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イカロスの誘惑

作者: 桐生星男

 重大な夢を見ていたけれど忘れた。

 目が覚めると僕は遠くの方の空で紐の中にいた。

 紐の中は狭く細胞のブロックがぶつかり合う隙間もなくて、冷たい。寒い。どうにか抜け出そうと思って体をぐりぐりと動かしてみたけれど、中はブラックホールのようにガチガチに固まっていて身動きが取れない。声を出してみようと思ったけれどダメだった。僕は学校に行かないといけないのに。僕はがっこうにボクハガッコウニと何度か思っていると、僕は布団の中にいることに気付いた。遠くの紐の中の僕と、布団の中の僕。マンションの八階、自宅の部屋の布団の中の僕は明らかにニセモノだった。

 ニセモノの僕は布団の中から目だけを動かして部屋の中を眺めてみた。タンスが湾曲しながらせり出し覆いかぶさって来て、天井が目の前にある。タンスは倒れ込みそうになるまで曲がるしどんどん部屋は狭くなる。ああ、部屋が狭くなるんじゃなくて僕が膨らんでいるのか。でもこんなに狭い部屋だったっけ、どうなるんだろう。と思っているうちにも部屋はぐんぐん狭くなっていき、僕は天井に押し付けられるようで息苦しくなった。布団は重いし天井は息苦しい。

 僕は天井の隙間にどこか抜け道がないか探してみた。天井はブロックでぎっしり埋め尽くされていた。息苦しいはずだ、どこにも隙間がない。黒、白、黒、白。天井は隙間なくブロックで埋め尽くされているけれど、これ以上巨大化したら僕は天井に飲み込まれてしまうに違いない。ああ、僕が本物の方の僕だったら! 本物の方の僕だったら隙間なんてなくても通り抜けられるのに。本物の方の僕は白い紐の中で風に揺られてプランプランしている。中はブラックホールの黒でぎしぎしに詰まって身動きが取れない。

 滝のような汗の中でうんうん唸っていると、遠くの方で何か聞こえた。今僕の耳はニセモノの方だから、どんなものも遠くに聞こえる。今聞こえたのは誰かの声みたいだった。どうにか聞き取ろうと、ようく耳を澄ませてみた。恋人の綾子だったらいいのに。綾子だったらどっちが本物の僕か、一目で見抜けるはずだ。何しろ僕はもう膨らみすぎていて、このままでは部屋の中にいられないくらいだからだ。本物の方はぎちぎちでもがいてはいるけれど、確かに僕に違いない。そこで僕は強く念じてみた。綾子、綾子、綾子。僕は綾子の制服のスカートの、チェックの柄を思い出した。赤、黒、赤、黒。ようく見ると赤は赤でなく、白だった。白、黒、白、黒、ああ、そうか、白が赤なんだ。白は何色にも変化する。そう思った途端スカートは巨大化して、ブロックとなって僕に覆いかぶさってきた。苦しい。そうだ、綾子の好きな色は白だったか黒だったか、どっちだったか思い出せ、早くしろ! 早く! ブロックの束が心臓の動きのように大きく小さく蠢きながら絡みつく。白、黒、白、黒、ちくしょう、あの声は綾子じゃなかったと言うのか。そうしている間にも天井は、膨らみすぎた僕に覆いかぶさる。

 声の主は綾子ではなくて僕の母親だった。あまりにも遠くから聞こえるから分からなかった。無理もない。本物の僕はあんなに遠いところでプランプラン揺れながら中でもがき苦しんでいるのだから。せめて風に揺らされるだけじゃなく、自分の行きたい方向に動ければ。だけどそうは動けない。もし自由に動ければこっちの、マンションの部屋で膨らんでいるニセモノの方に来れるのだけれど、そのためには少なくとも針の穴を通らないといけない。針に導かれながらこっちに来るしかないだろう。針だったら大丈夫だ。針なら真っ直ぐしているし、風にプランプランされない。それに針で僕の中を突き抜けて通ってゆけば、巨大化しすぎた僕はパチンと割れてたちまち元に戻るに違いない。そう思って身をよじりながら何とか針の穴を通ろうとするけれど、紐は風でプランプラン揺れるからなかなかうまく行かない。ああ、この紐の中から出られたら!

 母の声は遠くで僕に何か言っていたけれど良く聞き取れなかった。おかゆとお薬とか言っていたような気がするけれど、こんな時にそんなことを言うなんて馬鹿げている。やっぱり綾子じゃないとダメだ。人選を間違えた。それに、おかゆにスプーンだって?! 箸じゃなく、スプーンだなんて! 箸じゃないとダメだろう、どう考えても。スプーンじゃ布団は掴めないだろう! 僕は絶望的な気分になった。絶望的になりながら、僕はゆっくりと箸で布団をつまみ上げるところを想像してみた。布団は鉛のように重い。鉛のように重いくせに小さくちぢんでいるので一向に掴めない。布団はするっするっと逃げるように深く深く沈んでしまった。だけどスプーンだなんて馬鹿げている。スプーンでは布団も何も掴めないじゃないか!

 とにかくおかゆは諦めて、僕は薬を飲んだ方が良さそうだった。とにかく学校へ行けば綾子がいる。僕は薬の袋を手に取った。薬の袋には「お薬」と書いてあって下に何かが書いてある。お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お薬、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お、お。お? 「お」が本当に「お」なのか分からなくなってきた。「お」は「お」のところが黒で他は白、ただそれだけ。天井を見るとびっくりするほど目の前にブロックはあった。ブロックの隙間はまだ見つからない。僕はここから逃げ出さないといけない。そして学校に行かないといけない。僕はがっこうにボクハガッコウニボクハ……。

 とにかく僕は何とか薬を飲んで、本物の方に意識を集中させた。紐の中から抜け出すことはもうとっくに諦めて、とにかく針の穴を通ることだけに集中してみた。表が白で、中がギシギシで黒。ああ、巨大化した僕なら何とか紐を穴に通せないかな? だけど巨大化した僕は、布団に縛り付けられた上、天井に押し付けられている。箸もない! タンスは歪んで覆い被さって来るし、綾子はいない。お薬は、お、お、お。「お」と「の」は似ている。おのおのおのおのあやこ。ああ、「あ」も似ている! 今、僕はエロスを見た。強烈な小野綾子。チェックのスカート。プラトンのエロスはプラトニックラブ。嫌だ! そんなのはイヤだ! 僕は僕は僕は、ガバリと布団から起き上がった。

 起き上がった拍子に天井がガン、と遠くへ逃げた。ほほう! そうきたか、と感心している間にも僕はまた膨らみはじめる。天井が迫ってくる。息苦しさがまた増してきた。もうこうなったら自棄だ。飲み込むなら飲み込んでみろ。僕は、ひょい、と天井に向かって飛んでみた。ガン、と天井が逃げた。ヒョイ、と飛んで、ガン、と逃げる。ヒョイ、ガン、ヒョイ、ガン。素晴らしい! もう僕は、いても立ってもいられない。もう限界だ。綾子に会いたい。会わなければ。今すぐ! 僕は玄関まで走った。玄関が逃げていく。僕はふらふらになりながら追いかけた。すうっ、と逃げていく。みんなが逃げていく。エロスが逃げていく。逃がすものか! 僕は思い切り玄関のドアを開けると、空にプランプラン揺れている僕を見た。

 ああ、すぐそこじゃないか。ずいぶん遠くにいると思っていたのに。膨張し続けたおかげで僕は、プランプランの本物の僕に手が届く。と、思って手をのばしたらあと少し足りなかった。届きそうなのに届かない。手すりに腰を預けて下を覗くと、八階なのに地面がすぐそこだった。そういうことか。だったらもう躊躇はいらない。それより早くしないと。僕はもう膨らみすぎた。こうなったらあれしかない、でんぐり返しだ! この手すりから身を乗り出して、向こう側に一回くるりとまわればすぐに、手は紐に届くはずだ。そしたら針に糸を通そう。そしてやっと綾子に会える。僕は綾子の白い唇を思い出した。もういても立ってもいられない。いますぐ! 今すぐにだ! 僕は目をしっかりと見開いたまま、ヒョイ、と飛び上がってでんぐり返しをした。

 宙に浮いた僕は、空を見た。マンションの屋上の向こう側、晴れ渡った青と白い雲。急速に縮んでいく僕。ああ、そうか。縮んでいけば、落ちずに宙に浮くんだな。これは大発見だ。ぐんぐんと縮んでいく。膨らんでた時予想したように地面をごろりと転がることは出来ない。ぐん、となって、すうっ、となった。ああ、思うようには、いかないもんだな。背中にスカスカの感触が触れ、空が遠くなって、最後に風の音だけが聞こえた。

 綾子、だけど僕は宙に浮いているよ。綾子、僕は空を――。

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― 新着の感想 ―
[一言] 初めまして。雨霧です。 読まさせていただきました。文章の構成が非常にお上手な作品であると感じました。アイデアも独創的で、また切迫した彼の心理状態をつぶさに描写していたと思います。 ただ、…
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