第一章 the first moon 5
橘と東条、高木が仲いいのは前から知っていた。
と言うか、女バスに限らず、橘には友達が多い。まあ、そのほとんどが、食事を奢ったり、高価なプレゼントをあげることで獲得した、ひどく希薄な関係ではあるのだけれど。金持ちは得だね。友情さえ金で買ってしまう。……そんなの、友達ではないし友情ではない、なんて反論は受け付けない。『女の友情』なんてのは都市伝説みたいなもので、耳にはするけど目にはしたことないし、まあそれを言ったら『真実の愛』とか『心が通じ合う』なんてのも立派な都市伝説だとは思うのだけれど。……てか、都市伝説って何ですか? その方面には詳しくないのでよく分かりません。
ともかく、彼女と東条・高木グループの間には交友関係が存在していた。だったらそれを利用しない手はないでしょう。
橘は末永に訳もなく振られて落ち込んでいた。
その理由はずっと不明だったんだけど――どうやら、末永には新しく好きな娘が出来たらしいと知る。
町田梢。
それが、末永が新しく狙っている娘の名前である。
言うまでもなく、それは僕が流したデマなのだけど。
渡辺や末永本人に確認すればすぐバレる嘘ではある。だけど彼女はそれをしなかった。当然だ。そんなことをする度胸があるなら、端からこんなややこしい話にはならない。
橘は僕から聞かされた話をそのまま女バスの『友達』である東条里枝や高木サチに話したのだろう。感情を込めて、誇張して、悲劇のヒロイン気取りで――さも、諸悪の根源が町田梢にあるかの如く。
彼女がどこまで計算していたのかは分からない。分からないけれど――事実として、その話を聞いた東条たちは、梢に敵意を抱き、実に分かりやすい行動に出ている。大事な大事な『友達』を傷つけた怨敵として、梢を攻撃し始めている。それが、今のこの状況の全て。
――もちろん、そのどれもこれもが、僕の計算したことで。
橘にダメージを与えるということ、
梢にダメージを与えるということ、
その二つの意味するところはまるで正反対だったのだけど……思いのほか、うまくいきそうだ。
僕は何もしていない。
ただ一つ――嘘を吐いただけ。
たった一つの嘘で、よくもまあ、これだけ物事が進むもんだ。人間って面白いね。本当に面白い。人間なんて醜くて弱くて大嫌いだけど――何だか、ちょっとは付き合い方が分かってきたかもしれない。機会があったら末永のバンドに参加させてもらおうかな。もちろん、担当楽器は三味線で。
「……大丈夫?」
午後六時半、体育器具庫にて。
「……センパイ……?」
消え入りそうな小さな声で。小さなこの少女は、おどおどと瞳を泳がせながら、何かに怯えたように、僕を見る。
「あぁ、ごめんなさいごめんなさい。すぐ終わらせますからすぐに帰りますから」
僕相手に、何をそんなに謝っているのだろう。何をそんなに――怯えているのだろう。あんなに明るい子だったのに――ほんの数日、陰湿な攻撃を受けただけで――ちょっとした『悪意』に触れただけで――人は、こうも変わってしまうものなのか。
かわいそう。
かわいそうかわいそうかわいそう。
僕は精一杯の同情と憐憫を込めて、少女に声をかける。
「……ひどいなぁ。これ、全部一人でやれって言われたの?」
「あ、いえ……ハイ。明日の練習までに、全部のボールをピカピカにしておけって……」
何十個あるか分からないボールを、全て、一人で?
「手伝うよ」
すっと彼女の横に腰掛け、ボールの一つを手に取る。
「あ、そんなっ、いいですよっ! わたしが全部やりますわたしが全部やらないといけないんです!」
大慌てで僕からボールを奪い取る梢。だから、何をそんなに怯えているんだ。
「だけど、こんなの一人でやってたら、いつまでかかるか分からないよ? ……てか、こんな仕事、真面目にやる必要もないと思うんだけどなあ? ただの嫌がらせじゃん、こんなの」
「でも……センパイ達にやれって言われたから……ちゃんとやらないと――やらないと、いけないんです」
「――真面目だね、梢ちゃんは」
「そんなっ、全然わたしなんて、わたしなんて全然ダメだしっ。バスケも下手だし不器用だし要領悪いしっ。ホントにもう、全然ダメで――せめて、頼まれた仕事くらいはちゃんとやっておかないと……」
「だったらなおさら、手伝わない訳にはいかないな」
カゴに入れられた別のボールを手に取り、近くにあった布巾で磨き始める。そんな僕を、彼女は不思議そうな顔で見つめている。
「……センパイ……?」
「前から思ってたことだけど――梢ちゃんは、もっと自分に自信を持ったほうがいいよ」
敢えて彼女の方を見ないで、僕は優しい声色で言葉を紡ぐ。
「そりゃバスケは下手かもしれないけど――真面目だし、熱心だし、何より真っ直ぐだ。そういうところ、もっと評価されるべきだと思うんだけどな」
「…………」
相手の心に語りかけるように。
柔らかく、温かく、真摯な声で。
前もって用意しておいた台詞を吐き出す。
「今の女バス、ちょっとおかしいよね。いや、絶対におかしいと思う。よってたかって、梢ちゃんばっかり目の敵にして――おかしいとは思うんだけど――現実問題として、女バスの問題をどうこうする力は、今の僕にはない。情けない話だけどね。先生や椎名が何もしてないのに、僕なんかが出しゃばるのもおかしな話だし」
「…………」
「だから――梢ちゃんは、もっと自分の身を守る方法を考えた方がいい。守るのが無理なら……逃げちゃうって選択肢もある。視野を広く持つというか――部活が世界の全てではないし、もっと言えば、学校が世界の全てではない。そこに自分の居場所が見つけられないのなら――別の居場所を探すってのも、全然アリだと思うんだけど?」
そこで初めて、僕は彼女の目を見る。
「……辞めろって……ことですか」
視線をそらし、俯いてしまう彼女。
「いやいやそうじゃなくて。そういう選択肢もあるって話。僕個人としては、梢ちゃんにはもっと頑張ってほしいし」
「じゃあ――」
「だからさ」
傷だらけの心に、隙間の空いた心に、僕はさらに足を踏み入れる。
「自分一人で全てを解決しようとするから、無理が出てくるわけでさ。一人でも味方がいれば――だいぶ違ってくると思うよ? 僕なんかでよければ……支えになってあげることぐらいはできるし」
「……センパイ……」
ふるふると震えながら、僕に視線を戻す。
目が、合う。
そこで僕は、駄目押しの台詞をつなげる。
「君は一人じゃない。僕は梢ちゃんの味方だ。僕なんかに大した力はないけど――それでも、梢ちゃんが自分の身を守る手助けくらいはしてあげられるし、ていうか、むしろしてあげたいし……」
「…………」
皆が帰った後の体育館はひどく静かで、僕がボールを磨く音だけが白々しく響いている。
「もちろん、梢ちゃんさえよければ、だけどね。こんな頼りない人やだ~、って言うなら、僕は大人しく退散するし」
冗談めかした言葉で、僕は台詞を締める。柔らかな笑顔で――計算された、ツクリモノの笑顔で。
「――ありがとうゴザイマス」
ポツリと、彼女は呟く。
ツクリモノの笑顔で、ツクリモノの声色で、ツクリモノの台詞で――計算高く懐柔しようとする僕に、彼女はいとも簡単に心を開いて。
でも、それでいい。
これが、いいんだ。
こんな手でも使わなければ、彼女は未来永劫僕に興味を示したりなどしてくれないだろうし。僕はいつまで経っても、どれだけ心から血を流しても、心の支えなど――得られないのだろうし。
静寂に支配された狭い空間――相変わらず、ボールを磨く音だけが響いている。
器具庫の窓から差し込む仄かな月の光だけが――やけに、不快だった。