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第四章 the fourth moon 19(満月)

 翌日に行われた地方予選は、望月高校の優勝で幕を下ろした。



 試合後は学校に戻って、そこで解散となった。メンバーの何人かはこれから祝勝会を開くらしい。僕も何人かのメンバーに誘われたものの、体調不良を理由に断った。悪いね。僕はこれからが忙しいんだよ……。


 浮かれムードで祝勝会場に向かうグループ、疲れてさっさと帰途に着くグループ――渡辺と末永は前者、峰岸と辻岡は後者だった――を見送りながら、僕は体育館裏に向かう。

 夕陽で染まるひび割れた壁にもたれながら、椎名香織がカバーをかけた文庫本に目を落としている。

「ゴメンね、遅くなった。女バスの練習、もう終わってたんだ?」

「五時までだからね」

 女子の大会は来週の筈だけど、さすがに暗くなる前にお開きになるらしい。時刻は、すでに六時を過ぎている。

「で、どうだったの、予選の方は?」

「ん? 優勝したけど?」

「……当たり前のことのように言うわね」

「今回の面子なら当然でしょ。本番は県大会からだって」

「弱小女子バスケ部のキャプテンによくそんなことが言えるよね……。一度でいいから、そんな台詞言ったみたいよ」

 適当な雑談を交わしながら、僕は目的のモノを鞄から取り出し、椎名に手渡す。

「はい。使い方は分かるよね?」

「一応ね」

「鞄に入れておくとベルの音に気付かないことがあるから、鞄に結びつけておくとか、腰から提げるとかしておいた方がいいよ」

「ありがと。いつも迷惑かけるわね」

「それは言わない約束でしょ」

 そんな約束した覚えはないし文脈上もおかしいのだけど、この台詞を聞くと脊椎反射で反応してしまう。どうでもいいけど。

「……それより、梢ちゃんはどう?」

「――どう、とは?」

 視線はポケベルに落としたまま、だけど若干のトーンを下げて、質問を質問で返してくる。

「あの、だから、あの後さ、一緒に帰ったんでしょ? どんな感じだった?」

「どうもこうも……何を話しかけても、ろくに返ってこないし、顔色は悪いし……当然だけど、ショックが大きすぎたみたい」

「じゃあ、今日の練習も?」

「もちろん休ませたわよ。元から、心も体も弱い娘なんだから……あんな状況じゃ、バスケどころじゃないって」

「レギュラー選手でもないしね」

「そういう問題じゃないんだけど」

「ゴメンナサイ。適当な発言でした」

「うん、謝罪が早かったから、許す。三秒ルール」

 こんなところで三秒ルール適用か。新しすぎる。

 それにしても――たった一日で、ずいぶんと元気になったもんだ。昨日までは、憤怒のあまりどす黒いオーラを漂わせていたというのに、今では軽口を叩けるまでに回復している。芯が強いからだろうか。それとも、守るべきモノがあるからなのか。

 椎名だけじゃない。峰岸も――今日のプレイは、神がかっていた。もちろん他のメンバーの働きもあるのだけれど、今回の優勝は峰岸なしには語れないだろう。半日前まで事件のことで悩んでいた男と同一人物とは思えない。

 傷つき、追い詰められても、一人で勝手に乗り越えていく強さ。

 否――(したた)かさ、とでも言うべきか。

 生きていくうえで、多分それは不可欠なスキルなんだろう。意識してるにせよ、無意識にせよ、皆そうやって、日々を乗り越えていく。乗り切っていく。


 僕みたいな、弱者を踏み台にして。


 当たり前のように、何でもないことのように、自分が正義と疑わずに――時系列を進めていく。

 僕はここにいるのに。

 僕は、倒れたままここにいるのに。

 気付かない。

 気付こうともしない。


 ――忌々しい。


 どうしたら、彼らは知るのだろう。

 どうしたら、彼らは思い知るのだろう。

 ……そのためにも、僕は絶対に計画を成功させなければいけない。梢の強さは、椎名と峰岸に依存することで成り立っている。その逆もまた然り。梢へのダメージは、即、椎名へのダメージと繋がる。完璧超人の峰岸は、『死』というものを激しく嫌悪し、憎悪している。

 ――だったら、そこを突けばいいだけの話。

 依存と支配、救済と裏切り、嘲笑と畏怖、善意と悪意、生と死――全てを逆転させ、牛耳り、粉砕する。難しい話ではない。情報を制御し、行動を牽制し、思考を停止させる。

 僕は――ただ、嘘を吐くだけ。

 軽口、戯れ言、罵詈雑言の美辞麗句。僕の十八番だ。何も、難しい話ではない。


「――んだけど、やっぱり門前払いでさ。駄目だね。全然駄目。てんで話にならないわ」

「……椎名は人の話聞けない子なのかなぁ。あれほど、刺激するなって言ったのに……」

「だけどさ、やっぱ気になるじゃん? もちろん、あずさが犯人じゃないってのは、青山君の話聞いて分かったんだけどさ……。なんか、これじゃあずさに罪着せようとしてるみたいだし」

「それで話そうと思ったの? やめようよー。話がややこしくなる」


 あれ?


 僕が物思いに耽ってるうちに、話が進んでいる。しかも、僕もその会話に適切な相槌を打ったりしている。あれ? あれ? ええと、何の話をしてるんだ? 昨日の帰りに、椎名が橘家に突撃した話――みたいだけど、完璧に聞いてなかった。……だけど、もう一人の僕はちゃんと会話に加わってるし。あれ?

「とにかく、やめてよねー。いくら、あの猫の一件に橘が関わってないにしても、アイツの様子がおかしいのは事実なんだから」

 嘘ですけどね。ただ、僕以外の人間と接触しないようにいってあるだけで。ちなみに、今日は朝から鎌倉にいる友達のトコに遊びにいくとか行ってたっけ。まあ、僕がどこか出かけるように進言したのだけれども。今日一日は、どこかに出かけてくれた方が都合がいいので。


 その後は、とくに話すネタもないので、自然とお開きになった。駐輪場まで一緒に歩き、自転車で去っていく椎名を見送る。自転車通学のくせに、徒歩通学の梢と毎日下校を共にしているのだから、見上げた根性ではある。どうでもいいけど。

 時刻は六時半。椎名の姿が見えなくなったのを確認して、帰り支度を始める野球部を横目に、校門へとUターンした。そして僕は、誰からも目に入らない、建物の影に身を潜めた。


 ――何もしない時間と言うのは、案外辛い。

 立ち上がり、痛む足腰に閉口しながら、校舎へと入っていく。目指すはロビーの端にある公衆電話。

 信用金庫のテレホンカードを電話機に滑り込ませ――暗記している番号をプッシュする。

 さあ――本番はこれからだ。



「――ゴメン。待たせちゃったかな」

「ううん、全然。僕も今来たトコだし」

 デートか。

 一回目のデートか。

 心の中で呟いたつまらない軽口に人知れず苦笑しながら、僕は来訪者を迎え入れる。

「……寝てた?」

「いや、疲れてるんだけど、何か神経が昂ぶっちゃってさ……そんなすぐには寝られないよ」

 少し伸びた髪をかき上げ、峰岸は微笑む。余裕だな。これから何が待ち受けているかも知れないで……。

「あれ、今日もパン持ってきたんだ? 夕食、まだだった?」

 いつものように、いつもと同じように、彼は右手にビニール袋を提げている。中はお馴染み、大量の菓子パン。

「今日も姉さん、仕事で遅いんだよ」

 そう言う峰岸を導き、いつものベンチに腰をかける。

「ところで、そっちこそどうしたの? 別れたばっかで呼び出したりして。それも、他に聞かれたくない内容だなんて――」

 僕の目を覗き込みながら、奴は尋ねる。この男はいつもそうだ。こちらの眼底を見て、こちらの内面を推し量りながら、会話を進める。そうやって自分の主導権を握ろうとしているのだ。

「今日、ヒデを呼んだのは他でもない――」

 うーん、できれば、社長椅子にでも座って、格好つけていいたかった台詞だね。生憎、ここは中庭の古びれたベンチでしかない訳だけれども。

「例の、猫殺しに関してだよ」

「へぇ。面白そうだね」

 数瞬の間を置かずに身を乗り出したのは、流石というべきか――それが単純な好奇心からか、それともそれが僕のブラフと見抜いたうえでの行動なのか……。

 袖で汗を拭うふりをしながら、腕時計を確認する。

 午後八時。

 ――そろそろ、いい頃合いだ。

 僕は天を仰いだ。

「色々考えたんだけどさ……」

 言いながら、僕はベンチから立ち上がり、峰岸の正面に回る位置まで、歩を進める。奴はそんなこと、まるで気にしない風で、早速、袋から取り出した菓子パンの封を開けたりしている。

「今の段階で犯人を推し量るには、情報が少なすぎると思うんだよね。分かってることと言えば、『橘あずさは動物アレルギー』ってことと、『橘の挙動を町田梢に伝えた途端に事件が起きた』ってこと、あとは『犯行を行えたのは校内の人間』ってぐらいじゃん? 犯人を推理するには、その三つの材料から推測していくしかない――」

「ちょっと待って。青山――昨日も言ったけど、その条件から論理的に推理していくのは無理だって。初めの二つについては、推理の材料とするにはあまりにも危険すぎるんだ。誰が何を知ってるか、誰が何を知らないか――なんて、第三者に分かる筈がないんだ。下手したら、犯人の策略にはまりかねない」

 そんなことは分かってるよ。分かって言ってるんだ。

「いや、だけどさ――」


 その刹那。


 僕の立っている場所に、影が差した。


 反射的に、天を仰ぐ。


 南校舎の上――傲慢な満月が浮かぶ、その場所に――人影が見える。そのシルエットが邪魔して、僕のいる場所が暗くなっているのだ。

 何という――符合だろう。

 僕は思わず苦笑してしまった。それを正面にいる男に見られてないことを祈りながら――ただ、宙を踊るその人物を眺めていた。



「――ビックリした。……何してるんですか、そんなトコで」

 七時を過ぎて数十分、ようやく目的の人物が到着した。

「何って、決まってるじゃん」

 尻の埃を払い、立ち上がる。


「梢ちゃんを待ってたのさ」


 南校舎の西階段、二階と三階を結ぶ踊り場――微妙な場所だが、ここが僕の指定した待ち合わせ場所だ。すでに陽は沈んでいる。目立たないように照明を消しているため、辺りを照らすのは窓から差し込む月明かりのみ。

 満月の光を背に、僕は梢に話し始める。

「ゴメンネ、本当は家まで迎えに行きたかったんだけど、こっちも余裕なくてさ」

 これは本当。冗談抜きで、やることが多すぎる。

「で、大丈夫だった?」

「何がですか?」

「『何が』と聞かれれば、その意味は二つあるんだけど――まず、ほら、昨日の今日でさ、急に学校に呼び出したりして、その、平気かな……って」

「あぁ……いえ、大丈夫です。まだちょっと、心の整理が付いてないって言うか……ショックですけど……」

「そっか」

 とは言え、実はそっちの方は大して気にしてなかったり。

「……もう一つは?」

「んや、ほら、電話でさ、来る道を指定したじゃない? いつもと違う道で――ちゃんと迷わず来られたかな、と思って」

「あ、ハイ。それは何とか」

「問題ないとは思うけど、ほら、一応……ね。付きまとって、待ち伏せしてる人間がいないとも限らないから」

「えー、大丈夫ですヨー」


「大丈夫じゃないよ」


 ほんの少し、強い口調で威嚇する。

「梢ちゃんはもっと危機管理意識を持った方がいい。僕がこの前に言ったこと、忘れた訳じゃないでしょう?」

 正直、彼女が予想以上に呑気に構えていて、毒気を抜かれそうになった程だ。根本的に頭が悪いのか、それとも、椎名や峰岸の守護によって安心しきっているのか。

「まぁ、無事に着いたからいいんだけどね。もっと気を付けないと」

「あ、ハイ。……あの、一つ聞いていいですか?」

「僕に答えられることなら」

「何でこんな場所に呼び出したんですか?」

「んや、電話じゃできない話だからね。それに、どうしても他の人間に聞かれたくないんだ。外じゃ、どこで誰が聞いてるか分からないでしょう?」

「じゃあ、屋上でよかったんじゃ……」

「人が絶対に来ない、なんて保証はないよ。入ってこなくても、扉の外で聞き耳立てられたらアウトだ。その点、ここなら誰かが来たら、靴音で分かるしね」

「……そんなに、聞かれたくないんですか」

「そんなに、だよ。トップシークレットだ」

 不思議そうな顔でこちらを見上げる梢。月明かりだけの薄暗い空間でも、昨日よりずいぶんと顔色が良くなっているのが、分かる。どいつもこいつも、たった半日でいとも簡単に回復しやがって。誰かに依存するのは、そんなに心地いいものなのか。一人じゃないという自己暗示は、そこまで人を強くするものなのか――忌々しい。

 僕は梢の顔を見据えながら、こつん、こつんと階段を下りていく。

「じゃあ、時間もないからいい加減に本題に入ろうか。今日は梢ちゃんに、どうしても聞きたいことがあってさ」

 こつん。

 梢の横に立つ。

「何、ですか……」


「どうして、あんな馬鹿なことしたの?」



「あんな馬鹿なことって――何のことですか?」

「今さら惚けないでよ――」



 あの猫を殺したの、梢ちゃんなんでしょう?



 刹那、時が止まった気がした。

 空に浮かぶ満月は、飄々と僕たち二人を照らし続けている。

 隣の梢は、ポカンと口を開けて――言われた意味が瞬時に理解できなかったらしい――数秒の間を置いて、ようやく口を開いた。

「何、言ってるんですか……。意味が分かりません」

「そのままの意味だよ。猫を殺して、その死骸を下駄箱に入れて、それを下駄箱の主である梢ちゃんが発見して――その全てが自作自演だったってこと」

「ち、違います。そんな……あたし……そんなひどいコト……何で、何であたしがそんなことしなくちゃいけないんですかっ。そんな、猫を殺すなんて、そんな、ひどい……」

「じゃあ、梢ちゃんは、誰がやったと思ってるのさ」

「――橘センパイじゃないんですか?」

「やっぱりね……いいかい? 橘は、動物アレルギーなんだ。猫や犬に近付いただけで、アレルギー反応が出る。そんな人間が、嫌がらせのために、わざわざ猫殺しなんてリスクの高い真似をすると思う? ――橘だけは、絶対に犯人じゃないんだよ」

「それで、どうしてあたしになるんですかっ」

 気色ばんで食って掛かる梢。いい反応だ。

「じゃあ、順を追って説明しようか。

 まず、今回の事件は、橘が不穏な行動を始めて、僕がそのことを梢ちゃんに警告した、その直後に起きた。これ以上ない程のタイミングでね。しかも、その犯行は部外者にはほぼ不可能だ。間違いなく、校内の人間の仕業だと思われる。つまり、犯人は是が非でも橘を犯人に仕立てようとしていたってこと。だけど、彼女がそうでないのは今説明した通り。じゃあ、誰なんだろう? あのタイミングで犯行を起こすことが出来た――つまり、橘の様子がおかしいとか、僕がそのことを梢ちゃんに警告したとか、そのことを知っている人間は、果たしてどれだけいるんだろう? 僕、梢ちゃん、椎名、そして椎名から事情を聞いた峰岸――橘を除くと、その四人くらいしかいない。

 ちょっと話を戻すけど、橘の動物アレルギー――去年の夏だったかな、体育館裏に野良犬が迷い込んだことがあってさ、その時、バスケ部の連中はアイツから動物アレルギーの話を聞かされてるんだよね。そのことを知っているなら、そして橘に罪を着せるつもりなら、絶対に猫を殺すなんて方法は取らなかった筈なんだ。だけど、事件は起こった。犯人は知らなかったんだ。橘の動物アレルギーを。

 ――知らなかったんだよね、梢ちゃんは。

 去年の出来事だもの。当時中学生の梢ちゃんが知る筈もないよね。逆に言えば、僕や椎名、峰岸はそのことを知っていた訳なんだけども」

「……そ、そんなことで、犯人にされるんですかっ。そんな、あたしが当事者で、一年生だからっていう理由だけで?」

 意外なことに、彼女は僕の話にちゃんとついてきていた。抜けているだけで、論理的思考ができない訳ではないらしい。

「もちろんそれだけじゃないよ。例えば、梢ちゃん、駅前の野良猫を可愛がっていたよね? 『王子』って言ったっけ? 梢ちゃんにダメージを与えるのが目的なら、あの猫を殺せばいい筈なのに、実際に殺されたのは全く別の三毛猫だった。……さすがに、『王子』を殺すのは無理だよね。あんなに可愛がってたんだもの。だから、別の猫を標的にした――違う?」

「違いますっ! 確かに『王子』は可愛がってたけど、でも他の猫も一緒ですっ! あたしに猫を殺すなんて、そんなヒドイことできませんっ!」

 ますますヒートアップしていく梢。

「……あくまでも認めないつもりか……」

「当たり前ですっ! だいたい、理由がないじゃないですかっ! なんであたしがそんなコト――」

「自作自演の目的なんて、どれも似たり寄ったりさ。可哀想な自分を演出して、先輩たちの注目を集めたかったんでしょう? 橘が不穏な動きを始めたと知って不安になった君は、自分を守ってくれる人間を確実なモノとするために、一芝居打った――違う?」

「ち、違いますっ! いい加減にしてくださいっ! なんで、なんであたしが……そんな、自作自演なんてバカなこと――」

「へぇ……イジメの事実を知ってもらうために、トイレで水をかぶるのは、自作自演じゃないんだ?」

「――――っ!」

 息を飲む音が、はっきりと聞こえた。やっぱり図星か。

「ずーっと引っ掛かってたんだよね。あの日あの時、裏口から更衣室の方へ歩いていく梢ちゃんを見送った後、僕は裏口で靴を履き替えてたんだよね。ボーっとしてたから、けっこう時間かかっちゃったんだけど、その間、通用口を横切っていった人間は、誰もいなかったんだ。そして、水をかけられた梢ちゃんを最初に見つけた椎名は、すでに着替え終わっていた。つまり更衣室から出てきたところだったんだよね。更衣室は突き当たりにあって、通用路の両側は壁で挟まれている。女子トイレや女子更衣室には誰もいなかったと、椎名が証言している。男子トイレや男子更衣室に誰もいなかったのは、僕が確認済みだ。とすると、梢ちゃんに水をかけた人間は、どこから来て、どこへ逃げて行ったんだろう? 僕も椎名も、その姿を見ていない。……あれ、梢ちゃんの自作自演だったんでしょう?」

「……ち、違います……」

「そうだね。じゃあ誰が梢ちゃんに狼藉を働いたのか――実は可能性がもう一つ、残されている。つまり、椎名が犯人、という可能性なんだけど」

 サディスティックに微笑みながら、蒼白の梢をさらに追い詰める。「これから椎名を呼び出して、本人に聞いてみようか? 今僕が言ったのと全く同じことを椎名にも聞いてさ、洗いざらい白状――」


「やめてッ!」


 調子に乗る僕を、梢の金切り声がぶった切る。こんなヒステリックな声も出せるんだなー。恐怖と怒りで見開かれた梢の目を見ながら、僕は場違いな感想を抱いていた。

「自分がやったって、認めるんだね?」

「……だって……」

 勢いは瞬間的なモノだったのか、途端に顔を伏せ、震えだしてしまう。

「だって……ああでもしないと、センパイ、気付かないと思ったし……。あの人たち、センパイのいないところであたしイジめるから……だけど直接口で言うのも、告げ口みたいで嫌だったし……あれは、仕方なかったんです……」

「なるほど、今回の件も、仕方なかったんだ?」

「それとこれとは違います! 今回のことは――」

「説得力ないよ」

「そんな……」

 打ちひしがれた顔をしている。縋りつくような顔を、している。何に縋りつこうとしてるんだか。

「あたし……本当に違うんです。信じてください」

「そう言われてもね……」

「――このこと、センパイたちに言うつもりですか……?」

「それは、自白と捉えていいの?」

「違います……」

 さっきまでもヒートアップはどこへやら、すっかりしょげてしまっている。トイレ事件を看破されたのが相当ショックだったらしい。

「……んや、誰に言うつもりもないよ。僕は、本当のことを知りたいだけだから」

 今日一番の嘘を吐きました。

 本当のことなんて――真実なんてどうでもいい。

 事実なんていくらでも捏造できる。徹底した嘘は真実に成り代わる。要は、それが自分にとって都合がいいかどうかなのだ。

「だから、そろそろ本当のことを言ってもらえないかな?」

「……あたしは、最初から本当のことしか言ってない……」

「トイレのことは?」

「……それは……スイマセン。嘘でしたケド……だけど、今回のことは、本当に……」

「うーん、困ったなー。そこまで頑なに否定されるなんて……。じゃあ結局、あれは橘が犯人なのかなぁ……」

 言いながら、さり気なく腕時計を確認する。……もうすぐだ。

「……そうだと思います」

「まぁ確かに、アイツの様子がおかしいのは事実だもんな……。動物アレルギーってだけで犯人説を却下しちゃったけど、無理すればできなくも――」

 と、そこで不自然に言葉を切る。

「――青山センパイ?」

 僕の異変に気付いた梢が不思議そうに顔を覗き込んでくる。僕は立てた人差し指を唇に当て、静かに梢の手を引き、階段を上る。

「……あの……」

「静かに――誰か来た」

 小声で梢を黙らせ、僕たちは階段を上りきる。すぐ横の壁に背をつけ、梢を階段側にして、並んで立つ。

「……ほら、耳を澄まして」

 

 コツコツコツコツ――


 若干早足で歩く靴音が、僅かにはあるけれど、ここまで響いてくる。冒頭にした説明は嘘ではない。この校舎の廊下、材質の関係からか、靴音がやたら響くのだ。


 コツコツコツコツ――

 

 ましてや階段部分は吹き抜けになっているため、周りが無音ならば、一階から二階へ上がる靴音すら聞くことができる。

「……見回りの先生でしょうか……」

「――――いや、違う。もっとよく聞いて……」



 リン、リン、リン、リン――



 鈴の――音が。


 靴音に合わせるように、鈴が鳴っている。


 リン、リン、リン、リン――


 梢にもそれが聞こえたらしい。びくん、と躰を震わせている。顔色も蒼白だ。

「――橘だ……」

 聞こえるか聞こえないかくらいのレベルで呟く。隣の梢は無言で震えている。すっかり恐怖の対象になってるぞ、橘。まあ実際、アイツはちょっとヤバいもんな。

 いくら響きやすい材質とは言え、離れた位置にある鈴の音などという小さな音が、そうはっきり聞こえるものか――と、思うだろうか。だけど、実際に聞こえているのだからしょうがない。余程耳を澄まさなければならない程、靴音にかき消されてしまいそうな程、小さな音ではあるのだけど――確かに、聞こえる。いつもの精神状態なら、聞き取れなかったかもしれない。僕の集中力と、梢の恐怖心が、それを可能にしている。

「――わざわざ違う道を選んだのに……やっぱり、尾行されてたみたいだね」


 リン、リン、リン、リン――


「に、逃げなきゃ――」

「逃げ場なんてないよ、ほら」

 視線の先には防火シャッター。校舎は開いていても、所定の時間になるとこのシャッターが降りて、階段から教室への移動が不可能になるのだ。つまり、僕たちは上下移動しかできなくなっているという訳。上に行っても屋上に出るだけ、そして下に行けば――鉢合わせだ。梢はそのことを知らなかったらしい。

「……じゃ、じゃあ、どうすれば……」

「……逃げるのが無理なら、返り討ちにするしかないね……」

 

 リン、リン、リン、リン――


 鈴の音がしっかり聞き取れるほど大きくなるのに反比例するように、僕たちの囁き声は小さくなっていく。

「……そんな……返り討ちにするなんて……あたし……」

「……大丈夫だよ。ギリギリまで引きつけて、不意を突くんだ。相手は階段を上がってるんだから、無防備だよ。梢ちゃんくらいの体格でも、一撃必殺で充分に太刀打ちできる……」

 アドバイスを与えるふりをしながら、慎重に心理誘導していく。問答無用で先制攻撃するとか、しかもそれを梢にやらせるだとか、冷静に考えればかなり不自然な指示なのだけど、幸いにして、怯えきっている梢はそのことに気が付かない。


 リン、リン、リン、リン――


「でも……あたし、いくら相手が橘センパイでも、そんな乱暴なコト――」

 あくまで煮え切らない態度を崩さない梢。イライラしてくるな。もうちょっと背中を押してやる必要があるみたいだ。

「あれ、梢ちゃん……知らなかったっけ?」

「……な、何をですか……」


「東条たちにイジメをするように仕向けたの、橘なんだよ?」


「――――っ!」

 瞬間、梢を取り巻く空気が張り詰めたのを、確かに感じた。彼女は無言だったけど、人は本当に怒ると、何も喋られなくなるものらしい。仕事を押し付けられ、ボールをぶつけられ、転ばされ、侮蔑の言葉を投げつけられ――数日間の地獄が、彼女の脳裏をかすめたに違いない。


 リン、リン、リン、リン――


「ほら、来るよ……」

 最大限に絞った声で、梢に語りかける。彼女は無言で頷いて――


 リン――


「今だ!」

 僕の合図と共に、彼女は壁を離れた。身を翻し、暗闇に向かって精一杯に両手を突き出す。


「あ――」


 あまりにも短い、驚きの声。

 突き飛ばされた人間の、切ない感嘆符。


 数瞬して、階段を転げ落ちる音が校舎中に響き渡った。


 突き落とした本人は、両腕を前に伸ばした姿勢のまま、硬直している。

「――え?」

 目を見開き、目の前の暗闇を――否、斜め下の空間を、凝視している。突き飛ばした瞬間に、何かを見たのかもしれない。それとも、あの短い感嘆符で、気付いたのか。いずれにせよ、もう遅いのだけれど。

 窓から、月光が差し込む。 

 長い黒髪を放射状に散らばらせ、右腕をおかしな方向に曲げた人物が、そこに横たわっていた。

「…………」

 しばしの沈黙。

 硬直する梢。

 様子を見る僕。

 そして、


 踊り場で、ぴくりとも動かない――椎名香織。


 梢を呼び出した後、時間を置いて椎名も呼び出しておいたのだ。

『橘が動き出した。梢がピンチだ。今は南校舎の三階、西側の階段に隠れてるみたいだから、椎名も助けに来てくれ』みたいな内容で。まあ、突っ込みどころ満載だけど、直前にポケベルを鳴らしておいたおかげか、椎名は簡単に信用したようだった。問題はタイミング。もちろん、各々の家と学校との距離を計算して電話かけたんだけど、何らかの要因でタイミングがズレることは充分に考えられた。その点、僕は幸運だった。二人にとっては不運なのだろうけど。


「え……なんで……」

 無音のせいか、梢の抑えた声がよく聞こえる。

 彼女がその言葉を発した瞬間に、僕は走り出していた。

 梢の脇を抜け、階段を駆け下りる。できるだけ音を立てないように気を付けながら。

「し、しいな……っ!」

 限りなく抑えた、それでいて切迫した声で、椎名の名を呼ぶ。二秒ほどで踊り場に辿り着き、彼女の首筋に、そして口元に手をやる。『手をやる』だけで、決して触れないのがポイントだ。

 椎名はぴくりとも動かない。あれだけの勢いで突き飛ばされたのだ。右腕の肘が通常とは逆向きに曲がっているし、頭も打ったに違いない。

 彼女は、僕の貸したポケベルを腰に提げていた。

 ポケベルには、鈴が結わえられている。

 練習を休んだ日、街の雑貨屋で買ったものだ。安物だけあって、橘のそれとは全然違う音なのだけど、そんなの誰も気付かないよね。椎名はただの飾りだと思って、気にも止めてなかったみたいだけど――この鈴のせいで、他でもない梢に突き飛ばされる羽目になるなんて。本当に面白い。僕はそれを素早く回収し、ズボンのポケットに押し込める。


「うそ……」

 突き落とした本人は未だに放心状態。そりゃそうだろう。宿敵だと思って突き落とした相手が、一番信用してる人間だったなんて、誰が予想できるだろう? ……ま、僕は予想出来ていたけどね。

「きゅ、救急車――早く、救急車呼ばないと……」


「無駄だよ」


 椎名の躰に視線を落としたまま、呟く。


「死んでる」


「――――ッ!」

 ぐらり、と梢の躰が傾いだ気がした。人間、本当に驚いた時は大声を出せない。それは僕自身が何度も経験していることだ。こんなところで悲鳴でもあげられたら、全てが水の泡になりかねない。

「……嘘……ですよね?」

 声が震えている。

「……嘘じゃない。脈がないし、息もしてない」

「え、そんな……嘘ですよ」

 口元が笑っている。

「冗談ですよね?」

 必死で現実を拒絶しようとしている。

「そんな、死んでるなんて……そんな――」 

 必死で――逃げ道を探している。

「こんな時に、冗談は――」

「――冗談でこんなこと言うか――」

 囁き声で、梢の台詞を一蹴する。下りてきた時と同じく、できるだけ音を立てないように気を付けながら、一気に梢の元にまで到達し、彼女の両肩を掴む。瞬間、鳥肌が立つが、今はそんなこと気にしてられない。そのまま彼女を壁に押し付ける。

「何やってんだ――。どうして、あんなことした!?」

「え、だって……センパイがやれって……」

「誰が突き飛ばせなんて言った!? 僕はただ、不意を突いて攻撃しろ、って言っただけだ。ほんの少し隙を作って、それで逃げるつもりだったのに……あんな――あんなことしたら、相手の命が危ないってことぐらい、分からないのか!?」

 信じられない、といった顔で、僕を見ている。そりゃそうだ。自分でも理不尽なことを言っている、と思う。

「だって……だって……」

「――最悪だよ。椎名はきっと、梢ちゃんが心配で後をつけてきたんだろうけど……それがまさか、こんなことになるなんて」

「え、そんな、だって……」

 まだ混乱しているな。もっとちゃんと事態を把握してくれないと、意味がないのだけれども。まあいい。すぐに理解するだろう。自分がしたことも――今自分が置かれている立場も。毒が染みこんでいくように、状況は彼女を極限まで追い詰める。

「そ、そんな……あ、あたし……どうすればいいですか?」


「早く逃げた方がいいね」


 視線をそらし、少し身を引く。すっかり怯えた顔で、梢が見ている。そして、決定的な一言。


「もう君には、味方なんて一人もいないんだからさ」


「――――――――え?」

 意味が分からないらしい。

「自作自演のために猫を殺して、騒ぎ起こして、過失とは言え、心配して来てくれた椎名を、突き落として殺して――そんな人間に味方する人間がいると思う? 

 君は、一人になったんだ。

 誰一人として、君を守ってくれる人間なんて、いやしない」

「え、だって、あの――センパイは――」

 彼女の言う『センパイ』が誰を指しているのかイマイチ分からないのだけれど――取りあえず、一つずつ希望を潰していく。

「椎名はもういない。君が殺したんだ」

「――――」

 反応が、薄い。

『椎名は死んだ』『お前が殺した』という二つの事実はそれだけで決定的で、それだけで梢の心を折るには充分な筈なのだけど――事が重大すぎて、心に染み渡るまで多少の時間が必要なようだった。切り札は使いどころが難しい。


「あと、峰岸(ヒデ)も味方ではないからね」


 なので、もう一つの切り札も重ねて場に出してしまう。

「さっき僕が話した猫殺しに関する推理――実を言うと、あれを考えたの、僕じゃなくてヒデなんだ。アイツは論理的思考ってヤツを巡らせて、あの一件が梢ちゃんの自作自演だと看破した。アイツも猫好きだからなァ……」

「――――」

「こんな下らない理由で梢ちゃんが野良猫を殺したと分かったら、アイツ、どんな反応に出るか――」

「――――」

 肝心な場面なのに、肝心の梢は相変わらずの無反応。まあいい、構うものか。

「峰岸って言う男はね……普段は温厚に見えるけど、自分が許せないと思った犯人に対しては、どこまでも冷酷になれる男なんだよ。相手が誰であっても――例え、それが家族相手でも、恋人相手でも、アイツは容赦なく追及してくる。梢ちゃんは、完璧にヒデを敵に回したって訳」

 もっともらしく嘘を吐く。今回の場合は、一から十まで、嘘ばかり。峰岸は猫殺しに関しては推理を保留している。そもそも、奴は知識や情報の有無を推理の材料にするのは危険、という姿勢をとっている。人は嘘をつくし、勘違いもするし、忘れてしまうことも多い。逆に、思わぬ人物が思わぬ情報を持っていることもあって――『橘の挙動などの情報の有無』や『橘のアレルギーに対する情報の有無』などは論理的思考の材料に成り得ないと――慎重な態度をとっている。新たな条件を追加しない限り、奴は未来永劫、『町田梢=犯人』などという結論を出すことはないだろう。

 それに。

 仮にそんな結論を出したところで、奴は梢を厳しく追及したりするだろうか? 答えは否、だ。確かに、奴の真実を追究することに対する情熱には目を見張るものがあるし、論理的思考と卓越した発想力がそれを可能にしている――のだけど、

 良くも悪くも、奴は甘すぎるのだ。

 あらゆる可能性を取捨選択し、帰納的論理法でもって真実に肉薄したところで、それを裏付けることができなければ――証拠を掴み、自白を引き出さないことには意味がない。いくら事実を積み重ねたところで、詰めをしない限り、それはあくまでも事実の積み重ねに過ぎず、仮説、推測の域を出ない。そういう点で、奴は決定的な欠点を抱えている。僕の時がいい例だ。奴はあの『遺書』の書き手が僕だと分かっていた。確信していた、と言ってもいいだろう。なのに、奴は強く踏み出すことができなかった。奴ほどの人間なら、確証を掴んで、それを僕に突きつけ、自白させることもできただろうに、奴はそれをしなかった。否、できなかった――と言うべきか。奴はその甘さ故、僕から自白を引き出すことができなかった。強くプレッシャーをかけるだけで、その後は僕の良心に賭けただけに終わったのだ。そんな人間が、例え梢が犯人であるという結論に至ったところで、強く追及できる筈がない。恋人相手なら尚更だ。


 だけど、僕にはそんなこと、関係ない。


 峰岸がどうこういう以前に――嘘とか本当とかいう以前に――そもそも、真実か虚構かさえ、僕には関係ないのだ。問題は、相手に対してどれだけの影響を与えられるかであって、本当かどうかなど、どうでもいい話なのだ。要は説得力。嘘もハッタリとブラフも虚構も、相手が信じた時点で真実になるのだ。そして、相手が信じるかどうかは、その時の状況や心理状態で大きく左右される。逆に言えば、その時の状況を利用さえすれば、相手に堂々と嘘を突きつけ、精神を、行動を操作できるということ。梢も橘も末永も渡辺も、峰岸ですら――制御は可能だ。善、美、真、利、楽、悦――人は様々なモノに依存してその行動を決定しているのだろうけど――ツボさえつけば、その全てを支配することができる。

 もう、自分に嘘を吐くのはヤメだ。


 僕は――支配する方に回る。


 せいぜい、今まで嘲笑ってきたことを後悔するがいい。

 あの世で僕に詫び続けろ。


 ゼロコンマ何秒で、様々な想いが駆け巡る。

 瞬間、我に返って相手の顔を見る。

「――――」

 相変わらず、反応は薄い。二枚もの切り札を切ったと言うのに……この期に及んで、僕の言っている意味が分からない、という訳でもないだろう。いくら何でも、そこまで愚鈍な女でもない筈だ。顔色が蒼白なのはいいとしても、真っ直ぐに向いた僕への視線は、何を意味しているのだろう?

 意味が分からない。

 アレほどまでに心配してくれた椎名を殺めて、恋人である峰岸に犯罪者の烙印を押されて――それでも尚、


 僕を見据えている。


 椎名よりも、

 峰岸よりも、


 それよりも――僕を、頼りにしてるとでも、言うのか。


 ふざけるな。何を今さら。


「で、でも、センパイは――」

 嗚呼クソ。僕の妄執を裏付けるかのように、この女は僕に手を伸ばしてくる。

 この期に及んで、僕を頼りにしてると言うのか。

 僕の気持ちを弄んでおいて――

 これほどまでに、僕の心を殺しておいて――

 他に誰もいなくなったと分かって、

 目の前にいる、どうでもいい男に助けを求めると言うのか――。

 溺れる者はナントカ、とはよく言ったものだ。

 

「――さわるな――」

 

 パシッ――と、

 夜の校舎に、渇いた音が響く。

 意識するより早く、差し伸べたその手を振り払っていた。


「――人殺し――」


 吐き捨てるような無声音。

 刹那、梢はぐらりと揺らめき、瞳孔は数瞬前の二倍に広がり、


「あ……」

 

 町田梢はいとも簡単に壊れて。


「あ……あ……」


 口から発せられる意味不明な音声。

 声が漏れるたび、顎がガクガクと痙攣している。

 何だ。

 こんな簡単なことだったのか。

 細かいことはよく分からないけど、彼女の心は――プレパラートを割るが如く――いつも簡単に壊れてしまったらしい。


「あ……あ……あ……」

 

 振り払ったそのまま、床にへたり込む梢。ここまで来れば、もう問題ないだろう。

 一番信用していた先輩を殺め、

 付き合っていた先輩に疑われ、

 馬鹿にしていた男に突き放され、

 それで――彼女は全てを失った。

 先輩たちから理不尽なイジメを受けようが、姿の見えぬ何者から不条理な嫌がらせを受けようが、常に守り、対抗してくれる人間がいた――今までは。どれだけ辛く、痛く、苦しくても、彼女には支えてくれる人間がいた――今までは。

 今は、もう誰もいない。

 椎名も、峰岸も、もういないのだ。

 全ての責任は、彼女自身にある。

 例えそれが過ちとは言え、誤解とは言え――

 その責任は、町田梢にある。

 少なくとも、彼女はそう思い込んでいる。

 ――さて、どうなるか。


「……僕はこれから警察を呼ぶ。椎名の死体は下に運んでおくけど――梢ちゃんは、早く逃げた方がいいよ。……もっとも、警察はすぐに駆けつける。峰岸も追及をやめないだろうし、橘だって、動きをやめた訳じゃない。僕もこれ以上の手助けはできないけど――とにかく、早く逃げることだね。……僕が言えるのは、それくらいだ」

 吐き捨て、さっさと階段を下りていく。目の隅で捉えた町田梢は、両腕で頭を抱え、ガクガクと震えたまましゃがみこんでいる。心を折られた人間が――人の心を弄んだ挙げ句、そのしっぺ返しをくらった人間が――どうなるか、じっくり見ていたいところではあったのだけど、そうもしていられない。踊り場に転がった椎名の、肩と膝の裏に手を差し込み、お姫様だっこの要領で持ち上げる。重さよりも、その体温の気持ち悪さに閉口しながら、ただ黙々と、階段を降り続ける。あまり急いでもいけないけど、ゆっくりしすぎてもいけない。椎名がいつ目を覚ますとも限らないからね。


 それに――そろそろ、あの男が到着する時間だし。



 百点満点だ。

 天を仰ぎながら、あまりの順調さに、逆に薄気味悪さすら覚えていた。自分でも、まさかここまでうまくいくとは思ってなかった。情報を制限し、思考を制御し、行動を操作。言葉にするのは簡単だけど、実際に行うのは容易いことではない。ましてや、相手が三人では尚更だ。今回、事を行うに当たって一番重要だったのが、梢、椎名、峰岸の動きだった。この二十四時間は、とにかく彼らの情報交換と、物理的接触を避けさせなければならなかった。その上で、同じ時間帯に学校に呼び寄せなければならないのだから、タイムスケジュールには特に気を配らねばならなかった。三人の登下校にかかる所要時間を調べ、誤差を含めて綿密に計算し、時間差を置いて電話をかけて……。

 もちろん、全てが計算通りにいく訳ではないことは分かっていた。

 三人が予定していた時間より早く、あるいは遅く到着することは充分に考えられたし、一番のキモである梢にしたって、こちらの期待通りの動きをしてくれるとは限らなかった。

 猫殺しの推理に驚愕し、

 自分への疑惑に憤慨し、

 僕からの追及に反発し、

 来訪者の靴音に狼狽し、

 彼女の鈴の音に恐怖し、

 僕から唆されて攻撃し、

 椎名と知り思考停止し、

 現状を聞かされ絶望し、


 ――心を壊されて――


 そこまで計画通りに動いてくれるなんて、そこまで甘い考えはもってないつもりだった。想定外の反応があれば、柔軟に計画を変化させるつもりで、何パターンもの対応を考えていたのだけど、幸いそれも無駄に終わったようだった。

 椎名にしてもそうだ。梢から突き飛ばされ、踊り場まで転げ落ち、ぴくりとも動かなくなった彼女ではあったのだけれど――死んではいなかった。ただ、頭を打って、気を失っているだけだったのだ。僕としては、死んでいても全く困らなかったのだけど、いずれにせよ、意識を失ってくれたのは幸運だった。でないと、梢に『椎名が死んだ』『自分の手で殺してしまった』と思わせることができないからだ。とは言え、内心はかなりヒヤヒヤしていた。何しろ、いつ意識を取り戻すか分からない。彼女が復活してしまえば、『梢を絶望させる』という計画はかなり難しくなるし、第一、椎名が加われば話がややこしくなる。だからこそ、終始無声音で梢を追い詰めなければならなかったのだ。彼女の心が壊れた後は、苦労して気を失った椎名を一階まで運んだりして――重いんだよな、アイツ――。そろそろ意識が戻る頃だと思うけど。


 さて、事態は大詰め――クライマックスだ。


 梢の精神を破壊した時点で計画の成功は決まったようなものだった。後は、特に何かしなくても、勝手に進んでいってくれる。ここに来て、今までの下準備が活きてくるって訳だ。

 三階の廊下で崩れ落ちた梢が、この後どうするか――否、どうなるかなんて、火を見るより明らかだ。普通に考えて、椎名の死体が転がっている踊り場には――実際には死体ではないし、僕が運び出したため、そこにはもう椎名はいないのだけど――近付きたくないはず。では、どこに行くか。逃げ道は、一つしかない。上だ。梢は屋上へと続く階段を昇るしかない。そして、彼女は屋上への侵入方法を知っている。全てを失った――と思い込んだ――町田梢が屋上で何をするか……言うまでもない。そして、南校舎の屋上は、南東のフェンスだけが低く作られている。乗り越えるなら、そこしかない。


 中庭に呼び出した峰岸と時間潰しの会話をすること数分――僕は屋上の人影を見上げていた。残念なことに、逆光のせいで表情を見ることは叶わない。彼女の方からは、僕たちが見えているのだろうか? ……いや、満月の灯りが届く場所にいるとは言え、だいぶ距離が離れている。ましてや、今の精神状態では、小さな人影を視認することなどできないだろう。

 そして、彼女は宙を踊る。

 彼女は今、どんな感情を、どんな絶望をその小さな顔に浮かび上がらせているのだろう? 計画の段階で分かっていたことではあったのだけど、彼女の今際(いまわ)の表情が見られない――それだけが、どうしても残念だった。


「あ――」

 意図して、そんな声を上げる。声を上げることで峰岸の注意を喚起する。もっとも、その時すでに峰岸は屋上を注視していたのだけれども。


「――――ッ!」


 何だか、声にならない悲鳴が聞こえる。

 その主が峰岸なのか、梢なのか――それとも僕自身のものだったかは、今でも分からない。

                     

 屋上から地面まで、四秒弱。

 その躰は中庭のコンクリで大きくバウンドし、それと同時に、血とか、砕けた頭から飛び散った脳漿とか、あとよく分からない細かな骨や肉とかを、飛散させた。

 峰岸は、目の前二メートル程の距離でそれを目撃していた。危うく奴に激突するところだ。それはそれでまた一興ではあるのだけど――それでは意味がない。

 死んでしまっては、意味がないのだ。

 奴は人の死――それも、自殺や殺人という形で収束した『死』というモノを、誰よりも嫌悪し、憎悪し――また、畏怖していた。

 そんな男の目の前で、人が死ぬ。

 梢が。

 恋人が。

 絶望して。

 飛び降りで。

 ――これほど効果的な復讐があるのだろうか。

 いや、ない。


「――――――――」


 現に、町田梢の欠片を全身に浴びた峰岸は、声にならない声をあげ、その場で固まってしまっている。奴も梢と同じく、心が壊されてしまったのだろう。

 いい気味だ。

 そうやって、絶望してればいい。

 生きて、苦しむのだ。

 怯えて、恥じて、厭って――ずっと僕がそうしてきたように――生まれてきたことを後悔するのだ。

 そして、一生僕に詫び続けろ。



「――警察に、連絡してきた。すぐに来るって」

 数分後、僕たちは中庭の外にいた。峰岸は校舎の壁に背をつけ、しゃがみ込んでいる。折り曲げた膝に伸ばした両腕を乗せ、項垂れたまま一言も発しようとしない。前髪が目元を隠して、表情を読むことすら叶わない。

「……何で、こんなことになっちゃったんだろう……」

 僕の台詞に意味などない。警察が到着するまでの場繋ぎだ。そもそも、今の峰岸にはどんな言葉も聞こえてないだろうし。

「……僕が、守るって誓ったのに」

 だから、好き勝手に適当な言葉を垂れ流す。何の意味もない、何の意味も為さない、ただ夏の夜気に霧散するだけの言葉を、得意になって語り続ける。

「梢ちゃんは、決して強い娘じゃあなかった。そんなことは分かってた。それなのに、些細な行き違いのせいで、辛い目にばっか遭わされて――ひどいよ。ひどすぎる。自覚のない悪意に晒されて、迫害されて追い詰められて――それでも、あの娘は一生懸命に生きていたんだ。……でも、それにも限界があった。だからこそ、僕たちで守ってあげなきゃいけなかったのに……」

 相変わらず、峰岸は何のリアクションも返さないし、微動だにしない。墜落を目撃した瞬間から、電池が切れたように動かなくなってしまったのだ。僕が引き摺ってこなければ、あのままベンチで固まっていたに違いない。……このまま、廃人になってしまうのだろうか。

「……僕は、精一杯やったつもりだった。少しでも梢ちゃんの支えになれればって、そう思ってた。多分、椎名も同じ気持ちだったと思う。ヒデだってそうだよね? 行動派の椎名と、思考派のヒデと、僕はそのサポート役として――この三人で擁護すれば、完璧だった筈なのに……こんなこと、絶対に起こらない筈だったのに……っ!」

 頭で考えずとも、自然に言葉が出てくる。いつものアレだ。僕とは別の僕が、表に出ようとしている。何なんだろう、コレ。冷静に分析できているから、二重人格とは少し違う気がするし。

「……僕さ、いつだったか、ヒデに『死のうと思ったことある?』って聞いたこと、あったよね? 実はあれと同じ質問を、梢ちゃんにもしたことあるんだ。そしたらあの娘、何て言ったと思う?

『あたしは死にません。一人じゃないから』

 って――そう言ったんだ。あの娘はさ、支えがあったから――僕らがいたから、希望をなくさないでいられたんだよ。僕らがいる限り、絶対に――自殺なんて、そんな馬鹿なコト、考えたりしなかった筈なのに……っ!」

 喋りながら、鼻の奥がツンと痛くなる。スラスラと出ていた言葉が、そこで詰まる。


 信じられないことに、僕は泣いているらしかった。


 垂れ流される言葉に付随して、偽りの感情までが噴出しているらしい。意味なんてないのに。ここで涙を流しても、それで何かを得られる訳でもないのに。嘘を吐いて、騙って騙して欺いて、事実を曲げて真実を捏造して――それだけでは飽きたらず、まるで意味のないところですら、虚構の殻を(まと)い続けて――僕は、一体どこへ向かおうというのだろう?


「……それなのにあの娘は死を選んだ。飛び降りた。僕たちの目の前で――ってのは、ただの偶然だと思うけど――結局、僕たちは梢ちゃんを守ることができなかった。ごめんね、ヒデ。僕も椎名も精一杯のことをやってるつもりでいたのに……まさかそれが裏目に出るなんて……。あの娘は支えを必要としていた。それはいい。だけど、それが逆に彼女を追い詰めることに――」


「――ちょっと待って――」


 驚いた。

 今の今まで廃人状態でいると思っていた峰岸が、唐突に僕の言葉を遮ったのだ。ということは、今までの台詞も全て聞いていたということか。もちろん、聞かれてマズいようなことは口にしてないし、どのみち似た内容のことを近いうちに話すつもりでいたから、別にいいのだけれども。

「――今の……どういう意味?」

 やはり、峰岸は峰岸だ。どんな状況だろうが、どんな状態だろうが、納得できないことは聞き逃せないらしい。それはそれで構わない。ちょっと順序が繰り上がってしまうけど、特に問題はない。

「梢ちゃんはさ……きっと、僕らが守れば守るほど、そういう姿勢を見せれば見せるほどに、逆に不安になっちゃったんだと思う。確かに、守られている間はいい。少しでも擁護してくれる人間がいるうちは、安心できる。だけど、それも絶対ではない――あの娘は、きっとそう考えたんだと思う。だから――」


「いや、そうじゃなくて……」


 核心に到達しようというところで、峰岸が待ったをかける。それは、ひどく弱々しく、(かす)れた声だったけど――妙な力強さを持っていて。相反する声を発した峰岸は、相変わらず微動だにせず、僅かに伺える顔の下半分で、口だけが小さく動いている。


「――アオヤマ、何で今――俺に謝ったの?」

 

「え?」

 一瞬、質問の意味が分からなかった。

 コイツは何を言っているんだ?

 話の本題ではなく、僕が軽く『ごめんね』と謝った方に引っ掛かっている。そんなの、二人が交際していて、その片割れの死を防げなかった以上、謝るのが当然というものじゃ――

 ――ああ、そうか。

 そこでようやく、僕は自分の犯したミスを理解した。この男は、自分と梢が交際していることを、未だに僕が知らないと思っているのだった。『アオヤマ』という、チビで臆病なこの同級生は、愚かにも自分の彼女に横恋慕し、あまつさえその想いを成就させようとしていると――いまだにそう思っているのだ。思わず吹き出しそうになるのを、必死で抑えた。何を今さら。この期に及んで、いつの話をしているのだ、この男は。もちろん、峰岸にとって、その話が他でもない『今』なのは分かっている。だけど、だけれど、それを乗り越え、それを過去のモノとして今回の計画を成功させた僕からしてみれば、噴飯モノであることに代わりはない。


「……今まで黙ってて、ゴメン。梢ちゃんとヒデが付き合っていることは、もうずいぶん前から知ってたんだ。僕に気を遣ってくれてるってことが分かってたから、今まで言い出せなくてさ……」

「…………」

 少し気まずそうに、少し気恥ずかしそうに――そして、ひどく自然な口調で、自動的に回る口。

 言うまでもなく、本意は別のところにある。

 確かに僕は、峰岸に対して情報制限を行ってきた。梢と峰岸の関係に気付いているということを、今まで敢えて伏せてきた。その『事実』は、峰岸と梢の両者に敵意を、悪意を、殺意を抱く『動機』に成り得る。勘の鋭いこの男は、たったそれだけのことで僕を疑い出すかも知れない。それが真実であるだけに、どうしてもそれだけは避けたかった。だけど――どうやら、もうその必要もないらしい。

 全ては、終わったのだ。

 峰岸が何に気付こうが、もう関係ない。

 もちろん、事後処理は必要だ。あの猫殺しは何だったのか、椎名は誰に、どうして突き落とされたのか、そして何故、町田梢は死を選んだのか――周囲に対して、世間に対して、世界に対して、解答が必要だ。もちろん、その解答もすでに用意してある。真実は突き止めるものではない。作り上げるものなのだ。すでに壊れてしまった峰岸には、本当のことを追及する気力は残ってないだろう。仮にあったとしても、僕がそうさせない。


「ヒデだけじゃない。……椎名にも、僕は謝らなきゃいけないんだ。アイツにとっても、梢ちゃんは特別な存在だった筈で、結局僕は――僕たちは、あの娘を救えなかったんだから……」

 強引な軌道修正。

「…………」

 結局、峰岸は無反応のままだ。涙の熱演に感想の一つもないとは。……まあ、いいや。いい加減に飽きてきた。そろそろ締めにしよう。

「僕たちは皆、梢ちゃんを守るのに、あの娘を救うのに必死だった。……だけど、結局はその想いが仇になったんだ。

 梢ちゃんは――あの娘は――心のどこかで、僕たちを信用しきれなかったんだと思う。一度理不尽な目に遭っているからこそ、ギリギリまで追い詰めらたからこそ――イジメがなくなり、橘の誤解が解けても、彼女は心から安心することができなかった。今は、守ってくれる人がいる。だけどそれは絶対ではない。永遠に守ってもらうためには、自分はもっともっと悲劇的な目に遭わなくてはならない。彼女は、そう考えた。

 それで彼女は、自作自演を始めたんだ。

 ヒデは知らないかもしれないけど、あの娘は一度、それで成功したことがあるんだよね……。トイレの個室で自ら水をかぶり、それを第三者にやられたかのように見せかけて、椎名にイジメの事実を知らせたっていう――今考えれば、それが全ての間違いだったのかもしれない。その時、誰かがそのことを指摘していれば――そう、僕が、この僕が、ちゃんとそのことを指摘していれば……こんなことにはならなかったのかもしれないのに……っ!」

 声が震える。

 言葉が、詰まる。

 自然に涙がこぼれる。

 どうしてだろう。僕はこれっぽっちも悲しくなんてないのに。むしろ、こんなにもすがすがしい気持ちでいるというのに。……どうして、涙が止まらないんだろう。

「あの娘はまず、橘が怪しげな行動を始めているかもしれないと、僕に告げた。椎名は『僕が彼女に警告した』と思ってるみたいだけど、実際は逆だったんだよ。あの娘は僕たちの擁護をより強固なものにするために、架空の――それでいて実在の――敵をでっちあげたんだ……っ! 下駄箱に猫の死骸を入れたのも、きっと梢ちゃんなんだと思う。橘の悪意を明確にするために……あの娘は、野良猫に手をかけて……っ!」



「それ、本気で言ってるの?」



 真正面からの声に、冷水を浴びせられたかのような感覚を覚える。ずっと俯いて話していたから――足音もなく近付くから――気付かなかったのだ。顔を上げなくても分かる。普段からカリカリしている彼女が、本気で怒った時だけに発する、絶対零度の冷たい声色。

 ――完全に忘れていた。

 恐る恐る、顔を上げる。案の定、そこには折れた右腕をぶら下げ、無表情で立つ椎名香織の姿があった。平気な風を装ってはいるが、脂汗が吹き出ているのが、薄暗い中でも分かる。そりゃそうだろう。右腕の関節が一つ増えているもの。応急処置もなしでは、歩くだけで激痛が走る筈なんだけど……。

「椎名――」

 このタイミングで椎名が登場するとは――ほんの少し、予想外だった。他の時ならともかく、今はマズい。峰岸には、『猫殺しの件で分かったことがある』と言って呼び出して、椎名には『梢ちゃんが誰かに追われてピンチだ』と言って呼び出して――二人にとって、僕の立ち位置は全く違う筈で……その二人を同時に納得させられる『真実』が、咄嗟には思い浮かばない。

 聞いているかいないのか分からない峰岸は無視してもいいような気もするけど――後で足下をすくわれても馬鹿らしい。ここは無難に、慎重にいった方がいいだろう。

「どうしたの……その腕、顔色もひどいみたいだけど……」

「青山君――今の、どういう意味か説明してくれない?」

 心配している風の僕を完璧に無視し、椎名は僕の言葉尻に突っかかっている。

「あずさのことも、猫の死骸も、全部梢の狂言だったって――私の耳が確かなら、そう聞こえちゃったんだけど?」

「……そう聞こえたも何も……その通りだよ……。少なくとも僕は、それが真実だと思っている」

「梢がそんなことする訳ないじゃない」

 彼女の声からは、明確な意思と信条が感じられる。町田梢を信じ、町田梢を尊重しようとする――あまりにも強く、そして悲壮感すら感じられる、その意思――僕にしてみれば、そうやって強い想いをぶつけてくれた方がやりやすい。強い感情は、その強さゆえ、脆く、ひっくり返しやすい。あまりにも扱いやすいのだ。その点、今の峰岸みたく、何を考えているのか分からない方が――生きているのか死んでいるのか分からない方が――難しい。

「単に嘘を吐くだけならともかく、猫を殺すなんてなんてことが、あの娘に出来る訳が――」

「現にそうなんだからしょうがないじゃないかっ!」

 唐突に強い声を出して、相手の虚を突く戦法に出る。冷静な話し合いに持ち込むより、感情を剥き出しにした方が――もちろんそれは演技なのだけど――相手を崩しやすい。……もっとも、こんな小賢しいことをしなくとも。すでに結果は出ているのだけれども。

「勝手に決めないでよっ! 梢は被害者なのよっ!? 第一、私だって誰かに突き落とされてんだからね!? まさか、それまで梢の仕業だって言うつもりじゃないでしょうねっ!?」

 ……かかった。なんて御しやすい女なんだろう。

「その、まさかだよ。全ては梢ちゃんのお芝居で――実は、被害者でも何でもなく、むしろ加害者の側だったんだ……。僕だって、信じたくなんてないけど……」

「――話にならないね。もういいよ。本人に話を聞けば、全部分かることだし」


 ――嗚呼。


 この女は、知らないのだ。


 梢が、死んだことを。


 自ら、死を選んだことを。


「…………」

「何で黙るの?」


 だったら――さっさと真実を知らせて、ゲームセットにしよう。


「…………」

「ねえ、梢、どこ行ったか知らない? さっきから探してるんだけど、見つからないんだよね……。きっと、どこかに隠れてるんだと思うんだけど……」

 僕が椎名を呼び出したことに対し、彼女が触れないのは僥倖だった。峰岸は、僕がたまたま、通りすがりで町田梢の投身自殺を目撃したと思っている。梢のピンチに駆けつけたというストーリーは、椎名にだけ通じる『真実』でなくてならないのだ。

「…………」

「ちょっと、黙らないでよ。梢、知らないの?」

 本当は、椎名を突き落としたのが梢であることを告げたいところなのだけど、峰岸がいてはそれも叶わない。椎名にも梢にも、僕は接触していない設定になっているのだ。だから、僕は無言で、

「…………」

 かすかに、中庭に視線を遣る。

「ちょっと――」

 そして僕は項垂れる。

 何も喋りたくない、という風に。

「あっちにいるの……?」

 椎名は単純だが、頭の悪い女ではない。僕の些細な視線の動きで、中庭に何かあると察知したらしい。これ以上僕たちから――もっとも峰岸は一言も発していないのだけれど――情報を引き出せないと判断した彼女は、折れた右腕をかばいながら、ヨロヨロと中庭に向かっていく。

 ――今度は、椎名香織が壊れる番だ。

 何て素晴らしい三連鎖。

 町田梢の墜死体を発見した椎名がどんな顔で絶望するか――それを目撃できないのが、残念で仕方がない。

 

 月照らす夜の帳に、椎名の絶叫が木霊する。


 パトカーが到着したのは、それからすぐのことだった。

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