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第三章 the third moon 13

「――住所、ここで合ってるよね……」

 翌日の昼過ぎ、人通りのない住宅街で、僕は小さく呟いていた。末永から橘の一件を聞いて、『僕が話をつける』なんて大見得を切ってみたものの――正直、勝算はなかった。一応やるだけやってみるけど……今さら、僕なんかが何か言ったところで、どうにかなるとも思えないし。当事者でないのはもちろんのこと、渡辺のように人望がある訳でもなく、峰岸や辻岡のように頭が回る訳でもない。僕には、何もない。でも何もしないよりはマシだ。もうやると決めたのだから――やると言ったのだから――後は行動あるのみ。やらない理由なんていくらでも考えつくけど……もう、そういうのはヤメだ。僕は、もう変わったのだから。

 に、してもだ。住宅街の片隅で、僕は逡巡していた。目の前にあるのは、何の変哲もない一戸建て住宅。二階建てで、間取りは3LDKといったところだろうか。わずかばかりの庭を携え、平凡な住宅街に溶け込んでいる。

 何というか、物凄く――普通だ。

 いや、『普通』は決して『悪』ではないのだけど、橘は資産家令嬢という先入観があっただけに、呆気にとられてしまったのだ。でも住所は合っている。表札にも『橘』と出ている。間違いない。事前にアポはとってある。電話口の母親に「バスケ部の青山が行く、と伝えて下さい」なんて一方的に言っただけの、ひどく乱暴なモノではあるのだけれど……抜き打ちで訪ねるよりはマシだろう。半ば無理やりに自分を納得させて――インターホンを押した。

「――はい」

 しばらくの間があって、上品そうな中年女性が顔を出す。

「あの、先ほど電話した青山です。あずささんとお話がしたくて――」

「すみません」

 慣れない敬語で切り出すも、最後まで台詞を言い切ることなく、目の前の婦人に打ち切られてしまう。

「電話でもお話しましたけど、あずさは誰にも会いたくないと言っておりますので……」

 やはり、彼女が電話で話した、橘の母親だったらしい。橘に成長と落ち着きをプラスしたらこうなるんだろうな、という洋風の美人で、特に吸い込まれそうに大きい瞳と栗色の髪は娘にそっくりだ。『アイツによく似た美人のお母さんに体よく門前払いされて終わりだよ』――昨日、末永が話していた通りだな。

「いや、そこを何とか。三十分くらいしたら、すぐに帰りますんで」

「……いえ、時間の問題ではなくて」

「何なら扉越しでも構いません」

「別に部屋に閉じ籠もってる訳ではないので。誰にも会いたくないというだけですから」

「あ、じゃあ僕、目隠ししてます。ぐるぐるに縛ってもらっても構いません」

「いえ、あの、もう意味が分かりません」

 どうにか突破口を開こうにも、取り付く島がない。……やっぱり僕じゃ力不足だったかな――なんて思っていたのだけど、

「……フッ」

 なんて急に吹き出すものだから、こちらはビックリしてしまう。

「青山さん、って仰ったかしら――面白い方ですね」

 おお、何か知らないが、お母さんが心を開きかけている。食い下がってみるもんだ。セールスマンの才能あるのかな。教材でも浄水器でも、何でも売りますよー。


「……あずさとはどういうご関係なのかしら?」


 あれ?

 ちょっといい感じになったかな、と思ったのだけど、その警戒心丸出しの質問は何なんでしょう。笑顔で言ってるのが、逆に怖い。

「あ、いえ、僕は男子バスケ部のマネージャーでして、あずささんはもう辞めちゃったんですけど、言ってみれば元同僚という訳で、決してちょっかいを出そうとか、そういう訳ではなくて」

 何を慌ててるんだ、僕は。事実なんだから、もっと堂々としてればいいものを。

「分かってますよ。青山さん、全然あずさのタイプじゃないし」

 うわあ、何か、物凄く傷ついたよ? 好きでもない娘に、告白してもないのにフラれるという、この不条理さは何なんだろう。

「いや、だから、あずささんをどうこうしようって訳じゃなくて、今日は――」


「……青山クン?」


 聞き慣れた声に顔を上げると、そこには階段から降りてくる橘の姿。……お前はこのタイミングで登場しますか。『最大のチャンスは最悪のタイミングでやってくる』と言ったのはどこの誰だっけ?

「……何してンの? こんなところで」

 そんな僕の気を知ってか知らずか、橘は幽霊でも見るかのような顔で僕を見ていて。ちなみに、今の彼女はTシャツにハーフパンツという、ひどくラフな格好で、特徴的なツインテールも解き、栗色のロングヘアを惜しげもなく晒している。部屋に閉じ籠もってなくても、表に出る気はこれっぽっちもないらしい。

「ビックリした……。まさか青山クンが来るなんて……」

 よかった。とりあえず、直前のやり取りは聞かれてなかったらしい。

「あれ、お母さんから聞いてない? 今から行くって――」

 言いながら、察しはついていた。きっと、話が通ってないのだろう。

「……お母さん?」

 怪訝そうな顔で、橘は母親を睨み付ける。

「だってあずさ、誰とも会いたくない、話したくないって言ってたじゃない。だからお母さん、気を遣って――」

 どうやら、末永からの接触は、全てお母さんの段階でシャットアウトされていたらしい。

「――お願いだから、勝手なことしないで。あたしがどうするかなんて、あたしが決めるし」

「そんな言い方しなくても……。お母さんは、あずさのことを思って――」

「ちょっと、やめてよ、友達の前で!」

 うわあ、ヤな空気だな。母娘(おやこ)って難しい。……人のこと言えないけど。

「で、青山クンは何なの? 夏休みに、人ン()まで押しかけて、何の用?」

「んや、僕は橘と話がしたくて……」

「話って何よ!?」

 うーん、徒に気が立ってるな。――だったら、それを利用しない手はないでしょう。

「……末永の、ことでさ」

「!」

 案の定、僕が発した『末永』という単語は彼女にとっての触れられたくないモノ(アンタツチヤブル)だったらしく。

「――ちょっと来なさい」

 言うが早いか、僕の首根っこを掴んで階段を上がっていく。ちょっとちょっと、どうでもいいけど、人を連れ回すのに、いちいち襟を掴むのはやめてほしい。変な汗が流れる。僕のことを小動物か何かだと思ってるんだろうか。……思ってるんだろうなぁ。

 引きずられるように階段を上がり、かなり強引に、奥の部屋へと押し込められる。

 ごんっ。

 星が散った。

「……ちょっと、お母さんの前で末永クンの話とかしないでもらえるかなぁ?」

 扉の前で、髪を指でいじりながら、かなり苛ついた口調で橘が言ってくる。

「その前に、放り投げられた勢いで頭をぶつけた、僕の心配をしてくれるとありがたいです」

「だいたいさ、何で青山クンな訳? 関係ないでしょう?」

「無視か……」

「渡辺クンか、それこそ末永クン本人が来るなら分かるけど――」

「今回は僕の独断で決めたことだ。僕は、橘と話がしたくてここまで来た」

「話って――」

「末永のこと。あと、末永の彼女に出した手紙のこと」

 橘の顔から、スッと血の気が引く。

「……誰に、聞いたの?」

「末永本人から」

「…………」

 無言で下唇を噛んでいる。

「……何でもかんでも……ベラベラ喋って……」

 顔を俯け、力なくベッドに腰掛ける橘。……何て声をかけたらいいんだろう。想像以上のリアクションに、僕は視線を泳がせてしまう。

 ――橘の部屋。

 改めて眺めてみると、家の外観と同じく――否、それ以上に――普通で、質素な印象を受ける。広さは六畳程度だろうか。暖色系のカーペットに、学習机とベッドとテーブル、そして壁一面を覆う書架――家具と言えるモノはそれくらいしかない。装飾品と言えるモノなんてどこにもないのだけど、その代わりなのか、書架にはびっちりと本が埋まっていて。漫画も多いけど、その大半は小説だ。ハードカバーの古典文学から、文庫本のミステリー、SF、ティーンズ向け小説まで、ジャンルは多岐に渡っている。その個性からはおよそ想像がつかないのだけど、実は文学少女だったらしい。

「……人の部屋、ジロジロ見ないでくれる?」

「ああゴメン。何か、本がいっぱいだな、と思って」

「あたしの唯一の趣味なの、読書」

「へぇ……」

「意外だった?」

「んや、そんなことないけど――」

「いいの、慣れてるから。『似合わないよねー』とか『ガラじゃないっしょ』とか『イメージ崩れた』とか――判で押したようなリアクションばっかり。……笑わせるわよね。お前らがあたしの何を知ってンだって」

 強い言葉を発しながらも、彼女の視線は下斜め四十五度に固定されている。

「……本読むのって、楽しい?」

 沈黙を埋めるかのように――いつもそうしているように――僕は言葉を紡ぐ。

「あたしには、それしかないから」

「それしかないって――」

「それしかないの。架空の世界に入り込むことで、バランスを取ってる。――現実なんて、辛くて味気ないばっかりだし」

 口以外の部分を全く動かさずに、ひどく乾いた声で、言葉を吐き出す橘。

「……そうかな。橘なんて、美人だし、お金持ちだし、僕なんかと比べたら、すごい恵まれた環境にあると思うけど」

「…………」

 緩慢な動きで、橘が顔を上げる。ひどく不思議そうに――どこか焦点が合ってないような目で、僕を見つめる。

「……本気で、言ってるの……?」

 声が、震えている。

 血の気が、引いている。

 呆れているような、苛ついているような――怯えているような――全てを吸い込んでしまいそうな、漆黒の目で、僕を見つめながら。

「あたしが恵まれてるって……!? 他人より顔立ちが派手で、父親が資産家だから――それだけの理由で、優れてる、満たされてるって……青山クンまでそんなこと言う訳!?」

 低く、冷たく、彼女は僕の無理解を責めている。どうしようもないロウからの、急速なシフトチェンジ。分かりやすい情緒不安定に、僕は狼狽するばかり。

「……ゴメン」

「何で謝るの」

「え、だって――」

「分かってないんでしょう? 青山クン、何であたしが怒り出したか、まるで分かってない。自分に非があるとも思ってないくせに、簡単に謝ったりしないで。何だか凄く馬鹿にされてるみたいで、イライラする」

 じゃあどうしろってんだ。ああもう、どいつもこいつも気難しい奴ばっかだ。

「――青山クン、あたしの家見て、どう思った?」

 また唐突に声のトーンを元に戻して、橘は尋ねる。

「どう、って――」

「『普通だな』って、そう思ったんじゃない?」

「う」あまりの図星に、言葉もない。

「みんなそう思うの。父親が資産家なもんだから、物凄いお屋敷を想像するみたいだけどね。門から家の扉まで何百メートルもあって、執事とかメイドとかいて、みたいな。……笑わせるわよね。何も知らないくせに」

「……そうだよね。お金持ちだからって、みんながみんな豪邸に住んでる訳じゃないもんね」

「ううん。あの人は――父親は、世田谷の高級住宅街に住んでるらしいんだけど」

「……え」

 何だろう。今の橘の発言、引っかかる部分が多すぎる。それこそ、僕の適当な発言が流されたとか、どうでもよくなるくらいに。

 彼女は今、自分の父親を『あの人』と表現した。それだけなら、まだ普通かもしれない。だけどその父親は世田谷に住んでいると言う。つまり、この母娘とは別居してるということだ。しかも、その事実を『らしい』だなんて――。

 僕はよっぽど怪訝な表情をしていたんだろう。軽く息を吐き、何でもないことのように、橘はその事実を告げる。


「お母さん――愛人なんだよね」


「…………」

(めかけ)、二号さん、言い方は色々あるけど、要するに本妻じゃないってこと。で、あたしはその娘。――一応、認知はされてるわよ? 養育費と生活費も、毎月充分すぎるほどに貰ってる。生活に不自由はしていない。だけど、それだけ。父親とは、今まで数える程しか会ってない。と言うか、ここ何年はあたしの方が会うのを拒否してるんだけど。

 分かる? あたしは、欲と金の繋がりから生まれた子どもなの。資産家令嬢でも、『姫』でもないの。……何でだろうね。小学校でも中学でも高校でも、あたしからは何一つ明かしてないのに、勝手に情報ばっかりが一人歩きして……笑わせるでしょ? こんな、薄汚い人間の――くっだらない親戚連中から遺産狙いのハイエナだって陰口叩かれるような人間の――どこが恵まれてるって言うの!? バカじゃないの!? 『姫』とか、ホントやめてほしい。何も知らないくせに! 何一つ、知ろうともしないくせに!」

 完全に決壊してしまったらしい。溜めに溜めた感情は激情となって、止めどなく流れ落ちる。

「……知らなかった」

 そんな言葉は、言い訳にすらならないと分かっていたけど。どれだけ言葉を尽くしても、彼女の傷を癒せないことなど分かっていたけれど。

「……ううん、こっちこそ、ゴメン。青山クンが悪い訳じゃないのに……八つ当たりみたいな真似して」

「んや、悪いのは僕の方だよ。僕が、悪い。橘を傷つけた。知らなかったなんてのは、免罪符にもならないから」

「…………」

 頑なな僕の態度に毒気を抜かれたのか、彼女はそれっきり黙ってしまう。

「――でも、一つ言わせてもらっていい?」

「何?」

「姫さ、現実が――」

 バコン。

 これは、枕元にあった文庫本を、橘が全力で僕の顔面に投げつけた擬音。

「……ギャグだってのは分かるけど、さすがに状況を考えようか!?」

 鼻先がジンジンする。手をやる。(てのひら)を見る。

「血、出てない!」

 おお、橘のツッコミスキルが開花したぞ。

「乱暴だなー、橘は」

「笑わせないで。青山クンが悪いんでしょう!?」

「うん――思ったより元気そうで、よかった」

 意図的に、そんなことを言ってみる。

「……つくづく笑わせるわね。まさか青山クンの掌の上で踊らされるとは思ってなかったよ」

 いや、お前はずいぶん前から僕の掌の上で踊り続けてるんだけど。……もっとも、それはマイナスベクトルの――嫉妬や、執着心や、独占欲を刺激しただけであって、これからはそれをプラスベクトルに持ってかなければいけない訳だけど。

「――で、何の話?」

「だから、橘さ――さっき、現実なんて辛くて味気ないばかりだって言ってたけど……それって、違うんじゃないかな? 現実を辛くするのも楽しくするのも自分自身であって、頑張ればもっと楽しくなる筈だし、もっと明るい未来だって――」

「あたしが頑張ってないように見えるの?」

「んや、頑張ってるけど――誰よりも頑張ってるけどさ」

 実際、橘の行動には恐れ入る部分が多い。口だけで肝心な所は人任せ、自分はほとんど動こうとしないどっかのキャプテンとは大違いだ。だけど――

「橘の場合、方向性が間違ってるんじゃないかな? 何か、マイナスの方にばっか頑張ってると言うか……別れた彼氏の後をつけたり、ソイツが興味示した女の子を友達にイジめさせたり、新しい彼女に変な手紙出して脅かしたり――どう考えたって、普通じゃないよ」

「……アンタ、どこまで知ってるの……」

 俯いた彼女の声が、再び震え出す。かなりヤバい兆候だけど、やっと本題に入れたのだ。ここは押していかないと。

「んや、ただの推測だよ。東条と高木、橘と仲良かったでしょ? その二人が梢ちゃんを攻撃しだしたの、僕が橘と話した直後だったし。末永が梢ちゃんを狙ってるらしいって、橘に話した直後だったし。関連づけて考えるのは、別に不自然じゃないと思うけど?」

 全て計算のうちだったなんてことは、もちろん言わない。言える訳がない。言ったところで誰も得しないし。

 僕はいよいよ核心へと足を踏み出す。

「……ねぇ、もう、こういうの終わりにしない? 馬鹿げてるよ。いつまでも前の彼氏に執着したりして。だいたい――こんなこと言いたくないけど――末永ってそんなにいい男かな? そりゃ、確かに顔はいいし……まあ、悪人でもないけど……やっぱり、軽すぎるよ。橘くらい美人なら、他にいくらでもいい男が――」

 と、俯いて無言を貫いていた橘が急に立ち上がる。それでも顔は下を向いたままで、下ろした髪で目元が見えないのが、ひどく不気味で。

「――橘?」

 僕の呼びかけになど答えもせず、彼女はツカツカと壁を覆う書架の一つに近づき、手をかけて――それを、思い切り引き倒した。

「え、ちょ、うあぁっ!!」

 本が、本が、本が。

 バサバサと躰を打ちつける本の群れに、唐突すぎる橘の凶行に、僕は言葉を失う。かろうじて書架本体の激突は免れたけど……文庫本の角って、思いの外に痛い。

「ちょっと、いきなり何……」

「アンタに、何が分かるって言うのよ! 笑わせないで!」

 ……またか。

「ちょっと――橘、一回落ち着こう?」

「アンタは何も分かってない。何も知らない、知ろうともしないくせに――そんな……上から、物を言わないでよ……」

 言っているうちに失速してきたらしい。言い終えるかどうかと言うところで、力なくその場に座り込んでしまう。さっきから、キレて、沈んでの繰り返しだ。ここまで分かりやすく情緒不安定な人間も珍しい。

「そうだね。僕は何も分からない。何も知らない。だから、教えてよ? 僕はそのために来たんだから。決して、橘を傷つけるために家まで押しかけた訳じゃない」

 辛抱強く、(なだ)めるように、(さと)すように、僕は言葉を紡ぐ。

「…………」

 無言の橘、後方に身体を伸ばし、机の横に置かれていた鞄を手に取る。

 ちりん。

 結わえられた鈴を解いた橘は、それを顔の前にかざす。

 ちりん、ちりん。

 ちりん、ちりん。

 何度も鈴を鳴らし、それを虚ろな目で見つめ続けて――漸く、彼女は口を開いた。

「――あたし、もう末永クンに未練はないの」

 鈴を鳴らす行為にどんな意味があったか分からないけど、取りあえず落ち着いたらしい。目は相変わらず虚ろなままだけど。

「変に誤解してるみたいだけど……あたしだって、アイツがどういう男か、分かってるつもりだよ? いつまでも、一人の男に執着する程、一途な訳じゃないし。だけど――だけどさ」

 ちりん、ちりん、ちりん。

「……悔しいじゃない。こっちは淋しくて不安でしょうがなくて、求められれば応えるし、アイツが望むなら何だってしてあげるつもりだったのに……あっさり突き放されてさ。あんなに頑張ったのに、意味分かンない。理由を聞いても、それすら教えてもらえないし」

 ちりん、ちりん、ちりん。

「町田梢が好きになったなら、そう言えばいいのに――コソコソしちゃってさ。あたしは本当のことが知りたいだけなのに。何だか無性に腹が立って、リエやサチを利用する真似までしたのに――アイツは違う娘と付き合い出して。おまけに、誰かが自殺するかもしれないなんて噂まで流れ出す。――あたしはただ、納得したかっただけなのに。末永クンには避けられる。リエも、サチも、あたしを避けるようになった。ちゃんと話をしようと町田梢に近付いても、逃げられる」

 ちりん、ちりん、ちりん。

「みんな、いなくなっていく。あたしはただ、知りたかっただけなのに。納得したかっただけなのに。誰が悪いのかな? 誰が悪いのかな? 毎日ぐるぐるしちゃって、眠れなかったり吐いたりして、気が付いたら、末永クンに全ての罪をかぶせてた。アイツを諸悪の根源にして、逃げようとした。どうにかそれを事実にしたくて、誰かにそのことを知らせたくて、手紙書いた。……結局、そのせいで二人は別れちゃった」


 ちりん、ちりん、ちりん。


「誰が悪いのかな?」


 ちりん、ちりん、ちりん。


「あたしが、全部悪いのかな?」


 ちりん、ちりん、ちりん。


「恋人と長続きしないのも、友達がすぐいなくなるのも、母親の干渉がひどいのも、眠れないのも、髪が抜けるのも、食べてもすぐ吐いちゃうのも、全部あたしが悪いのかな? 迷惑かな? あたし、迷惑かな?」


 ちりん――



「あたし、死んだほうがいいのかな?」



「……………………」

 汗だくに、なっていた。

 虚ろな目が、僕を見ている。

 深く暗い、漆黒の闇が、僕を見つめている。

 澄んだ鈴の音はいつしか(いびつ)(ゆが)められ、耳にこびりつくようになる。目の奥の闇が触手を伸ばし、鈴の音を触媒に、耳を媒介に、こちらの脳を蝕んでいくような錯覚。


 ――嗚呼。


 違うんだ。

 違う違う違う。

 そうじゃないんだ。

 橘は悪くない。

 悪いのは――全部僕なのに。

 僕が、僕が全部――

「……あおやまくんも、そうおもうでしょ?」

 橘の声が、どこか調子外れに響く。

 違う、違う違う違う違う違う。

「あたし、しんだほうがいいよね?」

 彼女の顔が、目前に迫る。

「――あ……」

 ごめんなさい。

 ごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさいごめんなさい。

 僕は、ぼくは、ぼくは、

「あ、あ、あ……」

 否定したいのに。ちゃんとした言葉で、橘の潔白を晴らしたいのに。そのために来たのに。そうするつもりだったのに。舌がもつれて、喉が渇いて、何も言葉にできない。


 ――何を、言うつもりだ?


 その事実に気が付き、僕はさらに寒くなった。

 橘の行動は、全て、僕の嘘が元凶だ。彼女はそのことに全く気が付いていないけど――僕は、知っている。僕だけが知っている。だけど……今そのことを口にしたら……真相を教えてしまったら、橘はどうなる。僕は、どうなる。彼女が精神に変調をきたしてるのは、火を見るより明らかだ。彼女が秘めている攻撃性は――今は橘自身に向いているけれど――いとも簡単に、僕の方に向きを変える。そうなったら……僕は、どうなってしまうか。

「ねえ――こたえてよ」

 迫る橘。後ずさる僕。いつのまにか壁際にまで追い詰められていて、馬乗りの形で、彼女は僕にまたがっていた。彼女の栗髪が顔にかかる。気持ち悪い、全身が総毛立つ――脂汗が、流れる。

「違う――違うよ」

「なにが、ちがうの?」

 吐息がかかる距離にまで、顔を近付けられる。

「橘は、悪くない」

「じゃあ、だれがわるいの?」

 誰だ。誰が悪い誰が悪い誰が悪い。早く考えろ。末永か梢か東条か高木か長原千早か椎名か渡辺か辻岡か峰岸か。


「みんな――悪いんだ」


「……みんな?」

「そう、みんな」

 事ここに至って、僕は考え得る回答の中から、もっとも卑怯なモノを選択していた。

「みんなって……だれのこと?」

 僕の答えが意外だったのか、虚を突かれたような表情になる橘。

「例えば、末永がいるよね。責任の一端は、まずアイツにある。橘も知ってると思うけど、アイツはとんでもない女好きだ。そして、恋愛を遊びとしか思えない類の人間でもある。アイツにとっては、全ての恋は『浮気』なんだ」

「そんな――」

「いや、そうなんだって。『遊びじゃない恋愛なんてあるのか?』って聞くような男だからね」

「…………」

「確かに、末永には魅力があるよ。顔もいいし、バスケも上手いし、おまけに音楽もやってる。去年の文化祭で見たけど、あれじゃ女にモテるのも仕方ないと思う。――だけど、それだけだ。アイツには心がない。人の心を引きつけておいて、弄んでおいて、平気でそれを突き放す。悪意がないところが、逆にタチが悪いよね。……正直なところ、橘も災難だったと思うよ。あんな男に引っかかっちゃてさ。それが全ての元凶」

「…………」

 橘は僕の台詞に耳を傾けている。よし、いい滑り出しだ。

「次に、渡辺がいる。我らが男子バスケのキャプテン、バスケの技術では峰岸・辻岡・末永の方が上なんだけど、何よりアイツにはリーダーシップがある。人望がある。アイツに相談を持ち込むバスケ部員は多い。……橘も、その一人だよね?」

「……そうだけど……」

「だけど騙されちゃいけない。アイツの面倒見のよさには、大きな欺瞞が隠されている。アイツ、親身になって話聞いて、もっともらしいことを言うだけ言うんだけど、実際に問題の解決に当たるのは別の人間なんだよね。知ってる? 一ヶ月前、橘、僕と渡辺と、マックで話したじゃない。あの時は物凄く心配そうにしてたけど……実際に問題解決にあたったの、僕なんだよね。末永と話つけたのも、その後で橘にフォロー入れたのも、全部僕。そうでしょう? 橘、あの後に末永の件で渡辺から何か言われたりした?」

「……そう言えば……渡辺クンからは、なんにも……」

「でしょう? 詳しくは言えないけど、バスケ部で起きてる別の事件――それも最初は渡辺が持ち込んだモノなんだけど、いつの間にか峰岸に一任されている。僕はともかく、あの天才に任せておけばまず間違いないからね。あれはアイツのテクニックなんだよ。処理は人に任せる。手柄は自分独り占めにする。そうやって、人望を高めていく。あの歳で、(したた)かだと思うよ。誰にでもできることじゃない。まず、人を動かすこと自体が一つの才能だからね。間違いなく、アイツは部長の器だと思う。……もっとも、アイツが働かないせいで、事態がややこしいことになったんだけどね」

「…………」

「次は――まあ、東条と高木かな。アイツらの罪も看過することはできない。あの二人、橘から話を聞いて、同情して、同調して――義憤を感じた。友達が傷ついたのは、町田梢のせいだって、そう思い込んだ。そういう思想のもと、彼女たちは梢への攻撃を開始した。だけど――それだけかな? アイツら、友情のためだけに、義憤のためだけに、梢ちゃんにあそこまでひどいことをしたのかな?」

「『あそこまで』って――」

「部活の雑用を押し付ける――ってだけなら、まだ許容範囲だ。だけど――知っての通り、あの娘は要領悪いし、鈍くさい。普通の人が五分で終えられるような仕事を、一五分もかけてしまうような娘だ。その仕事ぶりを責めて、罵り、嘲る。容赦遠慮のない言葉を投げつける、それだけでは飽きたらず、ボールまで投げつける。挙げ句の果てには、靴を隠す、傘を隠す、トイレの個室の上から水をぶっかける――全く、陰湿極まりない。アイツら、完全に楽しんでたよ。『あずさのため』なんて大義名分を傘に借りて、日頃の鬱憤を晴らしてただけのように見えたけどな、僕には」

「……そんな……」

「次は辻岡だ」

「辻岡クン!? あの人は何も――」

「何もしてないよ。――何もしてないのが問題なんだ。これは他の部員にも言えることなんだけど……奴ら、梢ちゃんの苦痛を知りながら、何もしようとしなかった。女バスの問題だと思って、見て見ぬふりをしていた。それだけじゃない。橘と末永の問題にしたってそうだし、この一ヶ月で起きた全ての出来事がそうだ。奴らは、常に傍観者だった。『傍観する暴力』ってのは、確かにある。物事を認識しながら、諸悪の根源が誰なのか分かっていながら、それに無関心でいる罪ってのは、確実にある。……勿論、全ての部員がそうだというつもりはないよ。無関心であるが故に、無関係であるが故に、事の本質に気づかないなんてのはよくある話だ。――だけど、こと辻岡慎哉に関しては、それは当てはまらない。アイツはみんなが思ってる以上に優秀な人間だ。周囲から一定の距離を保ちながら、常に事の本質を見抜いている。対峙した人間の内面を見抜き、見越し、見透かすだけの能力をアイツは有している。――なのに、あの男は何もしなかった。しようとも、しなかった。全てを見下し、全てを見切り、ただ、事の成り行きだけを見守っていた。それは確実な――罪だ」

「…………」

「もちろん、町田梢にも罪はある。橘だってそうだし、僕だってそうだ。みんなに罪がある」

「…………」

「一つの事柄に対して、自分一人に罪があるなんて――思い上がりだよ。森羅万象、全てのことは無数の人間が関わっている。意識的にせよ、無意識的にせよ、そして悪意・善意があったにせよなかったにせよ、必ず結果は弾き出される。それは誰かに幸福をもたらすモノかもしれないし、別の誰かには不幸と受け取られるモノかもしれない。だけど、間違いなく言えるのは――それは一個人の力でどうこうできる類のモノじゃないってこと。橘一人が全部悪いなんて、そんなことは絶対にあり得ない。だから――何もかもを自分一人で背負い込まないでほしいんだ」

 ――どうして。

 僕はどこまで卑怯で狡猾で――どうしてここまで平気で、思ってもないことをべらべらと口にしたりできるんだろう。

 変わったと思ったのに。

 変わったと思えたのに。

 結局、僕は――どこまでもどこまでもどこまでもどこまでも――卑怯で臆病で無責任な嘘吐きにすぎなかったみたいで。


「……ありがとう」


 何でお礼なんか言うんだ。

 感謝される言われなどない。

 的を射た事なんて、何一つ口にしてないのに。

 橘の矛先が自分に向くのが怖くて、これ以上被害を拡大させるのも怖くて、全てを回避して、全てから逃避して――それで展開した、おためごかしの稚拙な理論に、感謝などしないでほしい。

「……何だか、少し気が楽になった気がする」

 どこかで見たような遣り取り。少し驚いて顔を上げると、すでに橘の目は、正常な光を取り戻していた。

「――そうだよね。あたし一人が全部悪いなんて……考えすぎだった。落ち込んで塞ぎ込んで、親にまで八つ当たりして――そんなことしても、何の解決にもならないもんね」

 この女は、何故ここまで聞き分けがいいのだろう。僕のアドリブを鵜呑みにしたりして――内側に向かう感情はやたら複雑なくせ、外側からの刺激に対しては驚くほど単純にできているらしい。……そんなだから、簡単に騙されて、利用されたりするんだ。

「そうだよ。現実の因果関係を全て把握するのなんて無理なんだからさ、せめて……少しでも気を楽に持った方がいい」

 口だけ別人格を持っているみたいだ。内面で鬱々としている一方で、表情だけは晴れ晴れとして、橘の悩みに親身になっているポーズをとったりして。

「……ホント、ありがとう。最初は何事かと思ったけど……青山クンが来てくれて、よかった。おかげで――もう少し、頑張れそう」

 知るか馬鹿。橘の精神状態になど最初から興味はない。

 それに、これではまるで――

「みんなに迷惑かけて、みんなから見捨てられて、あたしは価値のない人間なんだ、生きてちゃいけない人間なんだって、ずっと悩んでたんだけど――」

 これではまるで、

「青山クンのおかげで、目が覚めた」


 彼女の闇が、僕に乗り移ったみたいじゃないか。


 悪意は感染し、絶望は伝染する。ましてや、僕みたいな人間はなおさらだ。十七年で培われた歪な思考は、そう簡単に矯正できるものではない。少しくらいは――意識できるレベルでは、浄化も可能かもしれない。だけど、そんなのは結局まやかしだ。

 人はそう簡単には変われない。

 ほんの少しの絶望にあてられただけで――いとも簡単に、影響を受けてしまう。そりゃ、悪いのは僕で、僕が全部悪くて、僕が元凶で、諸悪の根源が僕で、卑怯で臆病で愚鈍で幼稚で卑屈で独りよがりで自己中心的で無能で迷惑で嗚呼、嗚呼、嗚呼――


「そっか、そりゃよかった」


 誰だ。誰が喋っている。

「色々辛くて、しかもそれを誰にも理解してもらえなくて、苛つくこともあるかもしれないけど――これだけは憶えてほしい。

 僕は、橘の味方だ。

 他の誰が見捨てたって、僕は橘の味方だ。そりゃ、何も知らないし何も分かってないかもしれないけど……少なくとも、僕は橘の価値を認めている」

 黙れうるさい。お前の声など聞きたくない。

「客観的に見ても魅力的な人間だと思うし――口に出して言うと凄く恥ずかしいけど――だから、もっと自信を持つべきじゃないかな。『生きてればきっといいことがある』なんて、無責任なこと言うつもりはないけど――でも、そう思うのは、決して悪いことじゃない。そう思って生きている方が……きっと、楽しい」

 反吐が出そうだ。そんなこと一ミリも思ってないくせに。人の台詞を剽窃して、何を得意気になっているんだ。

 穏やかな笑みを顔面に張り付かせながら。

 偽善的な台詞を垂れ流しながら。

 ――僕は膝の震えを、止めることができなかった。


 そこからのことはあまり憶えていない。簡単に心を開いた橘と何かどうでもいい話をしたような気もしたけど(親類で唯一可愛がってくれたのが亡くなった叔父で、あの鈴はその叔父の形見であること――ペットを飼いたいけど母娘とも重度の動物アレルギーで近付くこともできず、淋しい思いをしていること――栗毛は天然なのに、未だに教師連中に目を付けられてて、日々うざったい思いをしていること)、ほとんど憶えていない。興味もない。

 ただ、ひたすらここに来たことを後悔していた。


 橘家を後にしたのは何時頃だろう。外はすでに暗くなっていて、もうすぐ八月だと言うのに、夜の住宅街はひどく寒々しくて――空高くから照らす半月の明かりとも相まって――とてつもなく忌々しい。

 駅前の差し掛かると、いつもの場所に例の自転車が違法駐輪されていた。久しぶりに、全力で蹴り倒す。ついでに、後輪のスポークの何本かを踵で踏み抜いておいた。

 際限なく垂れ落ちる汗が、不快さに拍車をかける。


 ――僕は、死んだ方がいいんだろうか。

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