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第四章 the fourth moon 14

 ――僕は、死んだ方がいいんだろうか。


 この数日間というもの、その思いは澱のように心の底にへばりついて離れない。

 そりゃ、練習は真面目にこなしているけど。選手たちとも、渡辺とも末永とも辻岡とも、それに峰岸相手だって、如才なく問題なく愛想よく、まるで何事もなかったかのような遣り取りを続けているのだけど。

 ……誰も気づかないのだろうか。

 僕が以前の青山登に戻ってしまっていることに。渡辺や末永はしょうがない。最初から奴らに期待などしていない。……だけど、辻岡と峰岸は。あの二人は――タイプこそ違うものの――高い洞察力を秘めている。口に出す出さないは別として、常に人の内面を見抜き、見透かし――そして救済する能力を持っている。彼らまで、僕の異変に気づかないなんて。僕の買いかぶりだったんだろうか。……それとも、僕の誤魔化しが巧妙になっている証なのか。

 橘の家に行ってから、何かが変だ。

 僕はこんなにも塞ぎ込んで、こんなにも鬱々としているのに――その一方で、明るく楽しく他人と接している自分がいる。内面と外面(そとづら)が完全に乖離してしまっている気がする。これは何なんだろう。僕の処世術が上達しているのか――いずれにせよ、救われない話ではあるのだけど。

 そう、僕は救われない。

 僕は救われる人間ではない。

 嘘を吐いた。

 振り回した。

 追い詰めた。

 傷つけた。

 特に橘の傷は想像以上にひどくて――愚鈍な僕は呑気に構えていたのだけれども――臆病で卑怯な僕は、嘘を上塗りすることで、彼女に偽りの救済を与えた。全部、嘘なのに。そんなことに何の意味もないのに。

 梢にしたって、今みたいに明るさを取り戻したのは、決して僕の功績ではない。それは全部椎名がやったことだ。傷つけるだけ傷つけて、追い詰めるだけ追い詰めて、実際に救済したのは椎名――何て幼稚で、何て迷惑な存在なんだろう。

 ――僕は、死んだ方がいいんだろうか。

 もう、真っ当に生きていく自信がない。呼吸をするだけで腐臭を発するような、薄汚い存在だ。これ以上、何をしようが何を行おうが、それは独善にしか、偽善にしかすぎない。

 何て――恥知らずなんだろう。

 

 ふと、視線が女子コートの方へと向く。

 シュート練習真っ最中の女子バスケ部。先日までドリブルばかりやらされていた梢も、ようやく全体練習に参加させてもらえている。……言うまでもなく、そのシュートがリングを捉えることはないのだけれど。

 梢への告白は、どうしよう。

 すでに辻岡には話が通してある。告白の相手が誰かまでは伝えてないけど――当然のことながら、辻岡の方からそれを聞いてくることもなかったのだけど――とりあえず、奴は僕に場所を譲ってくれた。あとは肝心の梢を屋上に呼び出すだけ、なのだけど……。

 事ここに至って、迷いが生じている。

 僕には人を好きになる資格がない。他人と接点を持ってしまったら、きっと――傷つけてしまう。振り回してしまう。追い詰めてしまう。そんな当たり前のことを、この前まで忘れていた。僕が誰かを好きになって、その想いを伝えることは自由だけど――その先のことを、完璧に失念していた。

 告白の成否は分からない。もしかしたら、僕を受け入れてくれるのかもしれない。だけど――彼女は、本当の僕を知らない。僕がどれだけ卑怯な男なのかを、梢は知らない。多分、これから先も知ることはない。僕がそうさせないからだ。

 また、騙すのか。

 (あざむ)いて(いつわ)って(たばか)って――世界と繋がろうと言うのか。

 それで安心できるのか。

 それで満足できるのか。

 何て――恥知らずなんだろう。


 ――僕は、死んだ方がいいんだろうか。



 ひどく疲弊して、練習を終える。

 いつものことだ。

 ここ数日というもの、ずっと同じことを繰り返している。

 このままじゃいけないと、分かっているのだけど。

 この状態が間違いだと、分かっているのだけど。

 人はそう簡単に変われるものじゃない。峰岸に諭されて、確かに気は楽になったけど……僕がやったことが消えた訳ではないし、そもそも僕自身が、実際には何も変わっていなかった訳だし。結局は自分のことしか考えていないし、外界に対しては無責任で鈍感な訳だし。

 ……なのに、立ち直ったと、更正したと、言い聞かせて思い込んで――(ねた)(そね)み、疎外感、劣等感、空虚感、やるせなさ、寄る辺なさ――種々雑多な悪意と絶望、罵倒と諦観を心の奥底に封じ込めて……その結果がこれだ。無理をすれば、確実にその反動が来る。

 いや、恐らくは――以前より悪化している。

 前はただ、客観的に見てもどうかと思うほど、自己評価が低くて、そのくせ他人には辛辣で、卑屈と高慢と、両極端を不規則に揺れ動く――そんな人格だったように思うけれど。

 一連の出来事があってから、何かが大きく変わってしまった気がする。何だか――ますます歪で不自然な形へと、精神が変容してしまったような。

 作り物の笑みで嘘を垂れ流す自分がいる。

 諦観と絶望で鬱々と塞ぎ込む自分がいる。

 世界を嘲笑し罵倒し安心する自分がいる。

 そして冷静に自分を分析する自分がいる。

 どうしたことだろう。

 躰が勝手に動いているような――思考が暴走しているような――常にフワフワしていて、まるで地に足がつかない。

 これじゃ駄目だ。

 これじゃ駄目だ。

 これじゃ駄目だ。

 ……分かっているのだけど。きっと――もう元には戻れない。呼吸をするだけで気が滅入る。頭が、痛い。

 何が悪いんだろう。

 何が悪いんだろう。

 何が悪いんだろう。


 僕が、全部悪いんだろうか。


 鬱から抜け出せないのも、自分を制御できないのも、吐きそうなのも頭が痛いのも、全部全部全部僕のせいで――僕は、死んだ方がよくて――嗚呼違う。そうじゃない。そうじゃない。僕は僕は僕は。こんな痛みなんて、脳内物質がみせている幻想にすぎない。死ぬってことは、殺すってことは、『毒』と一緒なんだ。それは絶対的な『悪』で、絶対的な『愚行』。だったら、僕は何故生きている?何故今まで生きてこれた?支えがあって、一人じゃないから?違う。僕は僕で、世界は世界だ。死のうが生きようがそれは僕の自由で僕の勝手だ。遊びじゃない人生ってあるか?違う。違う違う違う。

           ――私、絶対に許さないから。(青山君)

   ――悩みがなさそうって言う(青山クン)か。

                ――バッカみたい。(青山)

    ――お前――面白い奴だな。


           ――ちょっと頼みたいこと(ノボル)があってよ。


 ――あれ? 嫉妬?(青山君)

                         ――重いんだよ。

    ――何も知らないくせに。    ――応援してるよ。(アオヤマアオヤマ)

――そりゃよか(アオヤマアオヤマ)った。


――センパイ(センパイ)


――――()――――


「うっ――」

 気が付くと、僕は校舎脇の花壇に膝を突き、吐いていた。

 気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。

 何も考えられない。

 感情が、思考が、記憶が、認識が――暴走を始めている。

 誰かの声が、絶え間なく頭の中で響いている。

 峰岸辻岡橘末永渡辺東条高木梢――

 誰だ。誰だ誰だ誰だ。

 僕を追い込んでいるのは誰だ。僕を振り回すのは誰だ。僕を、僕を、僕を苦しめるのは――誰だ。

 ひどく、痛い。

 ひどく――気持ち悪い。

 花壇にぶちまけられた昼食の残骸を視認しながら、糸を引く唾液を長袖の袖で拭いながら、僕は、緩慢に足を動かし続ける。行き先は決まっている。


 峰岸。


 峰岸峰岸峰岸。

 僕の理解者であり、救世主であり、カウンセラーである完璧超人。きっと、彼なら――僕の現状を救ってくれる。

 あの時のように。

 あの時のように。

 きっと、今も。

 奴の所定位置は決まり切っている。南校舎と北校舎に挟まれた、中庭のベンチ――練習の後は、ほぼ確実にその場所に陣取っている。僕はそのことを知っている。アイツはあの場所にいる。アイツなら、きっと多くを語らずとも、なにがしかの光を当ててくれる。

 僕を、楽にしてくれる。

 絶対的な期待と信頼――低い位置から他人を嘲笑することしかできなかった僕が、他人にそんな感情を抱くことができるなんて。どれだけ塞ぎ、ひねくれ、イジけて絶望してみても……僕はまだ、世界を諦めらめきれないでいる。

 だからこそ辛く――だからこそ痛いのだ。

 僕はどうすればいい。

 どうすれば楽になれる。

 どうすれば救われる。

 どうすれば――どうすれば――

 深く息を吐く。

 大きく息を吸う。

 足を、踏み出す。

 その先に光があると、信じて。



 南校舎の角を曲がると、極端に明度が下がる。この一帯だけ照明がないせいだろうか。中庭の中央に大きな水銀灯が立っているのだけれど、こちらの足下を照らすには距離がありすぎる。

 光は遙か先にあって。

 僕は闇の中にいて。

 早く照らされたいのに。

 早く、楽になりたいのに。

 思うように足が動かない。まるで夢の中にいるみたいだ。苛立ちを抑えながら、ただ前を目指す。峰岸のいる場所を、目指す。

 渡り廊下を横切ればすぐに中庭だ。そして、奴がいるであろうベンチはここから約二十メートル程の位置にある。距離的には大したことないのだけど、花壇や植樹が多くあるため、大きく迂回しなければいけない。


「――――――」


 ……あれ?

 話し声が、聞こえる……?

「――――――」

「――――――」

「――――――」

 距離があるうえに声自体も小さく、何を喋っているのか全く聞き取れない。それどころか、その声の主が何者なのかさえも判断できない。

「――――好きになる――」

「――いつもまっすぐ――」

 近付くにつれて、声の正体が少しずつはっきりしてくる。一人は峰岸に間違いないのだけど……もう一人が判然としない。奴は大きな声で一人声を言うような男ではないし、携帯電話なんて持ってないだろうし……。

 ――じゃあ――誰と一緒にいると言うのか。

 息が荒くなる。

 足が鈍くなる。

 何だコレ。

 何なんだ、コレ。

 何を動揺している。峰岸が自分の陣地で誰と会話しようが、僕には関係ない筈なのに。……それなのに、動悸がクレッシェンドに激しくなっていく。何だコレ。

 何を怯えている。

 何を恐れている。

 何を厭っている。

 自分の真意も分からぬまま、ただ遮二無二足を進める。……中庭はこんなにも広かっただろうか。それとも――僕が無意識に歩みを遅くしているだけか。

 ようやく、件のベンチが見える場所にまで到達する。ここに至ってもまだ、水銀灯までは距離があって――光は遠くて――景色を、光景を、正しく認識できない。

 十メートル先には、ベンチに座る峰岸秀典の姿。そして、その隣に誰かいる。

「――似た者同士―――」

「――――優しくて――」

 よく見えない。

 ベンチに座る峰岸は、いつかのように菓子パンを頬張りながら、隣の人物と真剣に言葉を交わしている。だけど肝心の人物は植樹の影になって――光が当たらなくて――よく見えない。あの樹は桜だっただろうか……。春には満開の花を咲かせるその樹も、今は葉を茂らせるだけの、ただの植樹に過ぎない――なんてことはどうでもよくて。

 距離を縮める度に明度は増していくけれど。

 近付く度に言葉は聞き取りやすくなっているけれど。

 あれは一体――誰なのか。


 刹那、風が吹いた。


 空を覆う雲が移動し、あの忌々しい月が大地を照らす。

 全てを、晒す。

 遠くの方で、鳥が鳴いている。

 桜の影に隠れた人物が、月の光に照らされる。

 

 小柄で無防備な体躯、

 眉の上で切りそろえられた前髪、

 峰岸を見上げる無邪気な瞳――



 ――梢。



 峰岸と梢。

 これはどういう組み合わせなのだろう。何故、今、この場所で――練習後の中庭という、人目のつかない場所にこの二人が揃っているのだろう。ここは峰岸の定位置の筈だったのに。今まで、僕のようなイレギュラー因子でもない限り――峰岸に話でもない限り――誰も、近づきもしなかった場所なのに。

 でも、梢はここにいる。

 峰岸と、言葉を交わしている。


 僕抜きで。


 二人きりで。


 グッ――と、空気が重くなった気がした。

 何だろう?

 息苦しさに、拍車がかかる。

 何でだろう。

 峰岸秀典と町田梢――僕にとって特別な二人がセットになって座っていて、その光景を光の当たらない場所から眺めている僕がいて、きっと僕の言葉は二人に届かなくて、二人は僕とは切り離された空間に存在していて――


 ただ、それだけのことの筈なのに。


 膝が震える。

 汗が止まらない。

 吐き気がする。

 頭が痛い。

 何で。何で。何で。

 意識とは別に、理解とは別に、認識とは別に――確実に、躰が変調をきたしている。現実と乖離するかのように。事実の理解を、拒絶するかのように。

 あの二人は、あそこで何をしている?

 二人を結びつけるモノなど何もない。否、一ヶ月ほど前、梢は峰岸に勉強を教えてもらっていた。だけどそれだけだ。否、それはただ単に僕が知らなかっただけの話で、僕の知らない相関図ができあがっていた可能性はある。僕が知らなかっただけで。僕が把握してなかっただけで。そう。この数週間、僕は周囲の人間を振り回して傷つけて追い込んで、そしてその全てを分かっていて、それで全てを把握しているつもりになっていたけど、世界はそんなに狭くない。世界はそんなに――甘くない。僕の知らない世界など無数にある。そう。もし仮に僕の知らない世界があって、その世界の住人が僕の目に触れないように情報を操作していたとしたら?かつて僕がしていたように。こんな愚鈍な人間でも可能だったのだ。遙かに優秀な峰岸にしてみれば、ひどく簡単なことだっただろう。そう。そう。そう。僕は梢に恋人などいないと思っていたけど。気になる異性などいないと思っていたけど。その全てが操作された情報だったとしたら?僕の知らない所で僕の知らない世界で二人がその関係を続けていたとしたら?


 ――俺は、応援してるから。

 

 不意に、峰岸の言葉を思い出す。あの日あの時、奴は確かにそう言っていた。ひどく魅力的な笑みを顔に浮かべて、僕の恋路を後押ししていた。

 ……大地が波打っている。全身の力が抜けそうになって、慌てて体制を取り戻す。傍らの樹に手をつく。手に伝わる樹皮の温かさが気持ち悪い。靴を通して伝わる土の柔らかさが気持ち悪い。気持ち悪い気持ち悪い気持ち悪い。そう。そう。そう。僕は嘘を吐いた。橘を末永を梢を振り回した。ずっとずっとずっと、その罪悪感に苛まれていた。だけど。嘘を吐いていたのが、僕だけじゃなかったとしたら?騙して欺いて謀っていたのが、僕だけじゃなかったとしたら?奴はいつも温かな、柔らかな笑みで僕に語りかけていた。その声に、その言葉に、僕は心を許した。

 だけど、その全てが嘘だったとしたら?

 耐えられず、僕はその場に膝を着いた。また吐きそうになるのを、ギリギリのところで堪える。

「――――」

「――――」

 重い頭を上げる。月光に照らされた二人の姿が目に入る。


 二人が、こちらを見た気がした。


 数瞬の間を置かず、僕は駆け出し、その場から逃げ出していた。不安定に揺れる大地に足を取られながら、ただがむしゃらに走り続ける。

 見るな。

 見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな。

 恥ずかしい。

 恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしい。


 何をいい気になっていたんだろう。僕みたいな塵芥以下の人間が、誰かを好きになっていい筈がないのに。


 ――お前は、自分にしか興味がないんだと思っていた。


 そう、僕は自分にしか興味がない。他人が自分をどう思っているか、それだけを考えて怯えて媚びへつらって生きているような人間だ。そんな人間が誰かを好きになる筈が――なっていい訳がない。

 何を浮かれていたんだ。何を調子に乗っている。僕みたいな人間が誰かと対等に付き合える筈もないのに。


 ――青山クンって、梢ちゃんのこと好きなんでしょ?


 違う。僕は誰も愛さないし誰にも愛されない。そういう人間だ。勝手なことを言うな。適当な言葉で、僕を振り回すな。


 ――人を好きになることも、できる。


 違う違う違う。何も知らないくせに。何も分かってないくせに。知った風な口を聞くな。偉そうな口を聞くな。耳障りのいい言葉で人を操作するんじゃない。


  

 ――アオヤマとマチダか――お似合いだね。



 どんな気持ちで、奴はそんな台詞を吐いたんだろう。嘲笑していたくせに。見下していたくせに。耳障りのいい台詞を並べて、人の心を掴んで――その双眸で、墜ちていく僕を観察して。

 頭が重い息苦しい。それまで全力で走っていた僕はとうとう限界を迎え、駅前のアスファルトに崩れ落ちる。夜のアスファルトがひんやり感じたのも、ほんの一瞬。躰の熱が伝わり、すぐに生ぬるくなる。

 苦しい。

 苦しい。

 苦しい。

 喉がぜえぜえ言うばかりで、まるで酸素が入ってこない。額を、背中を、腿を、汗が不快な粘性を持って伝い落ちていく。

「畜生……」

 喘ぎながら、思わず呪詛の言葉が口から漏れる。それは誰に向けた呪詛だったのだろう? 峰岸か、梢か――それとも――


 空に、月が浮かんでいる。


 嗚呼、忌々しい。

 満月は人を狂わす力があると言う。幸か不幸か、今はまだ満月ではないのだけど……。どうせなら、早く狂わせてほしい。理性なんかがあるから、苦しむのだ。

 世界は、とうに狂ってしまっているというのに。

 世界は、こんなにも悪意に満ちているというのに。

 僕だけが、まともで。

 僕だけが、いつだって被害者で。

 何で。何で。何で。

 何でいつも僕ばかりが。

 絶望して腐ってささくれ立って、そんな僕に奴は近付いて、全てを見越し、見透かし、見下して――そんな奴を僕は信頼して、そんな奴に、僕は心開いて。

 だけど、奴の言葉は、嘘ばかりで。

 どこまでが嘘だ?

 どこからが嘘だ?

 梢は――どこまで知っている? 

 彼女は峰岸とは違う。イジメに遭っていたのは本当だし、僕の策略で追い詰められたのも本当だろう。あの憔悴具合は嘘には見えない。彼女はそこまで器用な人間ではない。

 ――だけど。

 結果から見たらどうだ。彼女は峰岸と付き合っていた。彼女は峰岸と繋がっていた。僕ではなく、あの峰岸と。イジメ問題が解消して、目立った懸念事項がなくなったことで――奴は、彼女に全てを話したのではないだろうか。そして、梢も奴と同類になった。同罪に、なった。

 全てを知っていて――僕を嘲笑していたのだ。

 峰岸と同じように。

 柔らかく温かく人を包み込むような笑みを絶やさない峰岸と、無邪気で真っ直ぐで思わず守りたくなる梢――二人はよく似ている。魅力的な外見で、耳障りのいい台詞で人を惹きつけて、騙して、弱い部分に付け込んで、人の感情を操作して――笑っていたのだろう。

 畜生。畜生。畜生。


 息が整うのを待って、身を起こす。……僕はこれから、どうすればいいのだろう。全てに気が付いてしまった僕は、明日からどう振る舞えばいい。贖罪だ責任だと、馬鹿みたいに動き回る意味も、すでになくなってしまった。僕に罪などない。僕は最初から何一つしていなかったのだ。それにどうせ、僕なんかがどんなに動いたって、結果はさして変わらないのだろうし。

 僕は、どうすればいい。

 誰もいない夜の駅前をトボトボと歩き続ける。何の目標もなく、生きる気力さえ失ったというのに、帰巣本能だけは残っているのだから不思議だ。家に帰ったところで、誰かが帰りを待っている訳でもないのに。

 駅の近く、いつかのように――いつもように、あの自転車が今日も違法駐輪されている。何度も何度も蹴り倒されたせいか、所々ボコボコで、後輪のスポークなど半分以上が踏み抜かれてしまっている。ま、僕がやったことだけど。

 自転車はスピードをつけて走り続ける限り、倒れることはない。物理は苦手だから詳しい理屈はよく分からないけど、とにかく走り続けることでバランスを取っている。……走り続けたのに、最後までバランスを取ることができなかった僕とは大違いだ。……いや、それすら違うのか。僕が走っていられたのは、後ろで支えてくれた人間がいたからだ。幼児が補助輪なしでの走行練習をするため、親が後ろで支えてくれるように――一つ違うのは、僕の場合、後ろで支えていたのが悪意ある人間で、ペダルもハンドルも、その人間の意思で操られていたという点で――つまり、僕はサドルに腰掛けていただけで、最初から自転車に乗ってすらいなかったのだ。可笑しすぎて涙も出ない。

 自転車以下の人間である僕は、悔し紛れに、いつもそうしてるようにそれを蹴り倒そうとして――


「オイ」


 背後から声をかけられた。

 知っての通り、僕は背後からの接触に弱い。声をかけられた、ただそれだけのことで、総毛立ち、萎縮し、動悸が激しくなる。

「……お前か……いつも人の自転車を倒してる奴ァ」

 驚いて振り向くと、数メートル先の街灯の下、見知らぬ男がこちらを睨み付けながら、カツカツと近付いてくる。

「え、あの……」

 まず目に入ったのが、不自然に赤く染められた髪。次に原色系のアロハシャツが目に入って――次の瞬間、視界が暗くなった。

「――――ッ!」

 気が付くと、アスファルトに倒れていた。世界が揺れている。顔の左半分がひどく熱い。自分が目の前の男に殴られたと気付いたのは、奴のつま先が僕の腹を蹴り上げてからだった。

「うっ!」

「お前、何なワケ? どういう権利があって、毎度毎度、人の自転車倒してくンだよ?」

 ひどく粘着質な声が上から降ってくる。そしてその間も、奴の足はリズミカルに僕の腹を蹴り上げていて。

「そりゃ、道端にチャリ停めてる俺も悪いかもしンねーけどさ、そしたら何だよ、違法駐輪されてるチャリは、好き勝手に蹴り倒してもいいってのか? あ? 笑わせンなッ!」

 こんな男、僕は知らない。僕の物語に初めて登場する人物だ。だけど、彼の所有物であるところの自転車はずいぶん前から僕の物語に登場していて、僕はそれを自分の怒り苦しみのはけ口として蹴り倒していて、この男はそれが許せないらしくて。

 男は腹を蹴り上げるのにも飽きたらしい。僕を無理やり立たせ、雑居ビルの壁に顔面を叩きつけた。鼻血が吹き出す。膝を突けば、顎を蹴り上げられる。仰向けに倒れれば、腹を踏みつけられる。どう考えても度を超しているとしか思えない暴力が、延々と続く。僕にとって幸運だったのは、奴が頭を蹴った時点で、僕の意識が途切れたこと。その後どうなったのかは、まるで憶えていない。



 お前は何も分かっていない。

 お前は何も分かっていない。

 お前は自分が何だと思ってるんだ。

 お前は世界が何だと思ってるんだ。

 全てに怯えて、全てに背いて、全てを厭って、全てを妬んで、蔑んで、卑屈に構えて不幸ぶって――一体、何がしたいんだ?


 いい加減――自分に嘘を吐くのはやめたらどうだ?


 本当は、分かっている筈だ。

 お前は、誰かを愛すことなどできない人間だ。

 お前は、誰かを許すことなどできない人間だ。

 自己愛が強すぎるんだよ。

 お前の世界には、いつだってお前一人しかいない。

 一人しかいないから、常に自己完結だ。周囲に目を配る事がない。周囲に耳を傾けることがない。世界で何が起きているか、知ることがない。知ろうともしない。そんな人間が、誰を愛するっていうんだ? 一人しかいないのに、自分しか愛することができないのに――無理をするな。お前はただ、人並みに人を好きになって、人並みに人と繋がって――自分だって、そういうことのできる人間だと思いたくて、安心したくて――演技しているだけなんだよ。

 お前は、そんな人間じゃない。

 未来永劫、お前は救われないんだよ。


 思い出せ。

 

 そういう風に、育てられたんだろう?


 愛を持って人と接したり、人に情けをかけたり、人の痛みを分かろうとしたり――そんな芸当、お前にできる訳がないんだよ。愛を知らずに、愛を与えられずに、ただ『支配』されるしかなかったんだから。

 よかったじゃないか、逃げ道ができて。お前が人でなしなのは、お前が人並みに生きられないのは、お前の世界が歪んでいるのは――お前の責任じゃないんだ。これからは、好きなだけ責任転嫁できる。今までそうしてきたように――いつまでも、そうやって甘えてればいいんだ。


 それで、お前はこれからどうする?


 生きるのか?


 死ぬのか?


 好きにしたらいい。

 いずれにせよ、お前の世界には、自分一人しかいないんだから。


 それでも、まだ生きると言うのなら。

 ――もう、自分に嘘は吐かないことだ。

 どう頑張ろうが、人並みに人と付き合うことなんかできないんだ。お前にできるのはごくシンプルな二者択一――

『依存』か、

『支配』かだ。

 どちらを選ぶかは、お前の自由。

 そう、自由だ。

 

 ただ――そろそろ『支配』する側に回るのも、悪くないかもしれないけどな。



 ――声が、聞こえる。


 誰だ?


 誰だ誰だ誰だ。

 耳を澄ましても何も聞こえない。そして、さっきまで脳内で木霊していた声は、その内容を思い出そうとした途端に霧散していく。まるで、最初から何も聞こえなかったかのように……。


 目が覚めた時、僕は路地裏に捨てられていた。

 まだ生きているらしい。

 ……なんで。


 なんで、僕はまだ生きている?


 死ねばよかったのに。

 死んでしまえば、よかったのに。

 僕はこの世界に生きている価値などない。

 この世界は、僕が生きているだけの価値などない。

 恥を晒しながら寄る辺なく生きていくくらいなら――ひと思いに、殺してほしかった。

 その方が楽なのに。

 その方が、救われるのに。

 

 どれだけの時間が経ったのだろう。よほど奥まった所に放置されているのか、辺りは完全な闇に包まれていて、自分がどういう状態なのかすら、把握することができない。頬を、首を、胸を、腹を、不快な液体が伝い落ちていく。汗か――いや、血か。あれだけ殴られ、蹴られたのだ。相当な怪我を負っているに違いない。顔全体が発熱したかのように熱い。少し動いただけで、躰のあちこちに鋭い痛みが走る。ズタボロだ。身の心も。何もかも。全部。

  

 ……だいぶ、暗闇にも目が慣れてきた。僕が捨てられていたのは雑居ビルに挟まれた細い路地裏で、ゴミ袋や空き瓶がそこらに転がっているような――まるで僕みたいに――薄汚い場所だった。躰を見れば、あちこちが擦り剥け、赤く腫れ上がっている。切れて血が出ている箇所もある。思わず声が漏れる程の痛みだったけど、骨折まではしていないみたいだ。

 腕を見る。

 あちこち引っ張られたせいで、いつも袖で隠している部分が破け、露わになっている。

 ――なんて、醜いんだろう。

 長い年月に渡って、つねられ、叩かれたせいで、所々が痣のように黒ずみ、腕全体を斑模様が覆っているように見える。右腕、手首と肘の中間には、煙草を押し付けた後が忌まわしき刻印のように穿たれていて――思わず、目を背けた。誰にも見せることのない、僕の影。真夏でも長袖を着続ける理由が、ここにある。


 ――何かを、思い出しそうな気配。


 慌てて妄執を振り払う。もう、終わった筈なのに。僕は自由になれた筈なのに。

 しつこく流れる液体を、袖で拭う。

 峰岸の顔を、思い出した。

 梢の顔を、思い出した。

 辻岡の顔を、橘の顔を、渡辺の、末永の、椎名の顔を、思い出す。思い出しす度に、気持ちが深く沈んでいく。最底辺にいた筈なのに、僕の心は底なしにできているらしい。暗く、深く、より光が当たらない部分へと、音もなく沈んでいく。


 僕を支配するのは、誰だ。


 ……蒸し暑くて仕方がない筈なのに、躰が震えている。

「ううううう」

 口から、意味不明な言葉が漏れる。

「ううううううううう」

 ガタガタと、躰が震える。頬を、顎を、液体が伝う。拭っても拭っても、伝い落ちていく。

「ううううううううううううう」

 必死で口を押さえるのだけど、嗚咽が止まらない。


 ――嗚咽? 


 僕は、泣いているのか?


「ううううううううううううううううう」

 もう、涙も出ないと思っていたのに。泣くことなどないと、思っていたのに。どうして、僕は泣いているんだろう。辛くて、痛くて、淋しくて、哀しくて、悔しくて、恥ずかしくて、情けなくて――それで、僕は泣いているのか?

 分からない。

 分からない。

 もう、何も分からない。


 なんで。


 なんで。


 なんで。


 なんで僕は生きている。


 なんで、僕は生まれてきた。

 

 ――何が、悪かったのだろう。


 愛されたかった、だけなのに。

 愛されたくて、認められたくて、見てもらいたくて。だけどそれは叶えられなくて。依存すれば支配されて。近付けば拒絶されて、弱みを見せれば付け込まれて、腹を割れば利用されて。

 どうして。

 どうして。

 どうして僕は。


 ――どうして僕は、生まれてきたんだろう。


 どうして、生きているんだろう。

 生まれてきたのが罪で、生き続けるのが罰ならば――

 もう、充分な筈なのに。

 もう、これ以上の罰を受けなくても、いい筈なのに。




 ――限界だ――




 傍らに転がっているビール瓶を拾い上げ、ビルの壁を利用して叩き割る。何の役にも立たない空き瓶が、鋭利な切り口を持つ刃物へと、ジョブチェンジを遂げる。


 切り口を左手首にあてがい、皮膚を切り裂く。


 …………。

 動脈が切られ、派手な血飛沫を上げ――るのを期待したのだけど、現実は甘くない。切り方が悪かったのか、それとも切った箇所が良くなかったのか、切った手首は僅かに血を滲ませるだけで、到底致命傷にはなりそうもない。少し位置をずらして、もう一度手首を裂く。鋭い痛みが走るものの、やはり今度も流れる血は僅かで――これでは、何時間待っても死ねそうもない。ああ、もう。僕は焦って、何度も、何度も割れた瓶を手首に走らせるのだけど――徒に傷跡が増えるだけで、何回やっても結果は同じだった。ドラマとかでは、よくこうやって自殺していたのだけど……即席の刃物では切れ味が鈍かったみたいだ。だんだん馬鹿らしくなって、僕は割れたビール瓶を地面に放り投げ、深い溜息を吐いた。

 ――死ぬことも、できない。

 ――生きることも、できない。

 じゃあ、どうしろってんだ。

 僕は死にたいのに。もう、充分なのに。もう、これ以上は無理なのに。まだ――足りないのか。僕はまだ、苦しまなければならないのか。

 歯を食いしばって立ち上がり、ヨロヨロとした足取りで路地裏から抜け出る。そこはあのチンピラに殴られた駅前で、相変わらず人気がない。僕がどれだけ痛がり苦しもうが、街はいつも通りの無表情だ。

 空を見上げる。


 月が、浮かんでいた。


 高慢な月が。

 強欲な月が。

 怠惰な月が。

 

 ひどく、近い場所に浮かんでいる。


 ――見るな。


 忌々しい。

 腹立たしい。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 気持ち悪い。

 ……だけど僕は目を逸らせずに、じっと月を凝視している。

 月光が網膜を焦がす。

 奈落の底に沈んだ心を、不快に震わす。


 ――何をやってるんだ。

 僕は、何をしている。

 死のうとするなんて。

 逃げようと、するなんて。

 僕は何も悪くないのに。

 僕は、被害者なのに。

 何故、僕一人が苦しまなくてはいけない。

 心が震えている。

 躰が、震えている。

 そうだ。何やってんだ。

 ここで死んでどうする。

 ここで死んでどうなる。

 操られて振り回されて追い詰められて死を選ぶなんて――いい笑い種じゃあないか。このままで終わっては、道化以下だ。もう、嘲笑はうんざりだ。

 峰岸の顔を、思い出した。

 梢の顔を、思い出した。

 記憶の中の彼らは、いつも僕に笑いかけていた。

 いつも僕を、嘲笑っていた。

 

 ――死ぬべきは、僕じゃないだろう。

 

 何故被害者が死ななければいけない。

 おかしな話だ。死ぬべきは僕じゃない。僕じゃない。僕は何も悪くないのだから。死ななければいけないのは、奴らだ。奴らこそ、死に値する人間だ。

 月が見ている。

 見られて震えていた心が、揺れていた軸が、ぴたりと位置を定める。心が、固まる。決まった。どうするべきか、何をするべきか――やっと決まった。

 もう、迷わない。

 


 家に着くまで、どれだけの時間がかかっただろう。

 血と汗と泥と涙で汚れた体は公衆トイレでできるだけキレイにしたのだけど、それでも血は止まらないし、顔の怪我は隠しようがない。目立つのを恐れて、電車は使わず、徒歩で帰宅した。痛みと疲労で、途中何度も休みながら、ようやく家まで辿り着く。

 父親は今日も仕事で遅いようだ。帰宅を待つ人間がいないのが、今日は逆に有り難い。汚れ破れた服を捨て、冷たいシャワーを頭から浴びる。

 芯から茹で上がった躰が、徐々に冷えていく。それに比例して、頭もさらに冴えていく。

 峰岸と梢、さらにその周辺の人間に如何なる制裁を加えるか、如何なる贖罪をさせるか――様々な案が浮かび、取捨選択を繰り返すことで策を練っていく。

 罰を与えるのだ。

 苦痛を、絶望を、恐怖を与えるのだ。

 僕の人格を蹂躙した罪を、身を持って知らせてやるのだ。


 浴室から出た僕は、さっさと寝間着に着替え、ベッドに入ることにした。食欲はない。悠長に飯など食べている場合ではない。早く策を完成させ、実行に移さないと、こっちがやられてしまう。あの、頭脳明晰で腹黒い男に――僕の僅かばかりの自尊心を、否、人格丸ごとを、存在まるごとを――喰われてしまう。

 全て、喰われてしまう。

 奴が、新しい支配者になるのか。こちらの内面を見透かし、策を見抜き、ことごとく思考を操作されて――僕はそれに依存するしかないのか。自我を殺し、個性を没し、大人しく従属するしかないのか。……少し考えただけで、ひどく絶望的な気分になる。

 しかし、道がない訳ではない。峰岸秀典、確かに手強い相手ではあるのだけれど――奴には、致命的な弱点がある。そこを効果的につけば、逆転のチャンスはある。絶望は、回避できる。後は、どう詰めるかだ。

 ベッドで一人、考えを煮詰めていく。極限まで疲労している筈なのに、なかなか眠りは訪れない。

 カーテンの隙間から、月の光が零れていた。

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