第四章 the fourth moon 20
――――センパイ――――。
幻聴が、聞こえた気がした。
それとも、実際に誰かの声が聞こえたのだろうか。耳を澄ましてみたけど、激しい雨垂れが地を打つ音が響くばかりで――許しを請うかのような梢の声は、もう二度と聞こえてこなかった。
通夜の会場となった町田家は、昔ながらの木造平屋建てだった。参加者は親類縁者や学校関係者がほとんどで、皆、一様に沈痛な面持ちで、梢の早すぎる不幸を嘆いている。彼女の死が自殺だと知っているのは、この内の何割くらいだろう。……否、遅かれ早かれ、知ることになるだろう。だけど、その真意を知り得る人間は、未来永劫に現れない。自殺は突発的なモノで、遺書すらなかったのだ。彼女が何を想い、何に絶望したかなど、誰にも分かる筈がない。ただ、『自殺』という事実だけを突き付けられ、心に影が広がるだけで。彼女を死に至らしめた不安や絶望の輪郭に蝕まれ、感染していくだけで――誰一人として、真実を理解することはない。
僕だけが、知っているのだ。
椎名を突き落とし、峰岸に見放され、支えを失ったと思い込んだ彼女の顔を、僕だけが見ている。
あの時、確かに僕は心の折れる音を聞いたのだ。
峰岸にしたって、そうだ。至近距離で恋人の死を目撃した奴の精神は、木っ端微塵に打ち砕かれた。
梢を殺して。
峰岸を壊して。
それで僕は満足できる筈だったのに。
何で――こんなに虚しいのだろう。
二人は、僕を裏切った。笑みを浮かべて近付いて、心を開きかけた僕を、醜く嘲笑した。その事実を把握した瞬間、僕の心は殺された。実際、死を選びかけた。やらなければやられる、と思った。このままじゃ永久に支配される側だと、危険を感じて、策を練って、情報を操作して――結果、計画は完璧に遂行されて。
それで、満足できる筈だった。
なのに、どうして満たされない。
どうして、満足できない。
後悔はしていない。むしろ、達成感で清々しくさえ感じられる。だけど、虚無感が拭えない。全てがうまくいきすぎたからだろうか。昨日はあんなにも愉快だったのに……全てを成し遂げた後と言うのは、こんなものなのだろうか。
分からない。
どうしても分からない。
啜り泣きと絶え間なく続く雨音が、僕の曖昧な考えを希釈させていく。
●
どれぐらい、そうしていただろう。
家人に見咎められないのをいいことに――もっとも、彼らは悲嘆に暮れるのに忙しいらしく、端から僕の存在など視界にも入れていなかったのだけれども――僕は町田家の縁側に座り込んで、外を眺めていた。雨に濡れる小さな庭。母親が手入れしているのか、花壇には色とりどりの花が咲き乱れている。花の名前など分からないけれど、ずいぶん丁寧に世話されているのが分かる。梢の母親は土いじりの才能があるらしい。――土いじりって、ジジくさい表現だな。ここは『園芸』といっておくべきだったか。
「何してるんだ、こんなところで」
渡辺に声をかけられたのは、そんな時だった。いつものことながら、背後からの呼びかけには自分でも滑稽に思える程、過剰に反応してしまう。……僕は、何に怯えているのだろう。支配する存在など、もうどこにもない筈なのに。僕は、支配する側に回った筈なのに。
「何って……別に、何も。雨を見てただけだけど」
振り向きもせず、そう答える。どこかボンヤリとした声色なのは、半分が演技で――半分が素だ。今は、そのくらいのバランスでいるのが一番楽だった。こういった時に、どんな振る舞いをするかなんて演技プランは僕には立てられないし、かと言って百パーセント、素の状態を晒すのはあまりにも危険すぎる。例え相手が渡辺であろうと、油断は禁物だ。
「あぁ……そうか」
もっとも、渡辺などに僕の内面を見透かせる訳もなく、馬面に困惑を滲ませただけで、その場に突っ立っている。実際、困惑しているのだろう。奴の目には、僕は『親しい後輩を失ってショックを受けている』男として映っているに違いないのだろうし。僕が梢に想いを寄せていたことを、渡辺を初めとする――峰岸を除く――バスケ部員に知られなくてよかったと、今になって思う。
「――何か用?」
今度は意識して、わざとぶっきらぼうな言い方をしてみる。
「いや、もう挨拶も済んだし、そろそろ退去する頃合いだと思ってな。それで、帰りに皆でマクドナルドにでも寄ろうか、という話になったんだが……ノボルはどうする?」
少し慌てた風に話すのが、いちいち面白い。日和見で、親身になったふりが得意なこの男にすれば、僕という存在は腫れ物以外の何物でもないんだろう。
「行く」
内心、愉快になってきた僕は、こと無愛想にそう答える。
「渡辺の他には、誰がいるの?」
「末永と辻岡(辻ヤン)、あと――椎名もいる」
逆に言えば、峰岸と橘は来ていないと言うことだ。峰岸は葬儀の類に出られる精神状態ではない。橘には、僕が来るなと言っておいた。あの女が来ると話がややこしくなる。
「そっか……ちょうどいいね」
「……何がだ」
立ち上がる僕を、渡辺が怪訝な顔で迎える。
「みんなに、僕の話を――僕の考えを聞いてもらおうと思う。何でこんなことになったのか。何で、梢ちゃんが死ななきゃいけなかったのか……」
峰岸と梢への復讐は果たされたけれど、僕にはまだ、事後処理が残されている。椎名を始めとする周囲の人間を納得させられる『真実』を作り上げなくてはならない。それが、僕に残された最後の仕事だ。
幸い、この家での『仕事』はすでに終わっていることだし……。
●
ハンバーガーを見ると峰岸を思い出す。
マックに来ると峰岸を思い出す。
何故だろう。
弄ばれて裏切られて、手首から滴る血を凝視しながら、復讐を誓った相手なのに。策を練って人を操って、完膚無きまでに精神を破壊した相手なのに。何故、この期に及んで奴のことを想うのだろう。
あの男は、今この場所にいない。
久しぶりに訪れる、駅前のマクドナルド。僕、椎名、渡辺、末永、辻岡――二階の端を陣取った僕たちは、交わす言葉もなく、目を合わせようとすらしないで、ただ暗い顔をしてハンバーガーにかぶりついている。
「――みんなに、聞いてもらいたいことがあるんだけど――」
だから、さっさと終わらせることにした。
「なンだよ、急に」
末永が応える。この男と話をするのも、ずいぶん久しぶりに思える。
「梢ちゃんのこと――なんでこんなことになったのか、僕の考えを聞いてもらいたいんだ」
「……青山君は、何をどこまで知っているの」
昏い目をした椎名が、抑揚のない声で尋ねる。右手を吊った姿が痛々しい。視線は真っ直ぐにこちらを向いていのだけど、目の下に濃いクマができている以外は、至って真っ当な表情をしている。死体を発見した直後は、半狂乱になって『コズエ、コズエ』と喚き散らしていたのに、一日経ってずいぶんと落ち着いたようだ。もちろん、落ち着いただけで、気持ちの整理ができた訳ではないのだろうけれども。
「んや、僕だって、全てを知っている訳じゃあない」
知っていたとしても、話す訳がないし。
「だけど――ある程度、推測することはできる。想像して、仮定を立てることは、できる。だから、これから話すのは僕の『考え』であって、決して真実じゃあない。それでもいい?」
「いいから、話したらいいじゃない。いちいち私の承諾なんていらないから」
椎名の目を正面から見据え、僕は頷く。
そして、話した。
話の内容は、昨日峰岸に話したモノと大差ない。昨日は核心部分まで話せなかったのだけど――いずれにせよ、白紙状態から話す必要がある。頭の中で絶えず整理しながら、適度に感情を込めながら、僕は僕が作り上げた『真実』を語っていく。
以下がその内容だ。
●
イジメなどで精神的に追い詰められた町田梢は、それらの問題が解決しても尚――峰岸や椎名、それに僕といった人間が守ってくれると分かっても尚――心の底から安心することができなかった。いつ裏切られるか、いつ一人になるか、不安でしょうがない。今自分を守ってくれている人たちを、繋ぎ止めたい。ずっと自分を守ってもらいたい――そう願うようになっていた。
そのためには、再びトラブルに巻き込まれる必要がある。
だけど、イジメ問題は解決してしまった。末永も橘も、今は大人しい。自分に危害を加える気配もない。そこで彼女は、ありもしない事件を演出することにした。
つまり、自作自演だ。
その点において、橘あずさはもっとも都合のいい存在だった。情緒不安定で、独占欲、嫉妬心が強く、末永の件でいくつもの前科を犯している。しかも、どういう訳か橘は『末永が梢に好意を寄せている』と誤解しているようだった。『架空の敵』に据えるのに、これほど適確な人間もいない。
梢は橘がさも不穏な動きをしているかのように、僕に、そして椎名に相談し、『架空の敵』の存在を僕たちに印象づけた。それだけで、僕たち三人は再び梢に注目することになるのだけど――彼女はダメ押しとばかりに、自分が殺した猫の死骸を自分の下駄箱に入れるという荒業を繰り出し、騒ぎを大きくする。きっと彼女自身、着地点をどうするかなんて考えてなかったのだと思う。峰岸が、椎名が、僕が、自分を見て自分を守ってくれている――その事実があるだけで充分だったんだ。
そして、昨日の事件が起こる。
橘がおかしな動きを見せているという『情報』を流し、猫の死骸などというショッキングな『事件』を演出し――それだけで充分な筈だったのに、梢はそれだけでもまだ、安心できなかった。
まだ。
まだ足りない。
これだけでは、『橘あずさ』という敵の姿が明確に見えてこない。もっと『何か』を起こす必要がある。そこで彼女は、夜の校舎で橘に襲撃されるという芝居を打った。派手で目立つイベントを立て続けに演出することで、僕たちの擁護を決定的なモノにしようとしたんだろう。ありもしない事件をでっち上げ、僕を、峰岸を、そして椎名を、夜の校舎に呼び出した。
そこで何が起こったか。
そう、椎名が突き落とされたんだ。
梢は、それを橘の仕業に仕立てるつもりだったんだと思う。身体的攻撃を加えることで、椎名は橘に対する憤怒を確実なモノにする――彼女は、そう計算して、敢えて、信頼する先輩を突き飛ばした。
だけど、ここで大きな計算違いが起きた。
軽い打撲か捻挫程度の怪我で済む筈だった椎名が、ぴくりとも動かない。揺すっても声をかけても、目を覚まさない――脈が見つからない――息をしてない――彼女は、そう思い込んでしまった。実際には脈もあったし、息もしていた。だけど、動転していた彼女は、それを確認することができなかったんだ。
――――――殺してしまった――――――。
梢はパニックに襲われた。こんな筈じゃなかった。こんなつもりじゃなかった。芝居のために、自分を守ってくれる大切な先輩を死なせてしまうなんて――彼女は、深く深く後悔した。悲しみ、悔やみ――そして次の瞬間、彼女は恐怖の感情に襲われた。
もうすぐ、ここに峰岸と青山がやって来る。彼らはこの状況を見て、何を思うだろう。一番の味方である先輩をその手で殺害した愚かな自分を見て、それでも尚、彼らは自分の味方でいてくれるだろうか……? いや、そんな筈がない。自分は最悪のことをしたのだ。自分は最低のことをしたのだ。峰岸たちが瞬く間に敵に回る光景を想像して――そして、自分が椎名香織を『殺してしまった』という事実を再認識して、梢は戦慄した。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
どうにかして言い逃れできないものか。当初の計画通り、全てを橘のせいにできないものか――いや、無理だ。怪我程度ならまだしも、殺人事件ともなれば、警察が動く。本格的な捜査をもってすれば、それが橘の仕業でないことぐらいはすぐに分かってしまうだろう。そうなれば、いよいよ自分は破滅だ。言い逃れはできない。かと言って、事実を受け止める訳にもいかない。事実を受け止めるには、大きすぎる罪を背負うには、自分はあまりにも小さすぎる。
どうしよう。
どうしよう。
どうしよう。
梢は焦った。もうすぐ、峰岸たちがやって来る。椎名は生き返らない。自分が殺したのだ。自分が。自分が。全て。自分が。逃げられない。逃れられない。もうダメだ。終わりだ。焦り、哀しみ、悔いて、絶望した彼女は、その足で屋上に向かった――。
――そして梢は、屋上から飛び降りた。
●
僕は一気に全てを語った。語って、騙って、真実を造り上げる。
真実なんて、クソ喰らえだ。
真実なんて、ただグロテスクなだけで、何も救わない。誰も救えない。だったら、自分に都合のいい真実を造り上げた方がいいに決まっている。そこに整合性など、必要ない。必然性など、必要ない。大切なのは説得力だ。嘘も貫き通せば真になる。大多数が信じれば、それが真実になるのだ。僕は目の前の人間の心に訴えかけるように――染み入るように――蝕むように――言葉を選び、表情を選び、架空のストーリーを構築していった。
もちろん、この話が簡単に受け入れられる訳がない。話の節々で、椎名や末永は激しく反論し、何も知らない渡辺は要所要所で疑問を投げかけた。とは言え、僕にはそれら全てが想定済み。椎名がどれだけ感情的になろうと、末永や渡辺がどれだけ事実との違いを指摘しようと、それらに反論する流れ自体が、僕のストーリーテリングに組み込まれていることなのだ。僕の話を『真実』として受け止める必要はない。聞いた人間が、各々で解釈しながら各々の『真実』を造り上げてくれれば、それでいいのだ。
「……ゴメン。やっぱり、私にはどうしても信じられない」
激しい質疑応答が一段落したところで、椎名がポツリと呟いた。
「青山君の話を聞いてると本当にそんな気がしてくるし、他の可能性を挙げろって言われても、私にはムリ。もしかしたら、全部青山君の言う通りなのかもしれない。……だけど、それでも……私は、その話を受け入れる訳にはいかないの」
目を伏せながら、諭すように、噛みしめるように、彼女は言葉を紡ぐ。
「私は、あの娘の記憶を、汚したくない」
驚くほど強い口調で結び、彼女は席を立った。
「……ゴメン。私、先に帰るね。今は……一人になりたいんだ」
そう言い残し、メンバーの誰とも目を合わせないまま、荷物を持って階段へと消えていく。結局、頼んだハンバーガーは手つかずのままだ。右腕を怪我している椎名に配慮してマクドナルドを選択したのに、どうやらいらぬ気遣いだったらしい。
梢への強い想い故に、僕の話は受け入れられない、と宣言した椎名。彼女の胸中には、如何なる『真実』が築き上げられたのだろうか。僕の物語を受容するのも、拒絶するのも、それは勿論彼女の自由だ。だけど、だったら、彼女はこの一連の出来事にどうやって折り合いをつけていくつもりなんだろう。死んだ人間を神聖視したって、自分が辛いだけなのに。
まあ、どうでもいいのだけれど。
椎名が去った後は、大した会話もなく、自然に場はお開きとなった。間接的に悪者扱いされた末永などは、まだブチブチと愚痴をこぼしていたが、先程までのように強く反論しないところを見ると、結局は僕の説を受け入れたのだろう。批判するばかりで自分で考え出す頭を持っていないのだ。末永レベルでは、自分なりの『真実』を造り上げることすらできない、ということか。
今回、全くの傍観者である渡辺などは、驚き、疑問を投げかけはしたものの、案外すんなりと納得してしまっている。根っからの日和見であるこの男にしてみれば、生きている人間に害が及ばなければ、それでいのだろう。
唯一の気がかりは、辻岡が終始無言を貫いていたことだった。
●
「お前は、あれで満足なのか?」
案の定、声をかけられた。
マックを出た僕は、その足で駅の南にある川に向かった。河原に立ち、ボンヤリと増水した川を眺める。時間経過と共に、雨脚はどんどん強くなっていく。雨垂れが傘の布地を叩くドボドボという音が、今は耳に心地よい。
先に店を出た筈の辻岡が後をつけていたのには、薄々気付いていた。だから、背後から声をかけられても、今回ばかりは極端に驚くような醜態を演じないで済んだ。
「……驚かないのか」
つまらなそうに、辻岡が呟く。
「僕のリアクションは、しなきゃガッカリされる程の市民権を得ているわけ?」
「望月高校限定だけどな」
相変わらずの軽口を、相変わらずのポーカーフェイスで軽く受け流す。
「それより……どういう意味? 『あれで満足か』ってのは――」
「さっきの、マクドナルドでお前がした話のことだ」
嫌な予感がする。そして恐らく、その予感は当たる。そういう風にできている。
「何だよ……辻岡も、椎名と同じであの話は受け入れられない、って言うの?」
「お前はどうなんだ?」
ほら来た。
マックで話をしている時から、嫌な感じはしていたのだ。反論するでもなく、疑問を挟むでもなく、黙って僕の説に耳を傾けていた、この男。――まさか、僕の嘘に、気が付いたとでも言うのか? 否、そんな訳がない。ある訳がない。
「……よく、意味が分からないんだけど」
「だから、お前の語った仮説を、お前自身が信じていないんじゃないか――と、そう聞いている」
「だから、意味が分かんないってば。語った本人がその話を信じてないなんて、そんなことある訳ないじゃん。辻岡、僕のことを詐欺師か何かだと思ってない?」
「俺はお前を詐欺師か何かだと思っている」
剛速球が来ましたよ。
辻岡慎哉――変化球に頼らない、ストレート一辺倒の投手だとは思ってたけど、まさか、この期に及んで最速の球を投げてくるとは。
「――ひどい言われようだね」
「俺もそう思う」
「辻岡は、僕が嘘を吐くような男に見えるの?」
「俺は、お前が嘘を吐くような男に見えるな」
取り付く島がない。
「何度も言うようだけど、意味が分からないよ。いいさ、仮に、僕が嘘吐きの詐欺師だとしようよ。……だとしても、何のために、僕があんな嘘を吐かなきゃいけないわけ? そんなことして、誰が得するのさ?」
「誰も得をしない――だが、誰かが傷つかないために、行動を起こすこともある」
おや。またおかしな風向きになったきたぞ。
「……いい加減、僕にも分かるように言ってくれないかな」
「町田の自殺によって、多くの人間が悲しんだ。と同時に、怒りをも覚えた。町田は何故死ななければならなかったのか。町田は何に絶望し、屋上から飛び降りたのか……? 遺書がなかった以上、真相は永遠に闇の中だ。理由がはっきりしていれば、そこに怒りをぶつけることもできる。追及し、非難し、罵倒することもできる。だが、何も分からないのではどうしようもない。……謎は推測を呼ぶ。その推測によって、ありもしない『罪』が生まれる危険性も、充分に考えられる。悲しみのあまり、ありもしない『罰』を償わせようとする輩が出る危険性も、否定できない」
「椎名のことを言ってるの? アイツが暴走して、橘や末永や、東条や高木に復讐するかもしれないってこと?」
「そういう危険性もあるってことだ。憎しみは連鎖し、悲しみは伝播する。どこかでそれを断ち切る必要がある。それが例え偽りの真相でも、連鎖に楔を打ち込むことができるのなら――」
現実主義者の辻岡にしては珍しく、詩的な表現を使っている。そしてそれは、あながち的外れでもなくて。
「……なるほど。それで、僕があんな話をした、と。一応でも、椎名を納得させるために――変なことを考えさせないために。
でもさ、だったら、何で僕は、敢えて『梢ちゃんの自作自演』なんてストーリーをでっちあげたわけ? 死者に鞭打つほど、僕も悪趣味ではないつもりだけど?」
「町田が追い詰められていたのは事実だ。猫の件にしても、確実に犯人が存在する事件だ。どこかに犯人は必ず存在する。真相を詳らかにする以上、誰かを『悪者』にする必要がある。――だが、生きている人間に罪を着せたのでは本末転倒だ。悪者を生み出してはならない。誰も傷つかない結末にしなければ、意味がない」
「――それでも、椎名は傷ついてたみたいだけど?」
「ありもしない罪を求めて、必要もない罰を与えるよりは、幾分マシだろう。それに、死者に対してはどこかでけじめをつける必要がある。『忘れない』のと、『引きずる』のとでは、全く意味が違う」
眉一つ動かさず、淡々と自分の考えを話す辻岡。低いトーンで語られる彼の言葉は、土砂降りの雨に遮られることなく、真っ直ぐに僕まで届く。
この男の言うことは、ほとんど間違っていない。
ニセの真実を造り上げたのも、梢を悪者に仕立てたのも、関係者を納得させるためであって、椎名の暴走を牽制する意味も、そこには込められている。
だけど――辻岡は、根本的な部分で勘違いをしている。コイツは僕が『誰も傷つかない』ように、『椎名が梢のことを引きずらない』ように、あんなストーリーをでっちあげたのだと思っている。
優しさから、僕がそんな行動を選択したと、思っている。
だとしたら、とんだ見当違いだ。
僕は僕のためにしか行動しない。人のことなど知ったことか。ニセの真相で納得させたのは、変に探られたくないからだ。僕の挙動に不審な点があることを、察してもらいたくないからだ。つまりは、保身。優しさや思いやりで僕が動くことなど、あり得ない。
何も知らないくせに、何も分かってないくせに――中途半端に鋭く、中途半端に聡いために、勝手な解釈をして、勝手に納得して、それで勝手にいい気になって。
いつもそうだ。
個人主義からくる無関心を標榜しながら、要所要所で干渉してくる。高い所から見下して、優越感に浸りながら愚者である僕に有用なアドバイスを与えるのは、さぞいい気分なんだろう。自分では何一つ関わろうとせず、自分では何一つ動こうとせず――手を汚すこともなく――常に傍観者。無表情なくせに、時々妙に感傷的になることもあるから、油断すると心を許しかけるのだけれど……今は、そのスタンスに嫌悪感しか覚えない。本人に自覚がないところが、タチが悪い。こんなことなら、あの時に殺しておけばよかった。
――頭が、重い。
嗚呼。
嗚呼。
嗚呼。
この世は悪意に満ちている。
自覚のない悪意で満たされている。
辻岡だけじゃない。椎名も渡辺も末永も橘も――それに峰岸も――皆が皆、各々の物差しで、自分が『正しい』と思って生きている。
自覚のない悪意と偽物の善意は、ニアリーイコールで結ばれている。自分サイズの優しさで世界と接し、適度に欲求を満たし、それで良しとして生き続けている。己の所作で傷つき、虐げられる人間がいることなど知ろうともせず、勿論、自身の行動を省みることも皆無。勝手に生きて、勝手に満足して、勝手にいい気になって――。
僕は、どうだ。
何故僕は、満足に生きられない。
信用して近付いて、裏切られて傷ついて、策を練って報復して――それでも、どこか満たされなくて。機械的に計画の事後処理を行い、独善的な善意で近付いてきた傍観者の言葉にささくれ立って。
本当に、僕は何をしたいんだろう……?
「どうかしたか?」
辻岡の言葉で我に返る。長時間考え事をしていた気もするけど、きっと、時間にすれば数秒の出来事だったんだろう。体内時間と現実時間のズレが日毎に大きくなるのは、多分気のせいなどではない。
「んや……辻岡の理屈を、自分なりに整理してた」
自分で発した台詞が先行して、思考が追いつかないのも、最近よくある傾向だ。口に別人格があるかのよう。辻岡が何を語っていたのかなんて、もう半ば忘れかけていた筈なのに。
「結果は?」
「……なんで、わざわざそれを僕に話したの? 真相がどうだろうと、僕の思惑がどうだろうと――辻岡には、関係なくない?」
敢えて突き放した。この男が普段使っている言葉で、切り離した。
「……そうだな。関係ない。俺はいつだって無関係だ」
そのくせ、少し傷ついたような顔をするのは、どういった了見だ。
「だが……興味がある」
意外だった。この、『無関心』という呪われたアイテムを初期装備しているような男に、興味を示されるなんて。
「――何に? 僕に? それとも、自殺の真相に?」
「どちらにも、だな。何度も質問を質問で返すようで悪いが――」
悪いと思うだけの礼儀はわきまえていたらしい。
「お前は、興味がないのか? 町田梢が、何故飛び降りたのか」
「興味があるからこそ、僕はマックであんな話をしたんじゃないの――と、言っておこうかな」
「俺は、意思確認をしたくて、話しかけたんだ」
「意思確認? 何の?」
「お前が本気で真相を究明するつもりはないのか、どうか」
「残念ながら、僕にそれだけの能力はないよ。思いつきの推測を人に信じ込ませるくらいが関の山でね」
「――峰岸は、どうした」
ああ。
そこに――繋げるのか。
「俺は知っての通り、傍観者だから詳しくは知らないが――ここ最近バスケ部で起きたトラブルを、峰岸とお前の二人で究明していたんじゃないのか?」
あれは、究明と言えるのだろうか。単に、僕があれこれ画策していたのを、峰岸が牽制していただけのような気もするけど。
「悔しいが、頭脳も行動力も、あの男の方が数段上だ」
辻岡の場合、問題なのは能力ではなく、そのスタンスにあるのだと思う。
「そして話術と演技力に関しては、お前は校内の誰よりも秀でている」
そこまで見抜いておきながら、何故この男は核心に到達できないのだろう。
「二人が本気を出せば、自殺の真相を明かすことも、可能だ」
「……かもしれないね」
「そのつもりはないのか?」
「ない。多分、それは知らなくてもいいことだ。真相究明なんて、聞こえはいいけど――やってることは、墓荒らしと一緒だよ。真実なんて、残酷でグロテスクなだけで、誰も救わない。真実が見えることで、新たな悲しみ、憎しみが生まれることもある。僕は……そんなの、望まない」
これは、ほとんど本音だ。もちろん、梢を死に追い遣った張本人が僕である以上、この台詞は思いやりではなく、ただの保身になるのだけれども。……僕は僕のためだけに、嘘を吐く。
「第一、今のヒデには――そんなこと、できない。アイツは、目の前で梢ちゃんの墜落を目撃して、心に大きな傷を負ってしまった。仮に真相究明するにしても、ヒデを引きずり出すべきじゃあない」
まあ、そうなるようにしたのも僕なんだけど。
「――そうか」
表情は相変わらずの能面だが、声のトーンにどこか寂しさが混ざっているようにも聞こえる。僕の知ったことではないけど。
「だったら、俺の話は以上だ。悪かったな、時間とらせて」
「別にいいけど」
「じゃあ、また大会の時に」
事務的な台詞を残し、辻岡は去っていく。彼の痩身が角を曲がる所まで見送り、僕は深く溜息を吐いた。
――やっと行ったか。
重い頭を振り、鞄から手の平サイズのノートを取り出す。
『墓荒らしと一緒だよ』
さっき自分が引用した比喩を思い出す。何故、僕はあんな表現を使ってしまったんだろう。
手の中の、ノート。
梢が、生前につけていた日記帳。
通夜の最中、家人の目を盗み、梢の部屋を探し当て、十分ほど家探しして見つけた戦利品。
僕はそれを持ち出した。
まさに墓荒らしだ。
だけど、これも大切な事後処理の一つ。遺書こそなかったものの――あの状況で遺書なんて書ける訳がないのだけど――梢の想いが綴られているであろう日記は、充分な脅威になり得る。ほとんど事情を知らないであろう家人が見つけたのならまだしも、梢の影を引きずる椎名がこれを見つけた場合、多少面倒なことになる危険がある。ここに何が書かれているかなんて知らないけど、『計画』の障害になるのならば、早めに処分しておくに越したことはない。
周りに誰もいないのを確認して、日記帳を川に投げ捨てた。
大雨で濁流と化した川は、数秒と待たずに小さなノートを飲み込んでいく。町田梢が生前、何を考えていたかを知る手掛かりは、これで完全になくなった。自殺の謎は永遠に闇の中だ。
これで、いい。
日記の内容に興味がないのかと問われれば――勘弁して欲しい、と答えるしかない。
僕はマゾヒストではない。
読めば傷つくと分かっている代物を後生大事に保管しておく趣味など、僕にはない。
これでいい。
これで――いいんだ。
空虚さを感じる自分自身に苛つきを覚えながら、僕は踵を返した。……これから、どうするべきなのだろう。『計画』は完結した。全ては順調に進んでいる。真相に気が付く者もおらず、唯一その可能性がある峰岸は――未だ、壊れたまま。
……奴は、今どうしているだろう。
懸念事項のなくなった今になって、無性にそんなことが気になる。僕が壊した――完膚無きまでに叩きのめした――あの男は、今何を思っているのだろう。
意味などないのに、必要などないのに、帰途の途中、僕は奴のことばかりを考え続けていた。
●
――頭が、重い。
何故だろう。全てを為し終えた筈なのに、何故ここまで憂鬱な気分にならなければいけないのだろう。全てが順調すぎるほど順調に進んで、ほぼ完璧な成果を得られて、それなのに――何故、ここまでの虚無感に襲われなければならないのだろう。梢が飛び終えるまでは、あんなに気分が高揚していたのに……あんなに楽しかったのに。梢を死に追い遣り、峰岸を破壊し、椎名を始めとする多くの人間に疵を残し――それで、満足できる筈だったのに。
ふと思い出して、体を起こした。橘に電話をかけなければいけない。すでに用済みとは言え、彼女にもフォローは必要だ。ニセの真相を知らせて、事件の終結を知らせないと。彼女も梢が死んだことで混乱している筈だし、今の状況で下手に動かれて、椎名あたりとトラブルでも起こされたらやっかいだ。もちろん、橘は利用されただけで無関係なのだから、無視しても構わないと言えばそうなのだけれど――あの女の性格から鑑みて、一人だけ蚊帳の外、という状況は耐えられないに違いない。持ち前の情緒不安定から、こちらの想定外の事態を引き起こさないとも言い切れない。
一階に降り、玄関脇の電話機から、橘家にダイヤルする。数秒して、橘とは違う声が応対に出る。いつぞや橘家に突撃した時に門前払いをくらいかけた、美人の母親だ。
橘によく似た、
かつて社長の愛人だった、
心配性で――
過干渉の――。
――――。
頭が重い。
何故だろう。
これから、橘と話をしなければならないのに。彼女の母親と少し話しただけで、激しい耳鳴りがする。何故だろう。何故だろう。何故だろう。
――いけない。今は橘との話に集中しないと。内容が内容だし、気難しい橘のことだ。充分に言葉を選んで話さないと、電話したことが逆効果になりかねない。
……まあ、そんな心配は全くの杞憂で、電話口に出た橘に対し、僕はお得意の嘘八百を、半ば無意識にペラペラと喋り倒すことができた訳だけれども。
自殺した梢が自分をダシに自作自演を行おうとしていたという『真相』は、彼女を興奮させるのに充分で――だけど、それはそれ。僕は可能な限り、適当な台詞を並べ、偽善的な戯れ言を垂れ流し、いつものようにお決まりのように、彼女を丸め込む。謀る、騙る、誑かす。
――本気で、詐欺師でも目指そうかな。
不思議なことに、嘘を吐いて人を騙している間だけは、頭痛や耳鳴りを感じずに済んだ。偽の自分を演出し、偽の言葉で偽の情報を流している間だけは、偽の安心で偽の安寧を得ることができた。
僕はもう、二度と本物の世界で生きられないのかもしれない。