第一章 the first moon 4
その日の練習に、橘は顔を出さなかった。
翌日の練習にも。
その次の練習にも。
多分、このまま彼女は一度も復帰することなくフェードアウトしていくのだろう。別にそれ自体は問題ではない。くどいようだけど、マネージャーとしての仕事は、ほとんど僕一人でこなしていた。今だってそうだ。あの女は人に仕事押し付けて、毎日適当に遊んでいただけにすぎない。ただ、美人で華があったから、選手の士気を高める働きは充分に果たしていたみたいだけど。現に今も彼女が練習に来ないことで不満の声があちこちから聞こえてくるぐらいだし。知るかンなこと。練習に励め馬鹿野郎。
「ノボルよぉ――姫のこと、何か聞いてっか?」
練習の合間、キャプテンの渡辺がさり気なく声をかけてくる。
「……さあ? 僕は何も知らないよー? やっぱ、末永がいたんじゃ顔出しづらいんじゃないの?」
しれっと、そんなことを言ってみる。
「まあ……それはそうだろうなあ……。正直なところ、タクとやり直すのも難しそうだったしなあ……」
まるで他人事のように、いや実際他人事なのだけど、どこか突き放すような口調で頷いている。と言うか。
「あれ、渡辺――あの後、二人と話してないの? あの勢いだったから、てっきりまた余計なおせっかい焼いて、二人をくっつけようと頑張るのかと思ってたけど」
「いや――無理だろ。タクの気持ちは完全に姫から離れてたし……今さら俺が出しゃばってどうのこうのする話じゃねえよ。あれは二人の問題だ」
いや、それはそうだろうけど。それは妥当な判断だと思うけれど。
――だったら。
最初からあんな風に、首を突っ込まなければいいのに。よせばいいのに部員の個人的な問題に首を突っ込んで、親身になって悩んで、なんならその問題を解決してやって――それで、人望を集めて。それが渡辺久嗣という個性だと思っていたのに。
「じゃあ、末永の話も――別れたいと思った理由も、姫には言ってないんだ?」
「……それはお前が言ってくれたんじゃないのか?」
マジすか。
「えぇ……っと――え、僕? 僕が? 姫に? え? 末永のあの話を?」
「だってお前、末永の話に興味持ってたみたいだしさ」
それはあれですか。話の最後に、「遊びだったんだ?」って、ポロリと本音出しちゃった、あのパートですか。あの部分だけ抜き出して、興味を持ったと解釈しましたか。
と言うか、仮に興味を持ったとして、二人の問題解決の義務が僕にスライドする意味が分からない。
「そうか……お前からは言ってないのか……」
視線を逸らし、特になんてこともないかのように、呟いている。
「まあ、仕方ないな」
そう独りごちて、渡辺はさっさと練習に戻っていく。
なんだよ、それ。
それでいいのかよ。
――まあ、本当のところを言うと、渡辺が橘に話をしてないことぐらいは、察しがついていた。でないと、この前の、廊下での彼女との遣り取りの説明がつかない。どうして自分が末永にふられたか分からなくて、僕に食ってかかった橘――渡辺か、あるいは末永本人に事の真実を聞かされていたのなら、あんなリアクションはとらなかっただろう。……だからこそ、僕もあんな嘘を吐けんだけど。
いずれにせよ、渡辺は二人の問題にこれ以上関わるつもりはないらしい。自分から首を突っ込んでおいて、ずいぶんと半端な態度ではある。挙げ句の果てに、責任転嫁ともとれる発言まで繰り出すくらいだし――渡辺という男の本質に疑いを持ったのは、この時が最初だった。その時の僕は別のことに気を取られていたし、大したこととも考えていなかったのだけれど。
外は比較的涼しいものの、コート内は相変わらず蒸し暑く、体育館の扉は全て開け放しているものの、風がそよぐでもなく、それどころか籠もる空気を拡散させる働きさえしてくれず、室内の選手はみな汗だくだ。
こんな劣悪な環境の中、選手たちは練習用のユニホームをぐっしょり濡らし、真剣に紅白戦にあたっている。僕なんてやる気ゼロで、ただ機械的にスコアボードの点数幕をめくっているだけだってのに、ご苦労なことだ。
「アオヤマ、俺のタオル、どこ言ったか知らない?」
茹でダコの僕に、柔らかな声で語りかける男一人。
峰岸だ。
試合ともなれば出ずっぱりで得点に貢献するこの男も、今は紅白戦ということで、一時コートから外れ、休憩に入ったらしい。同じく紅白戦に参加してない面々は、皆体育館の端で暑さに喘いでいると言うのに――こいつだって汗だくで辛いだろうに――何だろうこの爽やかさは。僕はコートの端に丸めてあったスポーツタオルを奴の手に渡してやる。
「はい」
「ああ、ありがとう。いつも悪いね」
「それは言わない約束でしょ」
「フフ。アオヤマはいつも面白いね」
馬鹿にしてるのかこの野郎。
苛ついた気持ちを悟られないよう、僕は至ってポーカーフェイスで、峰岸と並んで紅白戦を観戦することにする。
「にしても、暑いね――」
「タチバナ、このまま辞めちゃうのかな。残念だよね。アイツも面白い奴だったのに」
人の言葉を無視しないでもらえますか。そりゃ確かに、意味のない、その場の沈黙を埋めるだけの言葉ではあるのだけど。
「まあ、アオヤマがいてくれるなら、それはそれでいいんだけどね。お前が頑張ってくれるから、みんな練習に集中できる訳だし」
適当なこと言うなこの野郎。僕の何を知っているってんだ。練習のサポートに尽力するふりして、選手全員を心の中で呪ってるんだぞ。そんなこと、考えもしないくせに。爽やかな口調で語られる勝者の余裕が、いちい癇に障る。ああこいつ、死ねばいいのにな。
ばごん。
女子コートからの不穏な物音に、二人してそちらを振り向く。
コートの隅、小柄な少女が顔を押さえてうずくまっている。
梢だ。
その傍ら、彼女の顔と同じ大きさのボールが、テン、テン……と無機質な音を立てて転がっている。どうやら、いつものごとく端でドリブル練習をしていた彼女の顔に、別の練習で使われていたボールが命中したらしい。
「……ぅう」
痛みに呻く梢は痛ましくて、正視に耐えない。……もっとも、それだけで済んだなら、それはただ単に不運な事故で、そういったことは別段珍しいことでもないのだけど……。
「あ、ゴメェン。そっちにボール言っちゃったぁ?」
女バスのコート内で、三年女子の一人、東条里枝がわざとらしい声色でそんなことを言っている。
「なんかぁ、ちっちゃいから気づかなかったぁー」
この東条という女、部長の椎名ほどではないにしても、女子にしてはやたら背が高くて、おまけに三白眼なものだから、睨まれると物凄い威圧感がある。やたら間延びした喋り方してるのは、自分のそうした外見を取り繕うためなんだろうか。悲しいかな逆効果になってるみたいだけど。
「ってか、そんな所でトロトロしてンのが悪いんじゃないノ?」
東条の後ろから、同じく三年女子の高木サチが顔を出す。東条に比べれば普通の背格好だけど、コイツは茶髪がやたらに目立つ。橘の栗色の髪は天然だけど、高木のそれは明らかに染めたモノであって――本人は天然だと言い張っているけど、いやいや、根元が黒くなりかけてるし――教師たちに目をつけられている生徒の一人である。
「てかマチダ、早くそのボール取ってくれなぁい? ウチら忙しいんだけどぉー」
「ホント、いつまでもオオゲサに痛がったりしてないでサ」
東条や高木に加勢するように、周囲にいた女子たちが次々に口を開いていく。
「ったく、ホント、トロいんだから」
「てか、アンタ才能ないんだからさー、んでやる気もないんだったら、無理に練習出なくていいんだよー?」
「さっさと辞めちゃえば?」
うわー……。
よくもまあ、次から次から、そんな口汚い言葉を吐けるもんだな。
罵り、謗り、嘲って――その全てが、僕には慣れてしまった感のある語群ではあったのだけど……。それが、今は一人の小さい少女に集中している。恐らく――いや、そんなエクスキューズを使うまでもなく、まず間違いなく――あのバスケットボールは故意にぶつけられたものだろう。不意に己の頭部と同じ大きさのボールをぶつけられただけでも辛いのに、それから回復する間も与えられず、ただ訳も分からずに無慈悲でサディスティックな罵詈雑言を頭から浴びせかけられている。……これは、まあ、あれだよね。いわゆる一つの、世間一般で言われているところの――『イジメ』ってやつですね。
梢はいつでも一生懸命で、いつでも真面目に練習に臨んでいて、だけど悲しいかなバスケのセンスはからっきしで、それ以外の部分でも要領が悪いというか、余程心の広い、彼女に好意的な感情を持っている人間でなければ苛ついてしまうような場面も多々あって、喋り方にも少し癖があって、そもそも彼女の人格自体――人懐っこくて、決して悪い子ではないのだけれど……受け取る人間によっては――今回の場合、東条や高木を中心とするグループにとっては――嗜虐的な部分を刺激されてしまうのであって。
要するに、世間一般で今なお根強く囁かれ続ける、『いじめられる側にも問題がある』という――虫酸が走る常套句がまかり通ってしまうような個性なのだ、彼女は。
もちろん、それは事の状況を表層的に判断すれば、の話ではあるのだけれど。
僕は事の真相を知っている。
知っていて、今の状態を静観している。
「……何だか、あっち、おかしな空気だね……」
隣の峰岸が、眉間に皺を寄せて不快そうな表情を見せている。常に笑みを絶やさず、柔らかく暖かなオーラを保ち続けるこいつにしては、珍しいリアクションである。だが僕はそれをまるっきり無視して、心身共にダメージを受けた風の梢を観察している。
――りん……。
と。
ぼんやりと女子コートを眺めていた僕の耳に、透き通った鈴の音が響いた気がした。振り向くと、視界の隅に影がよぎる。体育館の開放された扉の一つ、その脇に――一瞬、誰かがこちらの様子を窺っていたような気がしたのだ。生憎それは一瞬ですぐに引っ込んでしまったため、顔は確認していない。顔は分からないけど、ただ、栗色のツインテールが残像のように残っていて――おまけに、あの鈴の音――それだけで、誰なのかを特定することはできたのだけれど。
それだけを見れば、きっと些細な出来事だったのだと思う。日々の出来事なんてのは、常に突発的で流動的で、皆、数分前のことすら忘れて、ただ目の前のことに気をとられて日々を生きている。
なのだけど。
梢に対する攻撃だけは、以降も粘着質に継続されていて。部活動をしていく上で発生するちょっとした仕事を全て梢一人に押し付け――女バスにはマネージャーが存在しない――それをうまくこなせないでいる彼女を罵り、嘲り――時には肉体的な攻撃にまで至る。ボールをぶつけられるなんてのはよくある話で、目の前で露骨な人格否定されたり、私物を隠されたり……。三年である東条・高木が中心になってやっているのだから始末が悪い。もちろんそれは椎名の見てないところでの話ではあるのだけど、女子のイジメは男子のそれより遙かに陰湿で間接的で――その割に効果は抜群で、ほんの数日で、梢は露骨に憔悴していった。
よしよし。
いいぞ、もっとやれ。