春
ここ数日というもの食パンの耳を齧って飢えをしのいでいる。四畳半のアパート、開閉する度にきしむ窓の桟に腕をのせ、落っこちそうな柵越しに、目くらい楽しもうとオレはそこから見える散りかけの桜を眺めていた。築年数50年を越える隙間風が当たり前みたいに同居しているこのアパートにある一つだけの贅沢だ。
そのアパートもこの間ついに二階へ上がる鉄骨の階段の十三段目に見事な穴が開いた。うっかり気を抜いて上がろうものならそこへ足を誘われる。つまずくだけなら運が良い。片足だけならまだまだ、最悪両足が見事にはまる。先日オレはその最悪を引き当てた。深夜の帰宅で少しアルコールが入っていたのが災いした。穴を避けることをすっかり失念し両足がずっぽりはまって動けなくなった。腕に力を入れてなんとか抜け出そうとしたが、サイズぴったりのジーンズが引っかかっている。まったく丈夫な生地であっぱれだ。草木も眠る丑三つ時、時刻は午前二時。望遠鏡の穴どころか階段の穴へこんばんは。他の住人は夜に出かけるというより、部屋の中で宴会を開くタイプですでに布団という安息の地に辿り着いているだろう。まさかオレも階段から足を生やす日がくるとは思わなかった。
さてどうしたものか。最低気温二桁と言えど風が強くとにもかくにも寒い。無事に動かせる腕で背負ったままのリュックを下ろして携帯を引っ張り出す。こんな真夜中に電話して出てくれる人に一人だけ心当たりがあった。祈るようにその番号へかけてみた。プルルルル、呼び出し音が数回こだまし途切れた。
「こんな時間に電話してきて!あんた今一番大事な時だって分かってる?」
「はい。すいません。無茶を承知で電話させていただきました。実はオレアパートの階段の穴にはまって動けなくなってるんです」
「今日ってエイプリルフールだったっけ?」
「四月十二日です」
「そーよ。パンの日よ。だからいつもより早く来て工房で作業してんのに、あんたってほんとバカ?」
「……バカだったのかもしれない」
「近くで良かったわね。丁度オーブンにパンを入れる時間だし。バカに免じてあんたの間抜けな格好を見に行ってあげる!」
ガチャン。恐怖の捨て台詞を残して電話が切れた。かける相手を完全に間違った。彼女が来る前になんとかここから抜け出さなきゃ人間としての尊厳が確実に失われる!
もう脱ぐしかない。幸いまだ辺りは闇の中。今ならきっと大丈夫!手始めに片方ずつ器用に足で靴を落とし、ジーンズのボタンに手をかけてチャックを下ろした。あとは足を出せれば抜けるはず。なんで電話する前にこうしなかったんだろうっと思ったが後悔先に立たずだった。
こちらへ近づいてくる軽快なエンジン音が耳に届く。彼女だ。夜中なのを良いことに法定速度を無視したスピードで近づいてくる。間に合わない。音が止まった。
「本当に見事な穴ね。どうして板を置いておかなかったの?」
「その手があったか!」
「そうよ。人間なんだから頭使いなさいよ。なんのための脳みそよ」
「ごもっともです」
どうしよう。泣きそうだ。泣いてスッキリできたらどんなに良いだろう。
「で、抜けれそうなの?」
「ジーンズを脱げれば」
「そう。階段があって良かったわね。あたしが下でジーンズを引っ張るから、思いっきりやるのよ? すぐに戻って次の仕込みをしなきゃいけないんだから恥じらってる時間はないわ!」
男前すぎる。いつからこんなに男前になったんだ?いや最初からか。初めてパン屋の面接に行った時も、彼女は焼きあがった食パンを乗せたケースを三段も左右にかかげ持っていた。オレが女だったら惚れるくらい格好良かった。慣れないと出来ないそのバランス技。商品をダメにしたらしめられるからオレは未だに両手で大事にケースを持っている。身の安全第一。
押さえられているおかげでずりあがることもなくスムーズに足が抜けていく。そして星が瞬く宙の下アパートの階段の上でパンイチで立つオレ。命拾いしたのかどうか分からない。
「ありがとうございます。もう大丈夫です」
「じゃ、パンツ姿でも拝ませてもらおうかな?」
「えええ?」
階段の穴からジーンズが引き抜かれ、視界から消えた。一体全体なぜ抜けなかったのかと不思議になるくらいだった。呆然とするオレの頭の上にどさっとなにかが落ちてきた。
「ひゃ!!」
「バカね。あたしにだって恥じらいくらいあるのよ?その代わり後でなんか奢りなさいよ」
エンジンのかかる音がして、颯爽と月が輝く世界へ彼女は走り去って行った。敵わない。手の平で踊らされてるみたいだ。おかしいや。なんだか喜劇みたいな一夜で、オレは笑わずにこの夜のことを思い出すことが出来ない。
四畳半の部屋の中。食パンの耳を齧っていたら耳慣れたエンジン音が聴こえてきた。オレがパンの耳で生活を切り詰めているのには理由がある。
今では板で蓋をしてある階段を駆け上がってくる足音、ノックもせずに開く扉。
「ただいま」
「おかえり」
「ねえ寒くないの?」
「最後の桜だから見てたくてさ」
「ふーん。じゃあ団子でも食べる?」
「君は相変わらず花より団子だね」
「なんか文句でもある?」
「いや、パンの耳しかなくて申し訳ないなって」
「揚げて砂糖でもまぶそうか?美味しいよ」
「お願いします」
「了解!」
早速フライパンに油を薄く満たしてパンの耳を揚げ始める彼女を眺める。
一夜で一変した世界。失ったと思ったらそうじゃなかったなんて世の中どうなるか分からない。あの日がパンの日じゃなかったら、開店が遅かったら、違う人が出たら、携帯の電源がなかったら、素面で機転が利いていたら、彼女は電話には出なかっただろう。
「砂糖がすずめの涙くらいしかないじゃない。ちょっと買ってきて」
「はいはーい。じゃあいってきます」
「いってらっしゃい。ついでに油も買ってきて」
「了解」
すっかり所帯染みた気がするけど、まだ一つアイテムが足りない。
オレはその為にパンの耳を齧ってる。たまにはオレが男前になったって良いじゃない?そんなことを考えながら花びらでピンクに染まった道を歩いた。
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