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第一章 the first moon 3

 蝉が五月蠅(うるさ)い。

 湿気が鬱陶しい。流れ落ちる汗がうざったい。これだから夏は嫌なんだ。七月だと言うのに長袖のシャツを着ている僕が悪いのだと言われれば、反論のしようがないのだけれども。

 元来、シャーペンの筆圧からノートを守るために存在している下敷きはその存在意義を薄め、完全に団扇として作用している。クラス中、ペラペラペラペラ、喧しいったらありゃしない。


 嗚呼。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。


 夏休みまで半月――。

 以前ならもう少し浮かれ気分でいられたんだろうけど、僕たち三年生はもう、そんな事はあまり関係なくなっている。休みと言っても、どうせ、練習に一日を奪われてしまうのだ。そして、大会が終われば、受験に向けての特別補習が待ち受けている。

 そうして、十七の夏は呆気なく過ぎていく。


 嗚呼。嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ嫌だ。


 空はウンザリする程に蒼く、遙か遠くには入道雲が覗いている。こんな日は、何もかも放り投げて逃げたくなる。もちろん、実行に移せないのは百も承知なんだけど……。


 退屈な授業が終わり、ようやく昼休みに入る。教室のエントロピーがにわかに増大。あまりの暑さに辟易していた僕は、席を離れ、その足で水飲み場に向かった。鉄臭い冷水を腹に流し込み、一息つく。さあ、今日もコンビニ弁当だ。

「青山センパ~イっ!」

 水飲み場の横で空腹に喘ぐ僕を呼んでいる人間がいる。……その声の主を認識した途端、鼓動の速度が今までの二倍に跳ね上がった。

「梢ちゃん――」

 廊下の向こうから、小さな体を翻し(ひるがえ)、町田梢が駆けてくる。

「あぁ、よかったーっ。やっと知ってる先輩に巡り会えましたよー。三年生の教室って、何か緊張しますねっ!」

「え、あの、何で――だ、誰かに何か、用事なの?」

 突然の出来事で、シドロモドロになっている僕。ああもう、なんでこうも愚鈍で卑小なのか。動揺しすぎ。これ以上生き恥を晒してどうする。……でもまさか、ここに一年の女子がやって来るだなんて――その不意打ちを恨めしく思う気持ちも、確かにあって。

「……青山センパイって、制服も長袖なんですね……」

 この()、昨日からそのことばかりを気にしている。確かに、夏の最中に長袖で通している僕の方が異端なのだろうけど、あまりそこに触れられたくない。

「ぼ、僕は長袖が好きなんだよ」

 だからって、こんな頭の悪そうな言い訳をしなくてもいいような気もするけど。

「――それで?」

 半ば無理やりに話題を中断し、先を促す。

「あ、そか。えっとですね――峰岸センパイ、いますかっ?」

 何かと思えば、あの完璧超人に用事があるらしい。

「――勉強でも教えてもらおうっての?」

「あ、正解デス。よく分かりますねっ!」

 だいたい分かるよ。ちょっと前に期末終わったばっかだし。……ちなみに、僕の点数がどうだったかなんて、聞くな。取りあえず赤点補習は免れたとだけ、言っておく。

「前々から言ってたんですヨ。あたし、数学が苦手なんで、センパイさえよければゼヒ教えてもらえたらな~ってっ!」

「……わざわざここに来なくても、同じクラスの子とかに教えてもらえばいいんじゃないのかな?」

「……あ、いや、それじゃ意味がナイので……」

「ああ……そう」

 気まずそうに視線をそらす彼女を見て、だいたいの想像はついた。

 彼女は、きっと峰岸に気があるのだろう。

 別に珍しいことではない。奴は男の僕から見ても魅力的な人間だとは思うし、後輩女子が勉強を口実に近付こうとするのだって、別段珍しいことではない。

「で、センパイは……?」

「え? ……ああ。ヒデなら同じクラスだから――ああ、でもどうだろう。まだ教室にいればいいけど」

「いないんですか?」

「アイツ、昼は中庭のベンチにいることが多いから……。ちょっと探してみようか」

「あ、お願いできますかっ!」

 正直言うと、少し期待をしていた。

 一年生がここに来ることなどほとんどない。それは当たり前のことで、それは当たり前のことなんだけれど――。

 町田梢が来たことで。

 あの女バスの中でもやたらに素直で、不器用な程に真っ直ぐな彼女が来たことで……僕は、ほんの少しだけ期待をしてしまったのだ。それがどうだろう。フタを開けてみればただのつかいっぱだ。別にいいのだけれど。今に始まったことでもないし。

 教室に戻ると、幸いにも峰岸は中庭に向かう前で、今はグループの輪の中で、みんなと談笑している所だった。……楽しそうだ。もちろん、僕だってグループの輪に加わること位あるけど――楽しいと思ったことは一度もない。下らない話題、低次元な論理――僕はただ、調子を合わせて笑うことしかできない。多分、その場の僕なんてのは、空気と同義なんだと思う。僕の居場所は、そこにはない。

 なのに、峰岸秀典は確かにそこにいる。彼ぐらいに高次元の人間なら、居場所なんていくらでも選べるだろうに――敢えて、その場に居続けている。楽しそうに。何の迷いも、ないかのように。その辺り、僕とコイツの、決定的にして致命的な違いなのかもしれない。

「ねえねえねえ、ヒデ、ちょっといいかな」

 峰岸は、親しい人間からは《ヒデ》と呼ばれている。そんな呼称一つで人との距離が縮むのなら、こんなに楽な話はないのだけれども。

「ン? どうかした?」

 事もなげに、僕の方を振り向く峰岸。

 彼の声を聞いた途端、その場の空気が柔らかく変化したような気がした。なんて――個性だろう。誰より有能で、誰より高次元にいるくせに、この男がその場にいるだけで、場の空気が柔らかく、綺麗に、穏やかに――清浄される気がする。これがオーラという奴だろうか。

 それに加えて――この男、目の前で見ると、やっぱり男前だ。色白で、目が切れ長で、造作全体がスッキリしていて――この暑いのに、やたら涼しい顔をしてくれている。これでモテない訳がない。僕は溜息を()きそうになるのを何とか堪え、目の前の美男子に用件を伝える。

「梢ちゃんが呼んでるよ」

「って、一年のマチダコズエのコト? 俺に? ……何の用かな?」

 案の定、困惑している。そりゃそうだろう。

「何かね、数学を教えてほしいんだって。『頭のいいセンパイに、ゼヒとも家庭教師になってもらいたいんデス』とのことだけども。……どうする?」

 途中、面倒になって、かなり省略・歪曲してしまった。まあ、結果は変わらないんだから構わないだろう。

「数学かあ。いいよ、別に。……ああ、彼女、外で待ってくれてるんだっけ? 俺が直接言ってあげた方がいいかな?」

 僕が頷くと、峰岸はそのまま廊下に出て行った。


 嫉妬を覚えなかったと言えば、もちろん嘘になる。

 勉強を教える間だけとは言え、峰岸は梢と近距離にいられるのだ。端正な顔をして、穏やかな口調で、的確な教え方で、感謝され、尊敬されて。

 ――僕は、如何なる世界とも距離を縮められずにいると言うのに。

 嗚呼。

 なんでいつもいつも峰岸ばかり……。

 アイツの数パーセントでも、僕に才能があれば――もう少し――ほんの少しだけでも――生きるのが楽だったかもしれないのに……。この時ほど、自分の無能加減を悔やんだことはなかった。


 風に当たりたくなって教室を出たところで、ばったり橘あずさと遭遇する。コイツも、峰岸とは違う意味で周囲とは異質なオーラを放っている。バタ臭い顔立ちに、栗毛色のツインテール――目立つなと言う方が無理な話。顔を合わせるのは二日ぶりだ。

「おぅ、青山クンじゃん。久しぶり~!」

「――『姫』」

「その呼び方はヤメテって言ってるでしょっ! あたしには『橘あずさ』って名前があるんだからっ!」

 なんだ、そのテンションは。

 今日の橘は機嫌がいいらしい。情緒不安定だか躁鬱だか知らないけど――なんだか、とてつもなく疲れる。口調だけを見れば梢のそれと見ているのに……彼女のそれは無理しているのが見え隠れしていて、何だか、痛々しい気持ちにすらなってくる。だいたい、彼女とは一昨日に会ったばかりである。そこで末永とのコトを聞かされて、成り行きで二人の痴話喧嘩に巻きこまれて――橘あずさという人間の本質、知りたくもない部分を無理矢理知らされてしまった感じ。

「相変わらず元気そうだねえ」

「元気なんかじゃないわよぅ! もうあたしなんて全然ダメだもんっ! 全然ダメっ! 何やってもうまくいかない感じ。ホント、超うまくいかない感じ。分かる?」

 分かんないよ。彼女がうまくいかないのなら、僕なんて現内閣並にうまくいってない(もう解散したんだっけ?)。

「それよりさ……見たわよぅ? さっきのことっ!」

「……な、何をさ」

 嫌な予感がする。

「また、惚けちゃって~。梢ちゃんよ。楽しそうに話してたじゃないのよぅ。奥手そうに見えて、なかなか青山クンもやるわねぇ~」

 肘でグイグイ小突きながら、阿呆なことを言っている。何だコイツ。痛いんだけど。……嫌な人間に嫌な所を見られていたようだ。しかも、嫌な方向に誤解してくれている。

「違う違う、そんなんじゃないって。彼女はただ、勉強を教えてもらいに来ただけだってば」

「青山クンに!?」

「何もそんなに驚かなくても……。僕じゃなくて、ヒデにだよ」

「だよねぇ……。ビックリしちゃった」

「僕が勉強教えられるわけないジャン。変な勘違いしないでよ~」

「ふうん……前から思ってたんだけどさ、一つ聞いていい?」

「なに?」


「青山クンって、梢ちゃんのこと好きなんでしょ?」


 ――はぁ?


 この女は、言うにこと欠いて、何を言い出してしまってるのだろう。僕が誰かを好きになるなんてことがある訳ないし、そんなことが許されていい訳がないし。

「何を……いきなり……」

「違うの?」

 僕がぐるぐる思考をしている間にも、リアル時間は刻々と過ぎていく。僕の緩慢な頭脳では、それに追いつけない。――だけど、生憎、こういう時に適当なことを言う才能にだけは恵まれているものだから、

「またまた~、なーに言ってくれてるのかなー、このツインテール姫はー。そんな訳ないじゃんさー」

「……本当は?」

 軽く――あくまでも軽く流そうとする僕を、許すまじ、と睨む茶色い双眸。何がお前をそこまで駆り立てているんだ。

「いや……本当はって言われても――そんなの、橘に関係ないし……どうでもいいでしょ……」

 ――何を。

 はっきり否定すればいいものを、橘に気圧されて、何、曖昧な態度を取っているのだか。

 本当も何も――僕は誰にも興味などないし。

 誰も愛さないし、誰も好きなどならない。

 僕にはそんな資格がない。

 そもそも、僕が誰かを好きになったところで、僕には相手を振り向かせるだけの魅力などない。それが報われることなど、未来永劫、千パーセントあり得ない。

 だいたい。

 恋愛など幻で、一時の気の迷いにすぎない。

 末永や橘などは色ボケだからしょうがないけど――僕は、騙されたりはしない。『恋愛』なんて、そんな、時間とエネルギーを(いたずら)に浪費するような真似――したくはない。

 だけど。


 もしも。


 もしも、仮に、万が一、百歩譲って、僕がその気の迷いに、人類最大の錯覚に、僕みたいな人間が参加できたとしたなら――

 少しは、僕も救われるかもしれなくて。

 だけど――

「いやだけどさ、梢ちゃんみたいなカワイイ子が、僕を相手にするわけないよ~っ! うんうん、そんな、僕だって、ないものねだりするほど馬鹿じゃないしねっ!」

 取り敢えず事実を提示して、心の安寧をはかることにする――のだけど。

 何故か、自分の言葉で、自分自身がひどく傷ついてしまう。なんでだよ。分かり切っていることなのに。僕が誰も愛せないことくらい――僕が誰にも愛されないことくらい――傷だらけで、劣等感と孤立感の塊で血にまみれていて、今さらちょっとした傷くらい、なんでもない筈なのに――このダメージは何なんだろう?

「まあ……それはそうかもしれないけどさあ」

 適当に打ったジャブに、えらいカウンター攻撃を喰らってしまった。てめえちょっとぐらい否定しろよこの野郎。

「ただ……羨ましいなぁ、と思って」

 僕が――羨ましい?

「何て言うか……素直じゃない? 青山クンって。いい意味で子供っぽいって言うかさ……。変に落ち込んだり、ごまかしたりしないじゃない。悩みがなさそうって言うか。わたしは、そうじゃないからさ――」


 素直――?


 落ち込んだり、ごまかしたりしない――?


 悩みが、ない――?


 何を、言っているんだろう。

 僕の何を見たら、そういう見解に行き着くのか。

 確かに、無邪気に振る舞っている部分はある。

 卑屈に笑い、何をされても何を言われても、敵意なんて微塵も感じさせないで――劣等感で腐敗した醜い内面など、決して気取られないよう、細心の注意を払って――何とか生き長らえているのだ。

 そんな僕を『羨ましい』だなんて……。


 馬鹿にするのも、いい加減にしてほしい。


 彼女の言葉は、未消化のまま体内に沈殿していき、なおも、僕の傷を化膿させる。もしそれを覗いたなら、橘は何て言うだろう? 少なくとも、僕を羨ましいなんて、口が裂けても言えないに違いない。

 ――ふざけるのも、いい加減にしておけ。

 勝手に勝手なことを言って、勝手に勝手な想いに耽る橘あずさを、僕は許せなくなっていた。

 充分すぎる程に充分な家庭に生まれ、あれもこれも、望むものは全て手に入れて、そのうえまだまだ望み足らず、愛が欲しいだの、想いが足りないだのと宣うこのお嬢様――どうしてくれよう。

 ――なんて嫉妬に狂う一方で、僕は一つの希望を見出していた。

 僕は……もしかしたら、町田梢のことが好きなのかもしれない。だけど、今のままでは、五万パーセント、彼女は僕のことを見てくれない。僕には才能がない。僕には価値がない。僕には魅力がない。だけどもし仮に何か能力があるとすれば――この口先だけで。

 この口先だけで、強欲な橘あずさにダメージを与え、町田梢を振り向かせることができるならば――そんなに素晴らしいことはない訳で。

 ゼロコンマ何秒で考えをまとめた僕は、踵を返しかける橘に声をかける。

「一昨日、末永に話を聞いたんだけど――」

「えっ?」

 興味を失いかけたところに、振り向きざまアッパーカット。

「アイツ、姫――いや、橘と別れた理由、話してくれたんだよね」

「何て言ってた!?」

 物凄い食い付きよう。て言うか、渡辺からは何も聞かされてなかったのか。

「――ね、何て、言ってた、の?」

「い、いやぁ……本人も断定した訳じゃないし、あまりに正確な情報ではないんだけど~」

「いいから、早く、言いな、さい」

 こちらのネクタイをぐぃ、と引っ張り、顔を近付け、口元で、一語一語区切るように、ひどく低い声色で囁く。あまり近寄らないでほしい。脂汗が流れる。


「あ、アイツ――何か、他に好きな()が出来たらしいんだよね」


 喉の圧迫に苦しみながら、僕はその台詞を吐く。

 適当で――事実とは百八十度異なるその言葉を、僕は、彼女の目を真っ直ぐに見据えて、言う。

「誰ッ! 誰よッ!」

 怖。

 さっきまでの嘘っぽい陽気さなど銀河系の彼方へ吹き飛ばし、ギラギラとした双眸で食い付いてくる。……そこまで必死にならなくても。末永拓にそれだけの魅力があるとはとても思えないのだけど。それこそ、適当に遊ぶのにはいい相手かもしれないけど。

 ……なんて、そんなことはどうでもいい。今の僕にはどうでもいい。本当に、どうでもいいことだった。

「それがさ――」


 そして僕は、嘘を吐く。

                             

 何だか楽しそうなことが始まりそうな予感がして、僕は本当に久しぶりに、心が浮き上がるのを感じていた。

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