表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
24/27

第四章 the fourth moon 21

 眠れない。

 ひどく疲れている筈なのに。

 たくさんの人間に会って、たくさんの話をして、たくさんの嘘を吐いて――心身共に極限まで疲弊している筈なのに。ベッドの上の僕は(いたずら)に寝返りを打つばかりで、一向に眠気が襲ってこない。

 時計はすでに午前二時を指している。明日からまた練習が再開されると言うのに――どうしたことだろう。

 どうしてこんなに、苦しいのだろう。


 不意に、梢の顔を思い出す。


 彼女はいつも笑っていた。

 彼女はいつも泣いていた。

 いつでも真っ直ぐ前向きで。

 いつでも何かに怯えていて。

 いつでも誰かに支えられていて。

 いつでも――一人で。

 そんな彼女に恋をして。

 そんな彼女に、殺意を覚えて。

 彼女が死んで、僕は満足できる筈だった。彼女が死んで、僕は報われる筈だった。なのに。なのに。なのに。


 ひょっとして――僕は、後悔しているのか?


 振り向いてもらいたくて、彼女を罠にはめた。

 裏切り行為が許せなくて、彼女を罠にはめた。

 どちらに転んでも彼女は僕に追い詰められて、心を打ち砕かれて、それで、それで、それで――。


 僕は、間違っていたんだろうか。


 ――否、そんな訳がない。


 情報を操作して、行動を制御して、人を操って嘘で弄んで――そ

うしている間は、本当に楽しくて。皆が僕の手中にあって、皆が僕の支配下に置かれていて――僕は多分、生まれて始めて生きていると実感できて。それら全てが間違いだったというのなら――だったら、僕は何だと言うんだ。


 今生きている僕自身が、否定されてしまうのか。


 やはり、生まれてきたのが間違いだったと――そう言うのか。


 自己主張は許されず、発言権は与えられず、ただ愛される――そのためだけに必死になって努力して、片手で抱きしめられても、もう一方の手で拒絶されて、どうやったって報われなくて、どうやったって満たされなくて……。


 こんなことなら、あの時に死んでいればよかった。

 

 路地裏で手首を切った時――否、それよりずっと前――。

 嗚呼。

 嗚呼。 

 嗚呼。


 ……そうか。


 重苦しさを感じる頭が、高速回転を始める。無意識に封印していた今までが、意識の上に急浮上してくる。

 僕は――まだ、依存してるんだ。

 まだ、支配されたままなんだ。

 忘れていた訳ではない。忘れる訳がない。ただ、認めたくなかっただけだ。無意識に、認識するのを避けてただけ。

 カーテンの隙間から、月明かりが零れている。

 ほんの少し欠けた月。

 そう言えば、あの日も――満月だった。

 僕は冷たいアスファルトの上で――血溜まりの中で――満月を見上げていた。それからだ、月を極端に嫌悪するようになったのは。きっと僕は、天高くから僕を見下ろす月に、彼女の姿を投影していたのだ。

 僕はずっと――彼女の影に怯えていたんだ。



 胃がキリキリと、締め付けられるように痛む。ふらつく足取りで一階へ降り、トイレへ駆け込んだ。

 胃袋が捲れ上がる感覚。食道を震わせながら、激しく嘔吐(えず)く。だけど出てくるのは胃液ばかりで――そう言えば、今日はハンバーガーしか口にしていない――口の端から、僅かばかりの胃の内容物が唾液と混じり合って糸を引いている。頭が割れるように痛い。

「ふふ……はは……」

 引き攣った口角から、意味不明な笑いが漏れる。

 ――そうか。

 やっと気付いた。

 

 僕は、とっくの昔に壊されていたんだ。

 

 壊れた人間が真っ当なふりをして、怯えて(いと)って(へつら)って、ギリギリのところで世界と折り合いをつけて――だけどやっぱり上手くいかなくて。主体性がないから、僅かなことで揺れ動く。芯が通ってないから、些細なことで折れ曲がる。挙げ句、破綻して――この様だ。


 僕は今すぐにでも、死んだ方がいいのだろうか。


 間違ったステップで無様なダンスを踊るくらいなら、さっさと舞台から降りた方がいいのだろうか。

 否。

 この世界が、悪意と偽物の善意に満ちていると言うのなら――こんな、壊れた人間でどうにかなるような世の中ならば――こんな僕にだって、生きていく資格はある筈だ。この世界は、存在している価値がある筈だ。僕はもう、支配する側に回った筈で。この世界の全てが偽物でまやかしならば、こんな偽物の、壊れた僕にも存在価値はある筈で――。

 むしろ今の僕には、他人を支配し、他人を操作することにしか、存在意義を見いだせないのかもしれない。

 この嘘で。

 この演技で。

 他者を支配し――他者を操作する。

 想像するだけで、身が震えた。

 こんな、どうしようもない僕でも、生きていく道がある。

 こんな、愚鈍で幼稚で浅薄で臆病で卑怯で脆弱で、性根が腐った、根性が曲がった、根本的に壊れた人間でも――生きていくことができる。

 便器に頭を突っ込みながら、僕はようやく、光を見いだしていた。

 今までは、劣等感と疎外感に苦しんでいた。だけどこれからは違う。こんな僕でも優越感に浸ることができる。こんな僕でも、『支配する』という形で、皆の輪に加わることができる。

 そうすることで――生きていることが、許される。

 何て素晴らしいんだろう。真夜中にも関わらず、興奮状態に陥る。ようやく、光を――希望を、見いだせたのだ。興奮せずにいられる訳がない。


 不意に、峰岸の顔を思い出す。

 

 奴はいつも優しかった。

 奴はいつも厳しかった。

 いつでも全ての事を見透していて。

 いつでも全てを許そうとしていて。

 死と殺意を極端に嫌悪していて。

 そのくせ、異常な程に人の感情を(ないがし)ろにして。

 そんな奴を信頼して。

 そんな奴に失望して。

 奴を壊して、僕は満たされる筈だった。

 だけど、今は分かる。

 全てのベクトルにおいて完璧に見えるアイツを支配することで――僕は、真に満たされるのだと。頭脳明晰で抜け目のない奴を支配下におくなんて、サバンナのライオンに素手で挑むようなものだ。だけど、今の――目の前で恋人の死を目撃し、壊れたしまった奴が相手なら、それは児戯に等しい。どん底に陥った奴に手を差し伸べて、引き上げ、峰岸秀典の人格、個性、存在そのものを僕の手中に収める――想像するだけで、興奮する。先程までの痛みも苦しみも銀河の彼方へ吹き飛ぼうってもんだ。

 明日、会いに行こう。

 そう決めた。

 そう決めただけで、何だかひどく安心する。僕という人間は、もうそういう生き方しかできないのだと、再認識する。

 自室に戻り、ベッドに潜り込みながら、明日峰岸にかけるべき台詞を構築する。ひどく心が浮き立って――いつの間にか、僕は眠りに落ちていた。


 

「……あれ以来、何も食べようとしないんですよ……」

 とんでもない美人が、そこにいた。


 翌日、適当な理由で練習を休んだ僕は、朝一番で峰岸家へと向かった。橘の一件で部室から持ち出した住所録が、こんなところで役に立つなんて。市街図と照らし合わせれば、奴の家に辿り着くのに苦労はしなかった。

 突然の訪問に応対した人物は、峰岸に瓜二つの――少し髪を伸ばして、少し柔らかくした感じの――二十歳前後の女性だった。橘の母親も娘によく似ていたけど、今目の前にいるのはその比ではない。正直――一瞬だけではあるけど――峰岸が女装しているのかと、疑ったほどだ。

 彼女は、峰岸の姉と名乗った。奴が『姉さんが、姉さんが』と連呼していたのを今さらながらに思い出す。両親が共に亡くなった今となっては、彼女が奴の親代わりなのだろう。

「あの日以来、ずっと部屋に籠もりっぱなしで……。話しかけても何も喋ろうとしないし、ご飯も食べようとしないし……。無理に食べさせるとすぐに戻しちゃうし……」

 悲愴な表情で、彼女は弟の窮状を訴える。

「本当は、よく喋るし、よく笑うし、よく食べる子だったんですよ? それが、急にこんな……」

 それは僕もよく知っている。ここ数週間に限定すれば、多分このお姉さんよりもよく知っているくらいじゃないだろうか。

 峰岸をあんなにしたのは、僕だ。

 僕が、奴を壊したのだ。

「このままじゃ……あの子、死んじゃいます」

 そう語る彼女の声には、多分に懇願する響きが込められていて。


「あの子を――救ってください」


 頼む相手を間違えてます。


 僕は今から、貴女の弟を支配下に置こうとしているんですよ?

 そのために、僕は来たのだから。

「できるだけ……頑張ってみます」

 だけれど、僕の口から出たのは内心とは百八十度違う台詞だった。いつものことだけれど。


「ヒデ――お友達が来てるよ」

 突き当たりの扉の前で、彼女が扉に語りかける。奇遇なことに、彼女の弟に対する呼称は僕のそれと同じモノだった。だから何だと言われても困るのだけれど。

「――入るね」

 返事がないのはいつものことなのだろう。あまり躊躇せず、扉を開ける。

 六畳ほどの、ひどく殺風景な部屋。


 廃人が、そこにいた。


 椅子に座るでもなく、ベッドに横たわるでもなく、部屋の隅――光を避けるようにカーテンを閉め切り、三角座りをして視線を俯ける峰岸――外界から避けるように、現実から逃げるように、彼はそこに鎮座していて――僕は、ただ、言葉を失う。頬は極端に()けていて、ろくに寝ていないのか、目の下には濃い隈が縁取れている。目は虚ろで――工業用インクを垂らしたかのように、昏い色をしていて。かつての溌剌さは見る影もなく、出来損ないのオブジェのように、ただ、その場に存在しているだけ。人は、たった二日でここまで変わってしまうものだろうか。

 ……いや、食事を抜いただけで、ここまで変貌するとは考えづらい。やはり、精神的なショックが大きすぎたのかもしれない。自分のすぐ目の前で、恋人が肉塊に変わる瞬間を目撃して――それから、自分の殻に籠もって、一切の栄養を拒否して……。

 これが、あの峰岸秀典だろうか。

 級友に『完璧超人』と謳われ、数々のトラブルを解決し、僕を救い、そして僕を突き落とした、あの――。

「――ヒデ……?」

 声をかけたものの、その後が続かない。峰岸の受けたダメージがここまでだとは、想定外だった。勿論、この男をこんなにしたのはこの僕で――その立場からすれば、あまりに計画通りに行きすぎて、祝杯の一つでもあげたいところではある。なのに、素直に喜べない。何故だろう? 僕は、この男の精神を破壊するために、計画を進めていたと言うのに。

「どうしたんだよ……みんな、心配してるよ?」

 内心の迷いなど微塵も出さず、表層の僕は、薄くて軽い言葉で、峰岸を心配しているふりをする。

「ショックなのは分かるけど――だからって、部屋に閉じ籠もって、何も食べないでいたって、しょうがないじゃん。ほら、お姉さんだって、こんなに心配してるんだし……」

 返事がない。まるで――屍のようだ。否、実際、屍なのだろう。心が完全に死んでいる。そして、今後も断食を続けるならば、肉体の方も衰弱してしまう。その後に待っているのは――死、のみだ。

 さて、どうするか。

「……お姉さん、ちょっと、二人きりにしてもらっていいですか」

 彼女を部屋から追い出し、思案する。

 当初は、別に峰岸が死んでも構わないと思っていた。人の感情を蔑ろにするような人間は、死んで然るべきだと――そう考えていた。

 だけど、事情が変わった。

 僕はもう、二度と本物の世界では生きられない。嘘と演技がなければ、まともに息をすることもできない。情報を操り、人をコントロールすることでのみ、満ち足り、安心することができる――僕はすでに、そういう存在になっていた。

 今までは、支配され、従属し依存するだけの人間だった。彼女の顔色を気にして、彼女の望む回答をして、彼女に愛され、認められて――それだけを考え、今まで生きていた。だけど、その彼女はもういない。僕はもう、支配から解放されたのだ。解放された、筈だった。なのに、何故か上手くいかない。人に触れ、社会と接し、世界と折り合いをつけるという、当たり前のことが、僕にはできない。どうしても、できない。できないのなら、無理にする必要はない。発想の転換というヤツだ。支配されるのが厭で、中庸も無理ならば――今度は、支配する側に回ればいい。簡単な論理だ。

 もし、峰岸秀典を支配下に置くことができたなら――容姿も能力も、あらゆるベクトルで突出している、この男を飼い慣らすことができたなら。それは、どんなに幸せなことだろう。想像するだけで心が浮き出す。

 今ここで、この男に死なれては困るのだ。支配とか依存とか以前の問題だ。今この男を失ったら、僕はきっと、死ぬまで空虚な洞窟を彷徨う羽目にあるだろう。真っ暗で、手探りで進んでは躓き、転倒し、あちこちから血を流して、奥へ奥へと入りこんで――とてもじゃないが、耐えられそうにない。耐えられる訳がない。

 僕には、峰岸秀典が必要なのだ。


「――ね、ヒデが好きだって言ってた、谷口屋のメロンパン、買ってきたんだ」

 ここで初めて、右手に持っていた紙袋を持ち上げて見せる。

「来る途中に寄ってきたんだけど――いやぁ、平日なのに行列作っててさ。危うく売り切れになるとこだったよ」

 努めて明るい声で世間話などしてみたが、廃人相手じゃ意味がない。暖簾に腕押し、糠に釘だ。

「ね……食べなよ」

 峰岸の前に紙袋を置く。中から特大のメロンパンを取り出し――にわかに甘い香りが部屋に充満する――鼻先に掲げる。

「――ショックなのは、分かるよ。と言うか、ショックを受けてるのはヒデだけじゃない。ご家族の方々はもちろん、椎名だってそうだし、バスケ部のみんなだって――あの、末永や橘ですら、梢の死を悲しんでいた。もちろん、僕だってそうだ。悲しいし、悔しいし――やるせない。僕たちがもっとちゃんとしてれば、あの娘を救うことだってできた筈なのに……」

 言葉を紡ぎながら、クレッシェンドで感情を込めていく。窓を閉め切った部屋はひどく蒸し暑く、汗がとめどなく溢れ出してくる。

「でもさ……今のヒデは、やっぱり違うと思うんだ。みんなに心配かけて、何も口にしないで、さ――このままじゃ、ヒデも死んじゃうよ? ね、食べようよ。大会なんて出なくてもいいし、練習にも参加しなくていい。辛いなら、外に出なくたって、誰とも喋らなくても構わない。だけど――人間は、食べなきゃ死んじゃうんだよ? ね、食べようよ……食べてよ……食べろよ!」

 激昂した僕は、メロンパンを峰岸の顔面にぶつけ、立ち上がる。

「お前、このまま家で餓死するつもりかよ! もう平成だぞ? 高校生が自室で餓死なんて――意味が分かンねェだろ! 

 こんなの――自殺と変わンねェじゃねかよ!」

 何という迫真の演技だろう。アカデミー賞は無理でも、ブルーリボン賞くらいはもらえるかもしれない。


 ――と、唐突に――峰岸と目が合った。


 膝を抱え、俯いた姿勢のまま、眼球だけをこちらに向けている。『ちらり』とか、『ギロリ』とか、そんな余計なオノマトペが一切つかないような粘性の低さで、視線を移動させて――僕のことを、見ている。

 これは、脈があると考えていいのだろうか。

「あの時――ヒデ、言ったよね? 人の『死』は毒と一緒なんだって。悲しみとなり、憎しみとなり、周囲の人々を蝕んでいくんだって。自殺や殺人なんてのは、如何なる理由があれ、許されざるべき『愚行』で『悪』なんだって……。僕、あの台詞に感動してたんだよ? あの頃の僕は、世の中の全てが怖くて、憎くて、羨ましくて――ずっと、死にたかった。

 ……もう、あれこれ誤魔化すの面倒だから全部言っちゃうけど、『偽の遺書』を作って、ある人間を殺そうとしていたのだって――全部、僕の臆病さからきてたんだ。僕は、臆病で、卑怯で、幼稚で、身勝手で――おまけに、とてつもなく弱い。自尊心が低いくせに自己愛だけは誰よりも強くて……ちょっとしたことで、すぐに暴走する。たぶんあのまま行ってたら、僕は人殺しになってたかもしれない。

 だけど――そんな僕を、ヒデは救ってくれたんだ。

 ヒデがいなきゃ、今の僕はいない。自殺か、殺人か……どちらか分からないけど、きっと最悪の『愚行』を犯していたに違いないんだ。本当に感謝してる」

 これは嘘と言えるのだろうか。梢のことがなければ、今でも『本音』として吐き出すことができたんだろうけど……まぁ、僕に本音なんて似合わないのだから、別にいいのだけれども。

「それなのに……何、してンだよ……。こんな……遠回りな自殺みたいな真似して……。自ら死に向かうなんて、最大の『悪』で『愚行』なんじゃなかったのかよ……。真っ直ぐな目で、僕に生きる希望を諭した峰岸秀典は、どこに行ったんだよ……」

 語りながら、自然と涙が流れてくる。伽藍堂の瞳から流れる涙は、いつも透明で無味無臭。演技の一部なのだから、当たり前だ。……なのに、何故こんなに苦しいのだろう。全部、嘘なのに。全部、演技なのに。

「ね……お願いだから、食べてよ。梢ちゃんが死んだだけでも辛いのに、これでヒデまでいなくなったら、僕はどうしていいか分からないよ……。さっきは、『みんなが心配してる』みたいな言い方したけど――本当は、僕が心配してるんだ! 僕が辛いんだよ! ヒデが死んだら、他の誰より、僕が悲しいんだ! だから……お願いだから……食べようよ……」

 涙声で語る僕を、奴は相変わらずの昏い瞳で見つめている。目の奥は、透明から限りなく遠い黒。きっと、ブラックホールはこんな色をしているに違いない。太陽の五十倍ほどの質量を有するその瞳に、僕は吸い込まれる。

「……明日、また来るね」

 僕は気力を総動員して、視線を峰岸の瞳から引き剥がした。

「その次の日も来る。その次の日も、その次も――ヒデがちゃんと食べてくれるようになるまで、僕は毎日来るから」

 涙を長袖で拭い、扉に手をかける。後ろは振り向かない。もし万が一、彼がこちらを見ていたら、僕はきっと、二度とこの部屋から出られない――そんな気が、したから。


 家に帰り、リビングのソファに身を沈める。相変わらず、家には誰もいない。父親は今日も遅いようだ。

 ――ひどく、疲れた。明日以降もこんなことを繰り返さないといけないと考えるだけで、気が重くなる。だけど、やらない訳にはいかない。峰岸秀典を手駒にするためだ。そのくらいの苦労を厭ってどうする。精神的疲労は、自覚していた以上だったらしい。僕はソファに身を投げた姿勢のまま、眠りに落ちていった……。


 電話の音で、目を覚ました。

 時計を見ると、帰ってきてから三十分くらいしか経っていない。この短時間に、夢も見ないほど深く眠っていたらしい。変な姿勢で寝たせいか、躰がだるく、節々が痛い。重い肢体を引きずるようにして歩き、受話器を取り上げる。

「……もしもし……」

「あ、青山さんですか! 峰岸です! 秀典の姉です!」

 意外な人物から意外なテンションで電話がかかってきたものだ。怪訝に思うと同時に、彼女の声の明るさから、僕は電話の主がこの先に何を言うかを、半ば予想できていた。

「ありがとうございます! あの子、食べました! 青山さんが置いていったメロンパン、食べてくれたんです!」

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ