法。もう意味わかんないですよ。
「で、この点数は一体なんですか天使様?」
「……赤点ギリギリのラインです」
「なぁ泰樹、実際どうなのこの点数。アウト?それともセーフ?」
「本当にギリギリセーフだね。あと三、四点低ければアウトだよ」
「だって、理系科目苦手なんですよ」
そうなのです。実は、私は天界での教育の頃から理系科目だけは散々だったのです。特に数学と物理は、それはもう目を覆いたくなるぐらいには酷かったです。それでも、今回のテストよりはいい成績だったと思うのですが。もしやあれですか、人間の方が理系科目に関しては上だというのですか。そんな馬鹿な。
「天界だろうと何処だろうと基本は変わらんだろうに……」
「あうぅぅ」
「というか、良く今まで魔法が正常に作動したな」
「……どういうことです?」
「いやいや、空間操作系統の魔術は数学できないと駄目だろ。座標とか関係してるし」
「そうなんですか?今まで考えたこともなかったです」
「……お前今まで直感でしてたの?」
「というか皆さんそうなのでは?」
ありえない、と飯ケ谷さんは頭を抱えています。流石にオーバーだろうと思って、東さんの方を見ましたが、東さんは苦笑いしてました。あれ、もしかして本当にありえないことなのですか。だって今まで何も起こりませんでしたし、感覚と言うかパッとしてポンッみたいな感じでするのではないのでしょうか。そもそも魔法って超高度な自己暗示じゃないんですか?
「まぁ、確かに魔術を使う時には二種類に分かれるよね。一つは、雫のように計算で洗練された無駄のない術式。それからもう一つは、姫路ちゃんのように感覚で構築された少々無駄のある術式。まぁ、どちらにせよ動いていることには変わらないし使用者によるよね」
「へぇー。みんな私のように感覚でやっているのかと思ってましたよ。魔術とは超高度な自己暗示って教わりましたから」
「大半は姫路ちゃんのように感覚で使っているよ。かくいう僕もほとんど感覚だからね。雫のように計算されつくした魔術を使う化物のほうが少ないのさ」
「天界の試験で好成績だったて言うから、てっきり俺と同じなのかと」
「でも感覚で使ってると、魔力消費が思った以上に激しくて追撃できなかったり、気分次第ですこーし座標がズレたりするからちゃんと計算した方がいいんだろうなぁって思うよ。姫路ちゃんも経験あるんじゃない?」
「いやぁ、今まで魔力が枯渇したことはありませんので……」
「天使長と模擬戦した時もか?」
「はい。フェーラ様の方が先に切れかけました!」
「……マジか」
なにやら飯ケ谷さんは呆れた果てた表情で首を横に振っていますが、私おかしなこと言いましたかね?
「天使長の魔力量ってどのくらいだっけ泰樹?」
「軽く極大魔法を五発連続で撃てるくらいじゃなかったかな?」
「気持ちわるぅ」
「ひどい!」
こんな感じで私の昼休みはいつも楽しく過ぎていきます。監視対象である悪魔とこうも仲良くするのは、本来は駄目なのかもしれませんが、監視初日に正体がバレてしまいましたからね。完全に私が自爆しただけですが。まぁ、飯ケ谷さんは大神様とも面識があるようですし怒られることはないでしょう。無いと思いたいです。
「というかさっきのアレは何なんですか!?」
「魔力を混ぜた風の動きで何が何処にあるかを確認して、自分の魔力と風に混ぜた魔力を引き付けることで目当ての物を引き付けるっていう自作魔術」
「相変わらず変なのを考えるよね。それこそ計算されているというか」
「というかそっちの方が気持ち悪いです。気づかれないように風を使うあたりが特に」
「ちなみにその風は俺の手の動きと連動してる。便利だろう?」
得意げな表情で私を見るのは止めていただけませんかね。いえまぁ、ここまで洗練された魔法を自作できることは素直に称賛しますけどね。気づかれないように少量の魔力を混ぜ合わせ、それを自分の魔力で引き付けるとか普通考え付きませんよ。やっぱり悪魔と言うのは思考回路がおかしいのですかね。
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今日の夜は飯ケ谷さんが野暮用があるらしく帰りが遅いらしいです。なの、今日は私一人で料理をしないといけません。別に不安なわけではないのですが、飯ケ谷さんの家事スキルが高すぎて私の腕が落ちているように感じてしまいます。部屋にある食材は適当に使っていいと言っていたのでお言葉に甘えて適当に作りましょう。揚げ物は時間がかかるので今日はパスですね。さてさて、何を作りましょうか。
夕食を済ませても飯ケ谷さんは一向に帰ってくる気配がありません。よほど用事が長引いているのでしょうか。まぁでも、だとしたら好都合です。今のうちに仕事をしましょう。一応監視役ですので、飯ケ谷さんの動向を調査しないといけないのです。人間の世界に立ち入るのもそれが一つの条件でしたからね。勝手に部屋に入るのは少々気が重いですが、これが私の仕事なので仕方がありません。
「失礼しまーす」
飯ケ谷さんの部屋は思った以上に整理されていて、塵一つありません。取り敢えず本棚に向かい、何か面白い物はないか探します。沢山の本が並んでいる最上段にはなにやら怪しげなファイルがいくつかあります。一番新しいであろう右端の一冊を手に取り、表紙を捲ります。
「……なにやら本当に凄い事を調べてますね」
中に記されていたのは、この世界に歴史に関する記録でした。世界の歴史とは文字通りこの世界が出来上がってからの記録です。ですがこの歴史を全て知るのは、LostNo.と一部の精霊だけなはずです。何故彼らだけしか知らないのかと言うと、彼ら以外には自分を守る術がないからです。世界の歴史を知るためには対価として命を賭ける必要があると、大神様は仰っていました。なんでも知りすぎれば、歴史は重荷となり心身ともに蝕まれて、いずれは壊れてしまうそうです。どうして歴史が重荷となるのかまでは教えてはくれませんでしたが、知りすぎは良くないと言う事は分かりました。
一通り眼を目を通し、私は更に左側のファイルに手を伸ばします。先ほどよりも分厚く、何度も読み返したような感じがします。恐る恐る表紙を捲ります。
「なるほど」
大神様が、世界の歴史は重荷になると言うのが少しだけ分かったような気がします。歴史を知る為ならどんな手段も厭わず、落ちる所まで落ちてしまうのですね。
〝LostNo.2黒翼の災害/イザレの禁術について〟そう記されているページを私は眺める事しかできません。この先を捲ってしまっても良いのだろうかと、不安が広がります。
「……今はまだ、止めておきましょうか」
一年間の期限付きとは言えまだ時間はあります。そう急がなくても大丈夫でしょう。ファイルを元の場所に戻し、念のため気配が残らないように空間をリセットします。まだまだ私は飯ケ谷さんの事を何も知らないですね。なんだか飯ケ谷さんは私が思っている以上に、暗く深いものを隠していそうです。あぁ、これから少しずつ調査をしなければならないのがかなり大変になってきそうで心配です。
電気を消し、部屋を後にします。大したことしてないのに何故だかとても喉が渇きました。炭酸でも飲んでさっさと寝ましょう。疲れました。




