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第一章 the first moon 6

 何も変わらないと思っていた。

 僕は駄目な人間だし――根本的な能力自体が低いくせに、それを克服する努力をしようとしない。自己愛ばかりが高くて、周囲に興味を示さない。世界と繋がりを――持とうとしない。そのくせ、自分に対する評価にばかり敏感で、能力もない、努力もしてないくせに、何よりも評価を望んでいる。――人に愛されることを、望んでいる。今の自分にとっては、この学校こそが全てで、このバスケ部こそが全てで――何もしてないくせに、『ここは自分の居場所ではない』なんて、手前勝手な理屈ばかりこねている。昨日、梢に語った台詞――本当は、自分に向ける言葉だったのかもしれない。

 でも生憎、そんなことを言ってくれる人間などどこを探してもいない訳で、理屈で分かっていたとしても、今さら腐った性根は治らない訳で。

 ――どうしろって言うんだよ。

 何も変わらないし何も変えられない。僕は僕のままだし――いつまでたっても、何も――変わりはしない。

 そう思っていたのだけれど。

 昨日の一件で、少し流れが変わってきた。変わってきた――のだと、思う。自分を変えることはできないけれど、ねじくれた性格は変えられないけど――その傍らに、誰かがいてくれたのなら。心の支えに、なってくれるのなら。少なからず、傷を負うことは少なくなるだろうし――。

 

 梢を懐柔した翌日、その放課後――今日は普通に練習を終え、幸か不幸か、梢も無茶な仕事を押し付けられることもなく――僕は至って普通に下校しようとしていた。

 蒸し風呂状態の体育館内に比べると、屋外の空気は格段に涼しくて、近くの田んぼで奏でられる蛙の合唱さえ心地よく感じられる。……正直、今ぐらいが一番過ごしやすい。身を切るような寒さもなく、質感を感じさせる程の湿度もなく――かと言って、押し付けがましい陽気さえない、まるで抵抗の少ないこの空気――一年の中で、一番過ごしやすいこの時期、この時間帯。いつもは不快に感じられる月の光も、今日のこの日ぐらいは――

 と。

 上空を仰いだところで……僕は屋上に人影を見つけたのだった。

 音楽室や美術室等の特別教室や、文化系の部室が集まる南教室――普段は立ち入ることの少ない建物の一番上――何者かの姿がシルエットとなって映っている。

 時間は六時半。校舎が施錠されるのはもっと後だから、一応、人の出入りは可能なんだけど……こんな時間に、屋上で何をしているんだろう?


 まさか、飛び降り自殺――? 


 やめておけばいいのに、興味を覚えてしまう僕。と同時に、次に何をするべきか、頭の中ではすでに決定していた。こんな積極的な動きを見せるなんて、いつもの鈍重な僕からは想像もつかない。

 ――自殺を、阻止する――。

 もちろん、僕は人の生き死になどには興味はない。死にたければ死ねばいいし――生きたければ生きればいい。本当に、どうでもいいことだ。

 だけど。

 その時の僕は――不思議と、その人物に興味を持ってしまった。珍しく物事が順調に進んでいたせいかもしれない。臆病で卑怯で卑屈で貧弱で、何者とも何事とも――世界とも――何の繋がりもなく生き、死ぬのだと思っていた。それが、この数日で変わってきた。橘と、末永と、渡辺と、そして梢と関わることで、僅かではあるけれども、風向きが変わってきた。そんな気がする。

 能動的に接触を試みることで幾ばくかの繋がりを持てるのならば――少なくとも、その機会を逃すべきではない。

 これはチャンスなのだ。

 世界と繋がりを持つということ。

 世界に僕の存在を示すということ。

 僕という人格を、肯定してもらうということ。

 それはひどく漠然とした――まるで論理的とは言えない、曖昧でぼんやりとした期待だったのだけど。

 僕は、何故か確信していた。

 ひょっとしたら、変えることができるのかもしれない。

 抵抗の少ない夜気を切り裂くように、僕は駆け出していた。


 人気のない昇降口を通り、廊下を走り、階段を昇っていく。さすがに照明は全て落ちていて、薄気味が悪い。閉め切っているためか、屋内はひどく蒸し暑い。汗で長袖シャツの背中が張り付いて、気持ち悪いことこの上ない。僕は不快さを振り払うかのように、一段飛ばしで階段を駆け上がっていく。

 あっという間に、一番上のフロアにまで到達していた。三階のさらに上、階段を登り切ったところにある、普段は立ち入り禁止の、二畳ほどの広さしかないコンクリート空間。目の前の扉を開ければそこは屋上なのだけれど――当然のように、施錠されている。職員室か管理室かどこかにある鍵がなければ、開くことができない。……じゃあ、さっき見た屋上の人影は? この扉以外に入る場所などないし――まあ、真下の教室のベランダからよじ登ることもできなくはないけど、現実的に考えにくい。だったら――

 ――と。そこまで考えたところで、扉の右下にあるごく小さな窓の存在に気が付く。脇には埃のかぶった木箱が積み重ねられている。何が入ってるのかと覗いてみれば、何てことはない。鋸や鉈、金槌といった工具が雑多に詰められているだけだった。まあ、そんなことはどうでもよくて、問題はその横の小窓だ。スライド式の曇りガラスがはめられたその窓は床近くに設置されていて、やたら横に細長かったけど、腹這いになれば、大人でも充分入り込める大きさだ。

 そして案の定、その窓の鍵は開いていて。


 屋上に出た僕の頬を、湿った風が掠めていく。意外なことに、その場所は校舎内よりもよっぽど明るかった。校門近くの水銀灯の明かりがここまで届いているからだろうか。それでも薄暗いことには違いないので、足元には充分注意をして歩かなければいけない。普段、人の出入りがないので、どこかからか風で飛ばされてきたビニール袋や新聞紙くらいしか落ちているものはないのだけれど、配水管らしきパイプが無秩序にうねっているため、それなりに危険なのだ。

 確かさっき見た時は、この辺りに――


「……意外なところで、意外な人間に会うもんだな」


「あわぁっっっ!」

 背後からの声に、慌てて振り返る。やめてくれないかなあ。背中から声をかけられるのは本当に苦手なんだから。……そんなことはどうでもよくて。

「だ、誰っ!?」

「そんなに驚かなくてもいいだろうに」

 振り向いた先、屋上の隅にある給水塔から姿を現した人物――それは僕のよく知っている男だった。薄暗くてよく見えないけど……間違いない。細身の体に鋭角的な顔つき、黒縁のメガネ――同じ部の、辻岡慎哉だ。

「辻岡……? 何、やってんの? こんな時間に、こんな所で……ビックリしたじゃないのさ」

「俺はお前の声に驚いたけどな」

 とてもそうは思えない、いつも通りの無表情で彼は近付いてくる。

「青山こそ、どうした。……第一お前、どうやってここに入ってきたんだ」

「小窓が開いてたから」

「……そうか。木箱で隠してあった筈だけどな。戻すのを忘れていたか」

 小窓の横にあった工具箱か。どうやらこの男、あの木箱をズラして入ってきたらしい。鍵は最初から掛かっていなかったということか。

「それより青山――何しに来たんだ。こんな時間に、こんな所で」

 大して興味もないような、平坦な口ぶりで辻岡が聞いてくる。

「いや、僕はさ、屋上に人影が見えたから、何か変なコト考えてる奴がいるんじゃないかと思って――」

「……自殺すると思ったのか? お前は、俺が死ぬような人間に見えるのか?」

「――いや、そもそもそれが辻岡だと気付かなかったし。てか本当にどうしたの? 辻岡、何か怖いよ?」

「フン……怖い、か。まあ怖いだろうな」

 そう言ったきり、口を噤んでしまう。何だか、さっきから露骨にはぐらかされている。どうも、死ぬつもりはないみたいだけど……だとしたら、それはそれで意味が分からない。一体、どんな理由があって――

「深い意味などない」

 辻岡は呟く。

「ここは随分と――見晴らしがいい。ここに来ると気分が良くなる。自分の悩みなんて本当に下らないことなんだって、思い知ることができる」

 韜晦するようにそう呟き、辻岡はその場に腰を下ろす。あぐらをかき、眼鏡を外して――疲れているのか、両目をぐりぐりと揉んでいる。暗くてよく見えないけど……僅かに、その目の下には濃い隈が浮かんでいるように見えて。

「――最近、よく眠れないんだ。不眠症ってやつかな。黒縁の眼鏡は隈隠しにちょうどいいと親に勧められたんだが――全く、仮にも医者なら、息子の不眠症くらいどうにかしてほしいもんだ」

 辻岡の父親は郊外で小さな医院を営んでいる、と聞いたことがある。跡取り息子である辻岡も、当然のように医学部を目指しているのだとか。

「――フン。医者の息子だからって、誰も彼もが医者を目指すって訳でもないと思うんだが……全く、俺も凡庸な人間だな」

 無表情な辻岡から吐き出されるその言葉が、屋上の夜気に拡散していく。

「……凡庸ではないと思うけど。辻岡なんて、勉強もできるし、バスケだって上手いし、僕から見たら充分凄いと思うけどな」

「凄くなどない。上には上がいる。俺なんかがどれだけ努力しようが、一位にはなれない。……昔からそうだった」

 別に一番である必要なんてないと思うけど。努力して結果出して、それで評価されて認識されて――それで充分の筈なのに。

 だけどこの男は。

 ……自分の努力を、才能を、評価を、ひどくつまらないモノのように語っていて。僕は何と声をかければいいか、分からなくて。

「――何て声をかけたら分からない、って顔をしているな。別に、無理に調子を合わせる必要はない。これは俺の問題であって、お前には全く関係のない話だ。俺だって、端からお前に理解できるとも思ってない」

 うわあ、けっこうな勢いで突き放されたなぁ。まあ、もちろんそりゃそうで、僕に理解できる訳がないんだけれど……。センスと才能、運とチャンスに恵まれて――恵まれすぎているが故に欲が出て、ナンバーワンになれない現状に満足できず、満足を不満としか認識できない贅沢な悩みなど、どうして理解できようか。

「そりゃ理解なんかできないよー。僕馬鹿だしさ――頭良くて、将来の夢もはっきりしてる人が、何を悩むんだろうって感じ」

「――夢なんて、大層なものでもない。俺なんて、ただ流されるままに流されているだけだ。そこに俺の意思などない。底が知れてる。全く……面白くもない。もっとも、こんなのは悩みと言えるほど高尚なもんじゃなく――全国の高校生が何となく思っている、至って平凡な、流れに流される中で誰もがふと思う、特徴のない思考にすぎないんだけどな」

 つまらなそうに、当たり前のように、あくまで韜晦するように、辻岡は呟く。この男、さっきから聞いていれば、しきりに自分のことを『平凡』だの『凡庸』だのと評しているけど、そんな人間を妬んでいる僕はどうなるのだ。辻岡が言うところの『全国の高校生が何となく思っている』次元にも達してない、ただ自分の無能を嘆くだけの、僕みたいな人間は――。

「じゃあ、僕は平凡以下だねー。辻岡の『普通』は、水準が高すぎるってば」

「……何も学力や成績云々の話をしている訳じゃない。俺なんて、程度の知れた人間だってことさ。誰からどう見られようが、どう評価されようが、そんなもの関係ない。俺は俺だ。底が知れている」

 やっぱり僕には理解できない。 

 人間の存在なんてのは、価値なんてのは、誰からどう見られるか、どう評価されるかで決定するものなのに。いくらその人間が優れていても、正しくても、美しくても――周囲からそう判断されなければ、何の意味もないに決まっているのに。

 だいたい、矛盾してないか? さっきはナンバーワンになれないことが不満みたいなことを言ってたくせに。人の目を気にしているのかしていないのか、はっきりしてほしい。

「――そんな顔をするな。何度も言っているだろう。俺は俺。お前はお前――関係ないんだ。価値観も判断基準も人それぞれだ。俺には俺の、お前にはお前の都合があって、事情がある。それは決して比較して優劣を決めるべきことではない」

 どこか悟ったような言葉を吐く、辻岡。

「だから――

 お前も、何も気に病む必要なんてないと思うんだけどな」


 瞬間、心臓を鷲掴みにされたような気がした。


「……え?」

「お前は人の顔色を気にしすぎなんだよ。何を怯えているんだ? 何を畏れている? 自分を押し殺して、ヘラヘラと過剰に明るく振る舞って、実際よりも愚かなふりをして――それでお前は楽しいのか? そこまで自分を演出せずとも、誰もお前を嫌わないし、誰もお前を排除したりしない。そうだろう」


 ――見抜かれている。

 ――見透かされている。

 そんな。

 そんなそんなそんな。

 僕はいつだって、自分の想いを、迷いを、憤りを、絶望を、誰に語るでもなく誰に見せるでもなく、心の奥へ奥へと封じ込めて――決して真意を語ることなく――偽って(かた)って騙して欺いて――それこそが僕の真実だと、信じて疑わなかったのに……。

「心配しなくていい。お前が思うほど、皆お前のことなど気にしていない。お前が思っている以上に、世間てのは無関心にできている。興味があるのは自分のことだけだ。どんな感情も、どんな感傷も干渉も、全ては自分のためだ。人は自分のためにしか心を動かさないし、自分のためにしか動かない。人と人との繋がりなど、全てまやかしだよ。どれだけ他者を思いやっているように見えても、結局は自己完結した自己満足だ。自分のことを制限できるのも、管理できるのも自分しかいない。他人なぞ関係ない。

 もちろん、高校生とはいえ、学校に通っている以上は世間と関わっている訳だから、最低限の交流やコミュニケーションは不可欠だろう。だけど――それを気にしすぎて身動きが取れなくなるようじゃ、本末転倒だ。お前は、もっと自分を出すべきだ」

 黙れ。

 黙れ黙れ黙れ黙れ黙れ。

 お前に何が分かる。

 知った風な口を聞くな。

 何も知らないくせに。

 何も分かってないくせに。

「僕は……僕は……」

 何も言葉が出てこない。無数の言葉が脳裏に浮かんでは消えて、頭は空転を続けるばかりで、適当な台詞が思い浮かばない。

 言葉に詰まる僕を尻目に辻岡は立ち上がり、フェンスに身を預ける。

「心配することない。誰もお前を傷つけないし、誰もお前を欺かない。周りを見れば分かるだろう。渡辺や椎名は善良で無害だし、末永や橘なんかは基本的に自分のことしか考えていない。峰岸は――あの男だけは、俺にも何を考えているか分からない。だが、少なくとも青山に危害を加えようなんて、これっぽっちも思っていないだろうな。そして俺は、見ての通り、無関心で無干渉な男だ。誰がどこで何をしようと、どうでもいいと思っている」

 だからって。

 卑怯で卑劣な本性を晒せと言うのか。

 ただ卑屈なだけの本音を語れと、そう言うのか。

「――フン」

 フェンスに重心をかけた辻岡は、僕を見下ろして、見下して、いつもそうしているように口角を上げただけの、人を小馬鹿にしたような笑いを漏らして。

「いつまで演技を続けるつもりなんだ? お前はお前だろう。お前にはお前の能力があって、お前にはお前の非凡さがある。それは誰と比較することでもないし、劣等感を覚えることでもない。もちろん、それを決めるのもお前なんだから――今のスタンスを貫くというなら、それはそれでいいのだと思う。俺がどうこう言う問題でもない」

 確かに言っていることは正しいのかもしれない。正論だ。だけど、正論はいつだって遠慮なく人を傷つける。人間の利己主義を語り、他者を切り離せと語りながら、その一方で僕の姿勢を否定して――

 嗚呼。

 この男はなんで。

 こうも高い位置から――僕を見下して、僕を見越して、僕を見透かして――物を言うのだろう。

 正面、全てを見透かす、傲慢で高慢な男が立っている。

 上空から降り注ぐ月の光を背にして――あの、導くでも結ぶでもなく、ただ無責任に、突き放すように照らす月光を受けて――。

 僕はもうこれ以上考えを覗かれるのが嫌で、顔を俯けた。目をぎゅっと閉じ、下を向いて。

 どうしてだろう。

 辻岡の語る内容は、決して僕を糾弾するようなものではなく、むしろ許容さえしているようにもとれるのに。そこには、僕があれほど渇望した『理解』と『受容』がある筈なのに。

 誰と比べる必要もない。

 自分が劣っていると悲観する必要もない。

 何も厭わなくていい。

 何も、気にしなくていい。

 それは、僕がずっと待ち望んでいた言葉の筈だったのに。


 どうして、躰の震えが止まらないんだろう?


 やめてくれ。

 やめてくれ。

 やめてくれ。

 汗ばんだ躰が急激に冷えていく。怖くて悔しくて情けなくて恥ずかしくて、僕は躰を強張らせ、唇を噛んでただじぃっと――その場で棒立ちになることしかできなくて。


「一人になりたくてこんな穴場を見つけたってのに……今日は喋りすぎたな。説教なんて、柄でもないのにな」

 ギィ、とフェンスを軋めかせ、辻岡が移動する。攪拌される夜気、近付く衣擦れの音。

「でも、まぁ……それなりに楽しかった」

 すれ違い様、辻岡が俯いたままの僕に声をかける。


「お前――面白い奴だな」


 辻岡の足音が、遠ざかっていく。

 僕は微動だにすることができず、ただその場で木偶のように、俯いていることしかできなくて。

 どのくらいの時間が経ったのだろう。

 神経が昂ぶっているくせ、全身から血の気が引いていて、寒気すら覚える。無意識に拳を握りしめていたらしく、爪が掌に食い込んで、痛い。

 ようやく正気を取り戻した時、屋上には誰もいなくなっていた。 ――帰ろう。

 体調が悪い訳でもないのに、足元がふらつく。

 貧血だろうか。

 いつまでもいつまでもいつまでもいつまでも、あの黒縁眼鏡の顔が脳裏にチラついている。

 この感情に何と名をつければいいのだろう。 

 驚愕、焦燥、羞恥、憤怒、畏怖、絶望――どこまで行ってもマイナスベクトル感情カオス。絶対値だけはいつでも振り切れているのに、期待値はどこまでも低い。

 やっと希望を見つけたと思ったのに。

 やっと、人並みに呼吸できると思ったのに。

 僕の演技を見抜いている男がいるだなんて。

 高い場所から見下ろして、突き放すような言動をとりながらも、僕の姿勢を指摘して、否定して、苦しまないようにすむ生き方まで提示してみせたりして。他人は他人と割り切って――そんなこと、僕に出来る訳はないのに。僕は一人では生きられない。どれだけ周囲を否定し、拒絶しようが、結局は誰かに支配され、依存しなければ、立っていることさえできない、脆弱な存在なのに。諦観して卑屈に笑ってみても、心のどこかで、評価されることを、必要とされることを、認められることを、愛されることを――望んでいる。

 僕はひどく苦労して、月明かりの照らす屋上から抜け出した。空虚な頭が空転を続けている。どうしようどうしようどうしよう。焦りだけが蓄積してろくな考えがまとまらない。駅前に駐められている自転車。邪魔。全力で蹴り倒す。

 そんな僕を、いつまでもいつまでも、月だけが見下ろしていた。


 帰宅したのはいつだっただろう。今日は、父親が家にいた。多忙な父親にしては珍しく、一日の休みがとれたらしい。とは言え、朝から酒飲んで、居間で潰れているだけだったけど。……もう一年近く、まともに話をしていない気がする。

 僕は鼾をかく父親を迂回し、奥の部屋へと進む。

 ――誰もいない部屋――ひどく、広い。それを認識した途端に、一度は治まった激情がまたぶり返し――意味もなく辺りを蹴っていた。タンス。扉。テーブル。本棚。誰もいない部屋。線香の臭いが鼻につく、湿った部屋。仏壇を蹴った勢いで、中の写真立てが音を立てて倒れる。僕はそれを壁に叩きつけようとして……寸前で思い直し、それを所定の場所へと戻す。

 なんで。

 なんで。

 なんで。

 なんで僕だけが。

 畳に額をつけて、声を押し殺して泣いた。自分の家なのに。誰に遠慮するでもなく、声を上げて泣いていい筈なのに……。

 あの月の光も、ここまでは届かない。

 だけど――なのに――何故、こうも息苦しいんだろう。

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