第四章 the fourth moon 17
「ねぇ、青山君――」
椎名に声をかけられたのは、翌朝、練習の前のことだった。
「ん、どったの?」
顔を見た瞬間に、僕は自分の予測が正しかったことを確信する。僅かに青ざめ、僅かに怒気を込め――しかもこのタイミングで、椎名が僕に用事があると言えば、一つしかない。だからこそ敢えて、僕は気の抜けた返事で応えてやるのだ。
「『どったの?』じゃないって! 何でそう呑気かなあ!?」
案の定、椎名の逆鱗にソフトタッチだ。真っ直ぐなのはいいけど、単純すぎるのも考えものだ。そんなにカリカリしていたら見えるモノも見えなくなってしまうだろうに。
「何だよ朝っぱらから……穏やかじゃないなぁ」
「穏やかじゃない話を先にしたのは青山君の方でしょ!?」
「あ、昨日の話? 耳が早いねー。梢ちゃんに聞いたの?」
「何でああいうコト言うの!? 梢、すっごい怯えてたんだけどっ!」
「――本当のことだからね」
じぃっと相手の目を見据え、声のトーンを抑えて、僕は言う。
「橘を説得しに行ったのも本当だし、アイツの様子が予想以上にひどかったのも本当」
その二点は本当に本当だから仕方がない。
「それで、僕は梢ちゃんの身が危ないと判断した。もちろん、僕や椎名で守ってあげることも大事だけど……何より、本人が警戒するに越したことはない」
「それは……そうかもしれないけど」
んな訳あるか馬鹿野郎。どこまで単純なんだ。
「第一、文句を言う相手が間違ってるよ。梢ちゃんの身を案じているなら、注意すべきは僕じゃなくて橘でしょう? ……まあ、下手に刺激するのもマズいんだけど……」
「……連絡がつかないんだよね」
「電話したの!?」
「うん――だけど、取り合ってもらえなかった。今は誰とも話したくないって……」
「いや、今接触するのはマズいって……。ついこの前、僕が返り討ちに遭ったばかりなんだしさ。向こうは向こうで、警戒してるんだから」
まあ、警戒してるのは僕が、根回ししといたからなんだけどね。
昨日、梢を屋上に呼び出す直前に、橘家に電話を入れておいたのだ。例の一件以来、橘のお母さんも、そして何より橘自身が、完全に僕を信頼してしまっている。僕の言うことなら、大抵のことは信用してくれる。例えば椎名や峰岸が、橘に何らかの行動を――攻撃を、仕掛けようとしているだとか、何とか。その僕の一言で、橘は二人に対して、完全に心を閉ざしてしまったらしい。何て御しやすいんだろう。情報は遮断され、真偽を確かめることも叶わない。
もちろん、それだけでは長くは保たないだろうけど――別にそれでいい。ただの時間稼ぎなんだから。
「そうは言ったって……このままにしておけないでしょう?」
「だからさ。椎名は、とにかく梢ちゃんの傍にいてくれればいいんだって。それで、彼女を守ってあげればいい。今の梢ちゃんにはそれが必要で、それができるのは椎名しかいないんだから」
あー、また誰かが勝手に喋ってるなー。脚本を書いてるのも、演技プランを決めているのも、実際に演じているのも、全部僕の筈なのに――何だか、舞台の上じゃなくて、観客席にいるみたいな錯覚を覚える。
「私はどれでもいいけど……青山君はどうするつもりなの?」
「僕は僕で、どうすればいいか考えを煮詰めてみるよ。幸い、僕には強力なブレーンがついてるし」
「……峰岸君のこと?」
「最強でしょ?」
「それなら……まあ……」
まだ何か釈然としないみたいだったけど、取りあえず引き下がっていった。そうそう。椎名には、これからも頑張ってもらわないといけないからね。重要な役者の一人なんだから。
そして今日も練習が始まる。地区予選は明後日だ。僕は部員たちとコミュニケーションをとりながら、情報の微調整を計る。あと、末永も橘のこと気にしてたみたいだけど、そっちは軽くあしらっておいた。ゴメン。お前は今回の劇、不参加だから。
僕は自分が誰かと話しているのを遠いところから見ているような感覚に惑わされながらも、次に自分が何をすべきかをじっと考えていた。
●
練習が終わり、僕は一人、帰途に着く。
しばらく歩くと、駅が見えてくる。
どれだけそうしていただろう。
気が付くと民家の塀の上に、一匹の三毛猫が乗っていた。
僕は鞄から小袋を取り出し、その中から小さな緑色の実を二つ摘み上げ、猫の前に放り投げる。狩猟本能からか、三毛猫は目の前でコロコロ転がる木の実に、驚くほど俊敏に飛びついた。もっとも、取ったところで、その実を完全に食べてしまったりはしない。何度か舐めたりはするものの、後は爪先で転がしたり、気まぐれに背伸びしたり――じきに、猫は涎を垂らしながら、腹を見せて寝転がってしまう。
やっぱ、マタタビって凄いね。
街でも意外に売ってなくて苦労したんだけど、効果はてきめんだったみたいだ。カワイイなぁ、猫。
僕は周囲に誰もいないのを確認して、三毛猫を抱き上げた。