最終章 the last moon 22(新月)
ずっと、変わらないのだと思ってた。
ずっと、変われないのだと思ってた。
刻まれた疵は消えることなく、穿たれた孔は塞がることなく、それは嫉妬と絶望の温床となり、時間経過と比例して心身共に蝕んでいくのだと――そうやって生きていくのだと――そうやって死んでいくのだと――そう、思っていた。
だけど、光はあったんだ。
こんな僕でも、生きていく術はあった。僕はきっと、それを糧に、盾に、支えにして、これから生きていくことになる。
紆余曲折を経て、僕はようやく――生きる権利を得たのだ。
梢の死から二週間が経った。
梢が死んでも、世界は何も変わらなかった。八月になったら本気を出すかと思われた夏の暑さも、記録的冷夏だとかで結局は肩すかし。水不足の次は米不足の到来らしい。いずれにしても、僕には関係のない話。夏休みは続き、世界は続き――少しずつ、町田梢という少女の記憶が、皆の頭から消えていく。いくら悲嘆に暮れているように見えても、結局はそんなものだ。死んだ人間の時間はそこで止まるが、生きている人間はそうではない。皆、忙しいのだろう。この調子では、冬になる頃には彼女の残滓などいくらも残っていないのかもしれない。
さて、経過報告代わりの後日談でもしようか。
まずは、男子バスケ部、夏の大会における戦績において。だいたいの察しはつくと思うけども――結果を先に言うと、惨敗だった。それはもう、地方予選での快勝が嘘だったんじゃないかというくらいの大差をつけて。そりゃそうだよね。峰岸はいないし、色々ありすぎてチームの士気はボロボロだし……。これで勝てと言うのが無理な話。まあ、どうでもいいのだけれど。
ちなみに言うと、女子の方は当然のことながら地区予選初戦敗退。ただでさえ弱小なのに、キャプテン椎名を欠いてしまっては、勝ち目などある訳がない。
バスケ部三年の夏は、こうして幕を閉じた。
引退したメンバーは、各々自分の道を進んでいくことになる。
渡辺久嗣は専門学校へ進学するべく、本格的な受験勉強を開始したらしい。僕は全く知らなかったのだけど、奴には料理人になる夢があるのだとか。それはいいのだけど、勉強の傍らで、今でも後輩の相談には乗ってるらしく――まあ、好きにしたらいいと思う。ただ、相談事をこちらに丸投げするのだけは勘弁してほしい。もう、人の厄介事には首を突っ込みたくない。
末永拓はバスケ部を引退した翌日から軽音での活動を再開したらしく、今では文化祭に向けて練習に明け暮れているらしい。下らない人間ではあるのだけれども――打ち込めるものが沢山あるのは、正直羨ましい。バスケにせよ音楽にせよ、それに熱中しているうちは、女好きの虫も多少は大人しくなるだろうしね。と言うか、アイツも今回のことでいい加減懲りただろうから、少しは自重してほしい。……いや、それとも懲りてないのかなあ? だとしたら、処置なしだ。もっとも、僕を巻き込まなければ、別に構わないのだけれど。
次に辻岡慎哉。奴は相変わらず医学部一本で受験に臨むらしい。あれだけバスケ練習に熱を入れておいて、しかも屋上とかで黄昏れておきながら――ちなみに、屋上と中庭は今でも完全立ち入り禁止になっている――模試ではそこそこのランクを勝ち取っているらしいから、驚きだ。暇そうに見えて、しっかりと勉強はしていたらしい。尤も奴の弁によれば、勉強は時間ではないのだとか。いくら机にかじりついても、駄目な人間は駄目らしい。なんかもう、本当に好きにしたらいいと思うよ。
次は、橘あずさ。この女はこの先どうしていくつもりなんだろう。取りあえず、進学希望ではあるらしい。勉強はそこそこできる方なので、精神状態さえ安定していれば特に問題はないと思うんだけど……。そう言えば、最近になって小説を書き始めたと言っていた。別にプロの小説家になりたい訳ではないらしいけど――下らない男に夢中になるよりは、遥かに健全だと思う。
それはそうと、末永が日に何本も電話がかかってきて辟易した、みたいな話をしていたのを、今頃になって思い出す。彼女は今、その相手を僕に変えたらしい。大会が終わって暇だから、いいっちゃいいんだけど――さすがに、毎日電話が来るのはどうかと思う。……あれ? 僕、危機感感じた方がいいですか?『青山クンには恋愛感情抱けないよー』なんて勝手なことを言ってくれてたけど……。ううん。すっかり懐かれてしまったなぁ。意図せず、余計な手駒が増えた感じ。誰かトレードしてくれる人いないかなぁ? 支配する側に回りたいとは思ったけど――さすがの僕でも、手に余るっての。
手に余ると言えば――扱いやすいようでそうでもなかった、椎名香織について。彼女は予選まではなんとか気力で持ちこたえていたものの、前述の通りチームメイトの働きは最悪で、失意を累乗したまま、この夏をおくることになった。右腕の怪我もそう簡単に治る訳はなく、勉強にも遊びにも逃避できない。この地にいても辛いだけ、という理由から、彼女は夏休みが終わるまでを母親の実家で過ごすことに決めたらしい。静岡の最西端に位置するそこは、田舎だけど海と山に囲まれ、傷心を癒すにはいい場所なのだとか。ただ、二学期が始まって、彼女がどうするのか――それは僕にも分からない。案外、梢のことなんかケロッと忘れて受験勉強に邁進するような気もするけどね。
皆、過去を乗り越え、世界と折り合いをつけ、次のステージへと歩を進めていく――そう。そうなのだ。どれだけ悲しかろうが悔しかろうが、皆、前を向いて進んでいく。……つまりは、その程度の意味しかなかったということ。世界がどうなろうが、社会がどうなろうが、皆、各々適当なフィルターを取り出して、適当に反応して、適当に対処して、全てに折り合いをつけていく。過去は過去として、ただ前だけを向いて進んでいく。器用な生き方と言うのは、そういうことを言うのだろう。
そして――僕、青山登と峰岸秀典。
器用で不器用な、二人のその後について。
○
「……例えば、家に帰って、家族も誰もいないのに、部屋の電気が点いてたら、どう?」
「怖いね」
「だよね。……んや、最近近くのマンションでそういうことがあったんだって。橘の友達なんだけど――」
「聞かせて」
「うん。その友達は大学生でさ、そのマンションに一人暮らしなんだけど……バイトから帰って部屋に戻ると、電気が点けっぱなしの時があるらしんだよね。鍵かけて出かけてるのに。んで、泥棒かと思って調べてみたんだけど、特に何かが盗られたって訳でもないらしいんだ。部屋を物色された気配すらない。でも気味が悪いからさ、管理人に相談したんだけど――」
「それでも、分からない?」
「そう、そうなんだよ。んで、マンションの自治体ってのがあって、そこに相談したら――何と、同じ目に遭ってる住人が他にもいるって言うんだよね。彼女と同じく、帰宅したら電気だけが点いてて、盗られた物はなく、物色された気配もない――よくよく話を聞いてみれば、被害にあったのはみんな同じ日らしくってさ。意味が分からないってことで、ちょっとした騒ぎになってるらしいんだよ」
「……なるほど」
「実際、意味が分からないよね。空き巣ならまだ分かるけど、電気が点いてるって以外、何もされてないって言うんだから――意味が分からないのが、余計に怖い」
「盗聴器を仕掛けられてるって可能性は?」
「んや、それは僕も思い当たったんだけど、部屋の隅々まで探してもそういうのはなかったって」
「どうかな。最近はコンセントに仕掛けられる機械もあるって言うから、そこまで徹底して調べた方がいいかもしれない」
「……言っておくよ」
「ちなみに、それは全部の住人がそういう目に遭ってる訳?」
「んや。被害に遭ってるのは、半分くらいらしいケド」
「逆に、電気を点けっぱなしで出かけたのに、部屋に帰ったら電気が消えてたって例は?」
「――それはない、かな。ってか、電気点けっぱなしで出かける人はいないでしょう」
「アオヤマは、そのマンションは知ってるの?」
「……まあ、近所だから、前を通ったことはあるけど」
「何階建て?」
「えー……? どうだったかな……。結構な高層マンションで、二〇階以上はあるみたいな感じだったけど」
「そうだよね。自治体が作れるくらいだから。……そのマンションの向かい――特に、各々の部屋の窓がある側には、どんな建物が建ってる?」
「えー? 確か……あの辺りは町工場が集中してて……あ、でも一戸建ての家が一軒だけ建っていたような気もするけど……」
「だったら、その家の住人に話を聞いた方がいいね。後はマンションの管理人だ。本人は知らなくても、その家族が犯人である可能性は高い」
「――順を追って話すと、僕が喜びます」
「二〇階以上の高層マンションってことは、一フロアにつき五部屋としても、百部屋以上になる計算になるよね。その半分って言ったら、五〇部屋だ。扉を開けて、部屋の電気点けて、また閉めるなんて作業でもさ、それだけの数だったら、解錠のプロでも数時間はかかる筈だ。一部屋だけだったら合い鍵を作った可能性も考えられるけど、そんなに多いんじゃ、それはもう、マスターキーを持ってるとしか考えられないよ。一般的に考えて、マスターキーを持ってるのは管理人で、それを自由にできるのはその周囲にいる人間だ。管理人が嘘を吐いている可能性も考えられるけど――たぶん、家族の誰かが無断で持ち出してるんだと思う」
「向かいの住人には、何の関係があるの?」
「その住人の誰かに、何らかのメッセージを送りたかったんじゃないかな?」
「……峰岸選手、スタンドプレーは控えてください。チームメイトが困惑しています」
「だからさ、犯人は、部屋の電気を明滅させることで、何らかの意味あるメッセージを作成しようとしたんじゃないかな。見たことないかな――高層建築物の照明を利用したイルミネーションとか。一部屋の灯りをドットとして、文字や記号を構成するんだ。高層マンションなら、短い文章くらいは作れるかもしれない」
「……どんなメッセージを送るって言うんだよ」
「それを推測するには、情報が足りないかな。犯人と向かいの住人の関係が分かれば、ある程度仮説を立てることもできるけど――今の時点で考えられるのは、告白、脅迫、警告、何かの合図か、何かの演出か――そのくらいかな。取りあえず、被害にあった部屋が分かってるんだから、作成されたメッセージの分析は簡単な筈だ。何回も行われてるところを見ると、それは一回こっきりじゃなく、現在進行形で行われてる、何らかの計画である可能性も高い。ひょっとしたら犯罪に関わることかもしれないし――アオヤマやタチバナがどこまで首を突っ込むつもりか知らないけど、行動するなら早いに越したことはないよ。俺も、事の顛末には少しだけ興味あるし」
――これが、二週間前と同じ人間なのだろうか。
僕は話の内容云々より、峰岸の回復ぶりに舌を巻いていた。梢の自殺直後は廃人と化し、何も喋らず、何も食べず、ただ死を待っているだけかに見えたこの男が……。
「――分かった。橘にはそう伝えておく。それで何か進展あったら、また話すよ」
「それがいいね」
本当に興味があるのか、峰岸はどうでもよさげにそう答え、手元の文庫本に目を落としたのだった。そして僕は夏休み課題を片付けるべく、再びシャーペンを手に取る。……全く、数学なんか大嫌いだ。
今さらながら、状況説明。
峰岸がメロンパンを口にしてから今日まで、僕は一日も欠かすことなく、彼の家へと通い続けていた。メロンパンを食べたとは言え、それで全てが解決するほど簡単な問題ではない。僕は何度も何度も何度も何度も峰岸と対峙し、時に諭し、時に叱り、時に世間話を織り込みながら、少しずつ少しずつ、彼を再生させていった。
メロンパン以外のモノを食べさせるのに、二日かかった。
まともな言葉を話すようにするまで、一週間かかった。
僕の熱意が通じたのか、自然治癒なのか、峰岸は日に日に以前の輝きを取り戻すようになっていき――今に至る。最近は全く手つかずだった夏休みの課題を処理すべく、勉強道具一式を携えて峰岸家に入り浸る日々。当の峰岸はと言うと、学校から出された課題など七月のうちに終わらせてしまったらしく、僕との雑談に興じながら読書などしている。貴族かよ。
それはともかく、今の峰岸は――冒頭の遣り取りを見ても分かる通り――以前の彼を彷彿とさせる程の回復ぶりを見せている。回転が速く、発想が突飛で、かつ論理的で饒舌でさえある。『完璧超人復活』の号外を出したいくらいの勢いだ。
だけど。
完璧に以前の彼に戻ったかと言えば、そうでもない。以前のような、柔らかく温かなオーラは、今の彼からは感じられない。
あまり――笑わなく、なった。
今の峰岸からは、どこか緊張した、どこか荒廃的なオーラしか、感じられない。ちょっとしたことで、再び壊れてしまいそうな――そう、それは『脆い』という形容詞がピッタリ当てはまるような――強い意思とは裏腹に、また強いショックを与えられたら自ら死を選んでしまいそうな――そんなイメージ。
峰岸は、変わってしまった。
……だけど、僕はそれで構わないと思っている。
僕だって、変わったのだ。
変わることが、できたのだ。
町田梢の自殺というイベントがあって、それでも尚、変わらない――変わろうとしない――他の連中とは違う。僕は全ての過去を乗り越え、利用し、そこに『居場所』を定め――世界と折り合いをつけてみせる。
峰岸秀典は、そのために必要不可欠な僕の『駒』だ。
僕はもう、本物の、本当の、『真実』なんてグロテスクで残酷なモノを崇拝する世界では――生きていけない。嘘と演技という双剣がなくては、自分の身さえ守ることができない。誰かを支配し、操作することでしか、呼吸をできない人間になっている。
だけど、僕は峰岸秀典という駒を手に入れた。
完璧超人を――支配下においたのだ。
「――ね、ちょっと休憩しようか」
「俺はずっと休憩してるけど?」
やっとのことで微分方程式を攻略した僕に、なんて冷たい態度。でもそれで目くじらをたてる程、僕は狭量な人間じゃござんせん。
峰岸に気取られないように軽い溜息を吐き、傍らの紙袋に手を伸ばす。中から取りだしたのは、メロンパン、チョココロネ、ジャムパンの三点セット。もちろん、食べるのは僕じゃない。
「食べて」
「…………」
差し出されたパンを無言で受け取り、無言で口をつける峰岸。相変わらず、一口一口が大きい。ものの数秒で特大のメロンパンを平らげる峰岸先生。
「食べて」
次のチョココロネも、
「食べて」
次のジャムパンも瞬殺。見ていて気持ちがいい。尤も、見ているだけでお腹がいっぱいになって、僕自身は何も口にしない訳だけども。
だけど、それで充分だった。あの日以来、峰岸は僕の命令に――こと、摂食に関しては――絶対服従するようになった。もちろん、僕がいなくても勝手に食事して勝手に栄養摂取はしている。
だけど。
峰岸は僕の命令には逆らえない。
あの日から――僕が説得して、メロンパンを口にしたその時から――コイツは、僕に依存することに決めたのだ。つまり、正真正銘、僕の支配下に置かれたということで。
もちろん、『命令』は食べる食べない、に限定したことではない。些細なことから重大なことまで――余程突飛なモノでない限り――彼は、僕の命令を聞くことに決めたらしい。
命令の内容は様々で、その時限りのモノから、この先継続して行うモノまで多岐に渡る。
「ヒデ、せっかくだから、もっと美味しそうに食べたら?」
「――俺、美味しそうに食べてない?」
そう言う峰岸の口は、すでに空の状態。決して羨ましくないけど、素直にスゴイと思う。
「うん、物凄い無表情だね」
「それは、辻岡くらい?」
「うん、辻岡くらい」
当人のいないところで勝手なことを言っている。ゴメンね、辻岡。
「うん、決めた――これからは、もっと美味しそうに食べて?」
「――分かった――努力するよ――」
こうして、また新しい項目が増えていく。
誰かを支配する、ということ。
嘘と演技で誰かを操作していく、ということ。
そうやって、この世界を生きていくということ。
僕はもう、かつての青山登ではない。人の顔色を窺って、支配され、依存していた青山登は、もういない。
僕は変わったのだ。
変わって、いくのだ。
峰岸と共に。
峰岸を、使って――。
「それはそうと――問二の解き方、間違ってるよ。そこの公式、サインとコサインが逆になってる」
「……そういうことは、解いている時に言ってくれないかな……。一生懸命計算したのに、最初からやり直しじゃん……」
「だってその時はマンションの話してたし」
本を読みながら僕の話を聞き、その上で人の課題の間違いにまで気が付くって、お前には一体何者なんだよ。絶対に脳味噌一つじゃ足りない気がするんだけど。
「――何なら、手伝おうか? 俺、暇だし」
「いいよ。これは僕の課題だから。時間はまだまだあるしね」
僕が『命令』すれば、この課題を全て終わらせてくれる――そんなことは、分かっていた。だけど、それは違う気がする。そんなことにこの男を使いたくない。そんな些末なことに――命令を使いたくない。その程度の矜持くらい、僕にだってある。
「――ホント、三角関数なんて、この世からなくなればいいのにな……」
溜息を吐き、窓を見る。
いつの間にか、外は暗くなっていた。
空を見上げる。
晴れている筈なのに、月は見えない。
僕を支配し続けていた月は、もうどこにも見えない。
「課題終わったらさ――みんなで遊びに行かない? 海とか、プールとか。今年は冷夏だから、きっとどこも空いてるんじゃないかな」
「みんなって、バスケ部の奴らのこと? ワタナベとか、スエナガとか?」
「そこに辻岡を加えてもいいけどね。野郎だけじゃ華がないから、女の子も呼びたいけど――ううん、僕が声かけられるのは、橘くらいしかいないんだよなぁ……。椎名は静岡だし……」
「スエナガが面子に入ってるんじゃ、難しいだろうね。キャベツと羊と狼が一つのボートで川を横切るようなもんだ」
「……いや、ヒデ、その例えは分かりにくいよ」
まだ、夏は終わらない。
そして、僕たちもまだ終わっていない。
これから、始まるのだ。
変わった僕と、変わった峰岸と、変わらない連中と――多分、これからも嘘を吐き、演技をしていくんだと思う。だけど、不思議と厭じゃない。それが僕なのだ。僕は、そうやって生きていくのだ。
梢には感謝している。
僕が変わるきっかけをくれたのは、彼女だ。あの娘がいたから、あの娘の死があったから、僕は今ここにいる。今こうしてここにいて、生きていこうとすることができている。
峰岸と梢、二人のしたことは許せないけど。
それでも――今では、二人に感謝したい気持ちでいっぱいだった。
月もないのに――辺りは光で包まれている。
僕は、生まれて初めて、そう思ったのだった。