第三章 the third moon 12
学生にとって『夏』と『夏休み』は同義だ。それは七月の下旬に始まり、八月三十一日に終わるもの。
――つまり、僕たちの夏は、まだ始まったばかりな訳で。
とは言っても、通常授業がないだけで、補習を受けている連中はいるし(進学組と赤点組で意味合いはまるで変わるのだけど)、ここぞとバイトに精を出す人間もいる。全力で遊び呆ける連中もいるし、バスケ部のように大会目指して汗水流している人間も大勢いる。
今日も今日とて朝から練習だ。大会が終わるまでは遊んでいる暇なんてない――とか言いつつ、練習の後は皆で飯食ったりしてそこそこ楽しんでいる風ではあるのだけど。
で、僕はと言えば。
ごくごく真面目に、真剣に、男子バスケ部マネージャーとしての職務をこなしていた。以前はバスケ部の戦績がどうだろうが、別にどうでもいいし関係ない――なんて嘯いたりもしてたんだけど……そんなの、やっぱり嘘だし。勝てば嬉しいし負ければ悔しい。その結果を決めるのは選手たちだけど、一番頑張ってるのは選手達だけど、最低限のサポートをするくらいしか、僕にはできないけど――それでも、皆の力になれるのなら。それで少しでも貢献できるのであれば。それはそれで充分なんじゃないか――そう思えるように、なっていた。だって、その方がやっていて楽しいし。
夏の日は目まぐるしいスピードで駆け抜けていく。朝八時に起きて、九時に練習開始、昼休憩を挟んで午後練習、あっという間に夕方になって……後は皆で飯食って帰ったり、屋上で佇む辻岡と話したり、中庭で菓子パンを食べる峰岸にからかわれたり。特に特筆することもない、特徴もない――だけどそれなりに楽しい日常。
だけど、もちろん、懸案事項がない訳じゃない。
例えば、末永のこと。
例えば、橘のこと。
例えば――梢のこと。
「青山さ……」
「うあぁ!?」
突然の声に飛び上がる。
「何だよ、そんなに驚くなよ」
「――背後から声かけないでって言ってるじゃん。……弱いんだからさ……」
胸を押さえて懇願する僕を、末永は呆れたように眺めている。
「気をつけるわ。……それより、お前――町田梢から何か聞いてないか?」
いつになく真剣な表情で、そんなことを聞いてくる。ううん、言いたいことはいっぱいあるのだけれども。
「とりあえず、言うべきことが三つ。『何か』ってのは、具体的にどゆこと? 何で末永が梢ちゃんのことを気にしてるの? んで、何でそのことを僕に聞くワケ?」
答えはおおよそ分かっていたけど、それでも聞かずにはいられなかった。それは今まさに、僕が懸念していたことの一つであって――それを疑問文で口にしたところで、末永が懸念を否定してくれるなんて期待している訳でもないのだけれども。
「町田はオレに気があるって、お前が言ったんじゃねェかよ」
僕の投げかけた三つの問いに対し、一つの返答で見事に応えてみせる。……だよね。分かっている。分かってはいるのだけれども。
「お前が言ったンだぞ? 町田がオレに気があるみたいだから、声かけてみたらどうだって」
いや、声かけてみろとまでは言ってないけどね。……似たようなモンか。そこまで計算して話した訳だし。
「そしたらどーだよ? あの女、オレが近づいただけで逃げ出すんだぜ? 最初は気のせいかな、とも思ったんだけど、何度声をかけてもそうだ。……オレを避けてるとしか思えねェじゃねーかよ」
……だろうね。そうだろうよ。僕もそう思うよ。梢ちゃんに、末永には注意しろ、って警告したの、僕だし。一方で女好きをけしかけておいて、片方では警告して、それで好きな娘を追い詰めて、弱ったところに手を差し伸べて自分に好意を向けようなんて――姑息な僕にはお似合いの作戦ではあったのだけれども。
「何で僕が梢ちゃんと仲良いなんて思うのさ」
「よく話してんじゃねェかよ。この前の東条たちの時だって、真っ先に止めに入ってたし。第一、町田を『梢ちゃん』なんて呼ぶの、お前か椎名くらいのモンだぜ」
「う。……だったら、椎名に聞けばいいじゃん」
「ヤダよ。アイツ怖ぇーし」
「それは同感だけど」
どうやら、あの夏休み前の東条・高木事件のインパクトはよほどだったらしく、今では男女関わらず、バスケ部の面子はほぼ全員、椎名のことを恐れている。もっとも、そのおかげで梢をイジめようなんて輩はそれ以降出ていないし――東条と高木はあの日以来連中に参加していない――結果オーライ、と言えばそうなんだろうけど。
「青山、あの女に何か吹き込んだりしてないよな?」
「吹き込むって、何を?」
「オレの評判を落とすようなことをだよ」
……今まで言うか言うまいか迷っていたけど――今の一言で決心がついた。いつか言わなければいけないことだ。ましてや、これは僕が撒いた種な訳で。その種は何だか複雑に芽吹いてしまっているけど……だったら、僕にはそれを刈り取る義務がある。いつまでも末永を泳がせておく訳にはいかない。これ以上梢を、追い詰める訳にはいかない。
「……今さら、風評被害を気にするような身分でもないんじゃないの?」
「ハ? フーヒョーヒガイ?」
「みんなの評判を気にする程、清廉潔白な訳でもないでしょ、って言ってンの。どれだけモテるか知らないけど、見境なしに女子に手を出して、付き合っては別れるを繰り返して、今さら何を気にしてンだよ。僕が何かを吹き込むとかじゃなくて、身から出た錆なんじゃないの?」
「……言うじゃねェかよ」
目に見えて末永の表情が険しくなっているけど、僕はもう気にしない。いつも誰かの表情を気にして怯えていた僕は、もうどこにもいない。
「言うよ。言わせてもらう。……そりゃ確かに、梢ちゃん、末永に気があるかも、みたいなことを僕は言ったよ? だけどさ、お前はどうなのさ。彼女いるんじゃないの? それなのに性懲りもなく新しい娘に手出そうとして、それで評判どうこうってのは、ちょっと虫がよすぎると思うんだけど?」
「…………」
末永、反論の言葉が見つからないのか、ひどく悔しそうに僕を睨み付けている。ああもう。だから正論ってのは嫌いなんだ。いとも簡単に相手の逃げ道を塞ぐ。
「……ゴメン。言いすぎた」
だから、先に僕の方が折れた。それは、言葉が過ぎたことを謝っているだけではあったのだけど。
「いや……まあ……オメーの言うことは間違ってないからな。謝ることはねーんだけど……」
意外にも、末永は素直に自分の非を認めた。噛み付かれることを覚悟していたんだけど……思っていたより聞き分けのいい奴なのかもしれない――節操がないだけで。
「いいじゃん。末永彼女いるしさ。別に梢ちゃんに避けられたところで――」
「フラれたんだよ」
「え?」
意外な告白に虚を突かれてしまう。
「千早のことだろ? アイツ、夏休みが始まる前に、もう会わないでおこうって――そう言ってきやがった」
「何で?」
確か、まだ付き合い始めて十日も経ってない筈だ。末永が女好きで遊び好きなのは承知の上だろうし、と言うか最近は真面目に練習に参加してて、遊ぶどころか、掛け持ちしてる軽音の活動も自粛してるくらいなのに――。
「……手紙が、届いたんだと」
「手紙?」
物凄く、イヤな予感がする。
「オレがどんな男で、今までどんなことしてきて、付き合うとどんな目に遭わされるか、細かい字でびっしり、便箋十枚に渡って書かれていたらしい。下駄箱に入れられてるソレ読んで、千早、オレのことが嫌になったとかそーゆーの以前に――怖くなったんだと。無記名で、送り主が誰かまでは分からなかったらしいけど……」
いや、そんなことする奴、一人しかいないし。
ウチの生徒で、末永と因縁があって、執着心が強くて、新しい彼女に怪文書を送りつけるような女――一人しかいないし。それにそのことは、他でもない末永自身が一番よく分かっている筈だし。
「……最近、橘と連絡とった?」
「無理。電話かけても取り次いでもらえねェ。家行っても同じだ。『娘は誰とも話したくないと言っております』、なんて――アイツによく似た美人のお母さんに体よく門前払いされて終わりだよ」
どういうことだろう。しつこくまとわりつき、今の彼女に怪文書まで送りつけておいて、その一方で末永との接触を避ける――その心境が僕には理解できない。
「ったく、何がしてェんだか、さっぱり分かんねェよ……」
脱色した髪をかき上げ、末永はそう呟く。イラついていると言うより……だいぶ参っているように見える。そりゃそうだろう。かつての彼女の幻影に怯えるなんて、僕には想像もできない世界だけれど、決して気持ちのいいモノじゃないのは確かだ。
「……だったらさ」
しばし逡巡した後で、口を開いた。
「僕が会って話して、それとなく話を聞いてみようか?」
「……はァ?」
末永の頓狂な声が、体育館に木霊した。
○
再び末永と橘の問題に首を突っ込む気になたのは、伊達でも酔狂でもない。成り行きでそうなった訳でもないし、駆け引きの材料にしたかった訳でもない。ある訳がない。……もう、わざわざ言うまでもないことだけれども。
これは、僕が撒いた種なのだ。
末永をけしかけたのが僕ならば、橘に不安要素を植えつけたのも、この僕の責任。末永の彼女だった長原千早――未だに顔も知らないんだけど――を怯えさせたのも僕だし、梢を傷つけたのも、この僕。
全部全部、この僕が悪いのだ。
だったら、僕がけじめをとらないでどうするってんだ。今日はもう遅いから無理だけど……明日の昼くらいにも家を訪れてみようか。部室に住所録があった筈だし、一日練習を休むくらい何でもない。問題は、彼女が会ってくれるかどうか、そして会ってどう切り出すか、だけど……まあ、それは明日考えればいいだろう。いくら考えたところで、すぐ行動に移せないんじゃ意味がない。今僕が考えるべきは、目の前にある懸念事項――梢のことだ。
夏休みに入ってからというもの、僕は三つの事で悩み続けていた。
一つは末永の挙動について。
一つは、橘の暴走について。
そして一つは――梢への、告白について。
僕は町田梢が好きだ。
それは全ての大前提であり――全ての元凶だ。僕は彼女に振り向いてもらいたかった。彼女を手に入れたかった。だけど、僕には魅力がない。才能がない。峰岸とは違う。末永とは違う。辻岡とも違うし、渡辺とも違う。僕には、誇るべき武器がない。
要するに――自信がなかったんだ。
そこで僕は一計を案じた。梢を追い詰めて追い詰めて追い詰めて追い詰めて追い詰めて追い詰めて追い詰めて追い詰めて追い詰めて追い詰めて追い詰めて――そこで僕が手を差し伸べれば、きっと振り向いてくれるなんて……ひどく幼稚で、姑息なアイデアに脳を支配されていた。
そして、僕は嘘を吐いた。
舌を何枚も使って、末永を、橘を、東条を、高木を、利用した。相合傘で帰るために、彼女の傘を叩き折った。あの娘は――目に見えて憔悴していった。前みたいに、明るく笑わなくなった。好きな娘にそんな仕打ちして――僕は、満足だったんだろうか? 今となっては、理解できない。
好きなのに。
好きな、筈なのに。
嗚呼、これでは橘と何も変わらないじゃあないか。いや、それ以上だ。それ以下だ。本当は、真っ当に、真っ直ぐに、自分の想いを伝えなきゃいけないのに。卑劣な手など使わず、正面から彼女に向き合わなきゃいけないのに。
時刻は五時十五分。今日の練習はとうに終え、選手たちはほとんど帰途についてしまっている。人気のない体育館にて、僕はいつものように後片付けに精を出している。……とは言っても、こんなの、その気になれば一〇分で終わる作業だ。それが今になっても終わらないでいるのは――一緒に飯喰おうって、メンバーの誘いを蹴ってまで、この場にとどまっているのは――他でもない、今この場に梢がいるからだ。彼女、今日は片付け当番らしく、練習に使ったボールやらスコアボードやらを要領悪く片付けている真っ最中な訳で。誤解のないように言っておくけど、今梢が片づけをやっているのは、今日が彼女の番だからであって――例の一件以来、女子バスケ部の後片付けは一年の当番制となっている。もちろん、椎名の命によってのことだけれど。
――今日こそは。
そう、今日こそは。彼女を誘って、帰途を共にして――告白を、する。彼女の返答がどうかなんてのは考えない。怯えて戦いてばかりでは先に進めないない。行動することが大事なのだ。
――それに。
僅かではあるのだけど、勝算がない訳でもなかった。まず第一に、彼女には異性の影がない。告白してフラれるのであれば、すでに付き合っている人間がいるだとか、或いは別に好きな人間がいる、というのがスタンダードな所だけど――梢にそれは当てはまらない。彼女が他の男と仲良くしている所など見たことがないし、また、誰かを想っているような素振りも皆無。……そう言えば一度、『峰岸に勉強を教えてもらいたい』と三年の教室に来たことがあったっけ。その時は峰岸に気があるのかと思ってたのだけど――その後の動向をみる限り、どうやらそうでもないみたいだ。あれは、純粋に勉強を教えてほしかっただけらしい。
あとフラれる理由としては、単純に『その人間が嫌い』ってのがあるけど――それも大丈夫だよね。いくら僕が真性ネガティブでも、そこまで卑屈に構えるつもりはない。これでも、多少は人の表情を読めるつもりでいるので。本当に怖いのは『嫌悪』ではなく、『無関心』だ。『好き』の対義語は『嫌い』ではなく『無関心』、なんてのはよく言われる話。冷静に考えて、梢が僕のことをただの『いい先輩』としか認識してない可能性は高い。
彼女の中に、僕はいるんだろうか。
彼女の気持ちは、少しでも僕に向いているんだろうか。
……分からない。まあ、分からないからこそ行動するのだけれど。
嗚呼、『彼女に真正面から向き合う』なんて誓っておいて、結局、また姑息な計算を始めてしまっている。でもそんな風に考えでも巡らせないと、不安で押し潰されてしまいそうなんだ。だから計算なんかではなく、希望だと好意的に解釈してくれるとありがたいです――って、誰に言ってンだ僕は。
案の定、彼女は体育器具庫にいた。
「あれ、青山センパイだ。まだいたんですかー?」
「それはこっちの台詞だってば。梢ちゃん、今日当番なんだ?」
知っているくせに、そんなことを言う。でもま、既知の情報、機知の事実を知らないふりして会話の糸口を掴むなんて、皆やっていることだし。
「そうなんですよー。でもやっぱわたし、トロくてダメですね。ずっとやらされていた仕事なのに、他の娘よりも時間かかちゃって」
エヘヘと笑ったのは、照れ隠しか、それとも自嘲のためか。
「今まで散々やらされてたんだからさ、梢ちゃんの番は免除してくれてもいいのにね。椎名の奴、変に融通利かないトコあるんだよな」
「そんな、自分だけサボる訳にはいきませんよっ! バスケ下手なんだから、せめてこのくらいのことして部に貢献しないとっ!」
本当に、真面目な娘だと思う。他の女子が同じこと言っても、自分をよく見せようと計算しているとしか思わないところなんだけど――っていう、僕の女性観は、さほど的外れでもないと思う。
「それに椎名センパイはいい人ですよ。……センパイがいなかったら、わたしどうなってたか……」
そのポジションは置換可能ですか。別に椎名に嫉妬している訳ではないのだけれども。
「もちろん、青山センパイにも感謝してますよっ!? いつも優しくしてもらってるし……あの時だって、わたしを守ろうとしてくれてたし」
ああもう。そんなことを言わないでくれよ。そんな真っ直ぐに見られたら――期待しちゃうじゃないか。
「……もう、大丈夫そうだね」
「わたしはいつだって大丈夫ですよ!」
……うーん、そこで虚勢を張られてもな。この娘、素直なのはいいんだけど、基本的なところでピントがずれている。
でも実際、あの一件以来、梢は明るくなったと思う。いや、明るさを取り戻した、というべきか……。追い詰められて憔悴して、常に伏し目がちになっていた少女は、もうどこにもいない。苦痛と不安を理不尽に押し付けられて――本当に強いと思う。僕だったら五回は自殺してる。……まあ、ダメ類ダメ目ダメ科のダメ人間と比較されても迷惑だとは思うのだけど。
「梢ちゃんは前向きだね……」
「それだけが取り柄ですからっ! 見ててくださいね。今はまだ下手だけど、これからぐんぐん上達して、レギュラーの座をとって見せますからっ!」
また随分とカワイイ桜木花道だな。
「……希望を持つって、大事なコトだよね」
「あ、ひどーい」
わざとらしくむくれてみせる梢。事ここに来て、ようやく僕の軽口スキルに意義が見られた気がする。
僕は、この娘の笑顔を守りたい。多分それは、僕の義務で、責任で――贖罪だ。彼女から笑顔を奪ってしまったのは、僕なのだから。
……いや、それも欺瞞か。違う。違うんだ。いい加減、僕も素直になるべきだ。義務とか責任とか、そんな大義名分はただの誤魔化しにすぎない。こと梢に関しては、絶対に違う。
ただの、欲望だ。
僕は、そうしたいからそうするんだ。
彼女の笑顔を見たい。彼女を守りたい。彼女の側にいたい。それは欲望であり、願望であり――希望だ。理屈は、もういい。後は行動あるのみだ。
「梢ちゃん、さ……もしよかったら――」
「こっずえー、いるー?」
計ったように、謀ったように、絶妙なタイミングで邪魔が入る。……だから、背後で大声を出すのはやめてほしい。いつかきっと臨終する。
「おぉ!? 青山君、いたんだ!? 吃驚させないでよー」
「その台詞、絶対に僕が言うべきだよね」
現れた人物は怪訝な顔で僕と梢を見比べている。長髪、長身、意志の強そうな眉に涼しげな双眸――紛うことなく、それは女子バスケぶキャプテン・椎名香織だったのだけど。
「なんか……テンション高くない?」
「そりゃそうでしょ! 夏だしっ!」
「……酔っぱらってる?」
「真面目な高校生にする質問じゃないねー。青山君ってば、折檻されたいのかなっ?」
「……………………薬?」
「パーとグー、どっちがいい?」
「土下座したら許してもらえますか」
「いいってことさー。お姉さんの心は海のように広いからねっ! オホーツク海くらい!」
広いのかそれは。やたら寒そうだし。
「……椎名センパイ、練習終わるとだいたいこんな感じデスよ?」
僕の困惑を見かねたのか、梢がこっそりと耳打ちしてくる。えー。
「聞こえる? 僕の中の『椎名香織像』がガラガラと崩れていく音が」
「勝手なイメージ抱いて勝手に幻滅しないでよ! バスケ部では偶像崇拝は禁止されてるんだからね!」
「……いつからウチは宗教法人になったんだ……」
自分にも他人にも厳しく、正しく、真っ直ぐに世界と対峙している――僕は彼女に対してそういうイメージを抱いていたのだけど――そして、それはそれで、彼女の一面なのだろうけど――。
「どしたの青山君。変な顔して。そんなに私キレイ?」
「そうだね。大きなマスクと真っ赤なコートで下校中の小学生を襲ったらいいよ。明日から都市伝説になれる」
「お前を都市伝説にしてやろうか?」
「正式な謝罪をするので、よく分からないだけに恐ろしい脅しはやめてください」
まさか他でもない椎名と軽口の応酬をするとは思ってなかった。
「んで、椎名は何しに来たの。もうとっくに帰ったと思ってたのに」
現に、彼女はすでに練習着からTシャツにジーパンという、ラフな格好へと着替えを済ませている。
「私は梢ちゃんを誘いに来たんじゃないの」
そう言い、ぐっと梢の腕をとる。
「ねー、一緒に帰るんだもんねー」
「あ……はい」
練習中とは別人に思える程のハイテンションに、慣れている筈の梢も困惑している。だけど、どこか嬉しそうだ。
「……仲いいな、お前ら」
「あれ? 嫉妬?」
「女に嫉妬するほど終わってないって」
それは本当だった。ただ、梢と一緒に帰れなくなったのは残念だったけど。
「いつも一緒に帰ってたっけ?」
「あー、夏休みに入る少し前からかな。……ほら、色々と心配だし」
ほんの少し、椎名の表情に影が差す。
「……色々と、馬鹿が多いからね」
僕の台詞に曖昧な表情で頷く椎名だったけど、彼女は、一体誰を想定しているのだろう。東条か、高木か、末永か――それとも橘か。
「ま、実際のところ、私がそうしたいからそうしてるだけなんだけどね」
数分前の僕の発言をトレースするかのような発言。内心の動揺を悟られまいと、視線を隣の梢にスライドする。
「わ、わたしもセンパイと一緒で嬉しいデスよ?」
何を誤解したのか、慌ててそんな弁明を口にしている。
「んや、それは見てれば分かるけど……」
『見てれば分かる』のが、少し悔しい。椎名と共にいる梢は、どこか嬉しそうで楽しそうで――彼女に対する信頼や安心が、彼女をそんな表情にしているのだなと、容易に想像がつく。
「じゃあ私は外で待ってるから、早く着替えてらっしゃいな」
「ハイ」
それだけ言って、椎名は器具室から出て行く。梢もそれについて行こうとして、
「そう言えば――青山センパイ、何か言いかけてませんでした?」
と振り向く。
「いや、大したことじゃないよ。また今度ね」
言える訳がない。黙って梢の背中を見送るしかできない僕。
嫉妬なんて、していない。
だけど――何だか、途方もなく羨ましかった。
○
「……僕、告白しようかと思ってんだよね」
「そのことを俺に告白されても困る」
相変わらずこの男はそっけない。梢を見送った十五分後、僕はいつものごとく、南校舎の屋上に来ていたのだった。そこに鎮座するは、ぶっきらぼうでドライ、全てに対して高慢で無関心の、黒縁眼鏡の秀才――辻岡慎哉。
「お前が誰を好きになろうと、誰に告白しようと、それはお前の勝手で、お前の自由だ。好きにしたらいい。俺は俺だし――」
「『お前はお前なんだから』、でしょ?」
「……勝手に人の台詞を先取りするな」
「いいじゃん。何をしようと、僕は僕なんだから」
「……増長するな」
そう言って、不機嫌そうにフェンスの外を見る辻岡。気難しい男だなぁ。もっとも、最近ではその扱いにも慣れてきているのだけど。
「一つ、質問してもいい?」
「駄目だと言っても聞くんだろう」
「辻岡は……好きな娘とかいないの?」
「いない」
何という案の定。僕の軽口スキルを持ってしても感想が思い浮かばないよ。
「恋なんてのは、結局は錯覚だ。ただの自己満足であり、ただの所有欲であり――ただの色欲にすぎない」
末永に聞かせたい台詞だね。
「全ては幻なんだよ。実体など、どこにもない。勝手に満足して、勝手に幸せを感じて――その『幸せ』すら、脳内物質が見せている幻想にすぎない」
「……辻岡らしい台詞だね。……まあ、そういう考えもあるとは思うけど。辻岡は辻岡だし。別に恋愛なんてしなくても、大きな支障は――」
「ちょっと待て。誰が恋愛などしないなんて言った?」
「……は?」
「早合点するな。人の言葉尻だけとって勝手な解釈を下すのはお前の悪い癖だ。人の話は最後まで聞け」
いや、さっきの言葉を聞いたら、百人中百人、辻岡は恋愛否定論者だと思うでしょ。
「俺は別に、恋愛そのものを否定している訳ではない。ただ、実体などない幻だと言っているだけで、その幻を追求する行為自体を否定している訳ではない」
なんじゃそりゃ。
「幻を、実体のないものを追うことは、決して悪いことではない。それは人にエネルギーを与え、自信を与え、安心を与える。これは恋愛に限ったことでもないんだが、人は何かを求めるからこそ、前を向いて生きていけるんだ。何も求めるものもなく、そして何からも求められないのであれば――それはきっと、生きているとは言えないんじゃないか?」
「でもさっき、好きな人はいない、って――」
「今は、だ」
「……まるで、前は好きな人がいた、みたいな言い方だけど……」
「いけないのか?」
「え、誰?」
「……お前の知らない人間だよ。中学の時の話だからな」
「ふうん……そうなんだ……」
「お前、俺のことをサイボーグか何かだと思ってないか?」
「僕、辻岡のことをサイボーグか何かだと思ってたよー」
今さらそんなことを気にする辻岡が何だか面白くて、ざわと一字一句違わずにオウム返しにしてやる。
「増長するなと言っているのに」
案の定、辻岡は僕の軽口に本気で鼻白んでいる。
「だが……まあ、前よりはマシか」
声のトーンを下げる辻岡に、僕は思わず身構える。
「マシって……何が?」
「前みたいに、変に人の顔色を窺ったりしなくなった。前みたいに、何かに怯えたりしなくなった。随分と――楽になったように見える」
「…………」
僕は何と返答すべきなんだろう。肯定か、否定か。だけどこの男相手じゃ、どんな態度も見透かされてしまうだろうから、結局は無言を貫くのが一番の正解のような気もする。
「実を言うと、俺も、お前が誰かを好きになったりなんてしないのかと思っていた」
「僕がサイボーグか何かだと思ってた?」
「そうじゃない」
しつこく軽口を繰り返す僕を一蹴して、辻岡は続ける。
「お前は、自分にしか興味がないんだと思っていた」
血の気が引いていく音が、聞こえた。
「一見社交的で、周囲の人間と如才なく付き合っているように見えるが――その実、自分がどう見られているかばかりを気にしている。世界との繋がりを求めつつ、世界そのものを見ていない。興味がないからだ。そんな人間が人を好きになる筈がない」
「…………」
汗が一筋、背中を伝い落ちる。風のない蒸し暑い夜の筈なのに――薄ら寒い。躰が冷えていくのを感じる。
「……そう、だよね」
怖くて寒くて、気持ち悪くて――その気持ちをどうにか払拭したくて、僕は慌てて言葉を紡ぐ。
「僕なんて……身勝手で、幼稚で臆病で……そんな僕が人を好きになるなんて……滑稽だよね」
「ちょっと待て。早合点するなと言っているだろう」
「え?」
「かつての青山登はそうだったと言っているんだ」
「……かつて、の?」
「今は、変わった。今は違う。そうじゃないか?」
「…………」
ぶっきらぼうに、突き放すように――だけど的確に、コイツは人の心を突いてくる。……ああもう、どいつもこいつも。
「今は誤魔化すこともせず、ちゃんと世界と向き合っている。人を好きになることも、できる。そうじゃないのか?」
「……ありがとう」
「そこは礼を言うタイミングじゃないと思うが……まあいいだろう」
面白くもなさそうにそう言って、フェンスに肘をつく辻岡。
この屋上は変わった構造になっていて、中庭に面した北側の、入り口に近い一部分――つまり、今辻岡が立っている辺り――そこだけ、フェンスの背が低くなっている。その高さは一メートル数十センチくらいで、僕の背でも腕を乗っけられるくらいだ。それに対し、南、東、西の三面と、北側大部分のフェンスはかなり高く作られている。三メートルはあるだろうか。ご丁寧にも、天頂近くはネズミ返しのように手前に曲がっている。恐らくは自殺防止のためなんだろうけど――だったら、徹底しなければ意味がない気がする。
――って、そんなことはどうでもよくて、
「……何の話だったっけ?」
「俺に聞くな。そもそも、お前が誰かに告白したいという話を聞いただけで、まだ本題にすら入ってなかったように記憶しているが?」
「ああ、そうだったね」
「……物思いに耽って、自分の世界に入って、外界の変化に気が付かない――お前の悪い癖だ」
自覚している以上に、僕には悪い癖が多いらしい。
「……と言うかさ、僕も一つ、忠告していい?」
「忠告の内容によるな」
「人の内面を見抜くのもいいけど――いや、それもよくないけど――それを直接、ズバズバ指摘するのはどうかと思うよ。もっと遠慮しないと……いらない敵を作ることになるかもしれないし」
「……肝に銘じておこう。もっとも、俺だって人を選んで話しているんだがな」
選んでない。選んでないよ。僕相手なら大丈夫だと思ってるのなら、とんだお門違いだ。……僕は、自分の内面を覗かれただけで不安になって――お前を殺そうとまで思った男なのに。
僕は変わったけど。
変わったと、辻岡は言ってくれるけど。
かつて抱いた殺意――その記憶は消えない。消しては、いけない。それは、僕の罪だ。末永をけしかけたこと、橘を追い込んだこと、梢を傷つけたこと、辻岡を――殺そうとしたこと。消してはいけない。忘れては、いけない。憶えていれば、いつか贖罪の機会は必ず訪れる。罪は絶対に消えないけど、生きて、憶えてさえいれば、その罪は償うことができる。贖うことが、できる。そのためなら、僕は――
「青山、お前は人の話を聞いてないのか?」
「へ?」
「『自分の世界に入り込むな』と言った俺の舌の根は、まだ乾いてないんだが」
わざと間違った言い回しで突っ込んでいるところを見ると、別段苛ついている訳ではないらしい。
「本題に、入れ」
「――うん。あの、だからさ、僕……告白しようと思ってるんだよね」
「好きにしたらいいだろう。結果の成否は保証しないが」
「え、保証してくれないの?」
「……お前は時々、こちらの度肝を抜く発言をするな」
「いやあ、そんなことないよー」
「誉めてないし、今のを誉められたと受け取るのは、決してポジティブなどではない」
「肝に銘じておくよ」
「…………。本題に、入れ」
そろそろ辻岡が限界だ。軽口はこのくらいにしておこう。
「告白するにあたって、その場所を確保しときたいんだ」
「場所?」
――そう。梢に告白するにあたって、問題の一つとなるのが、その告白場所だ。例えば昨日、僕は彼女を一緒に帰ろうと誘おうとして、意図せず椎名にそれを邪魔されてしまった。もちろんそれは梢を守るためであって、全く悪意はないんだろうけど――邪魔であることに変わりはない。椎名がいる限り、僕は梢に想いを伝えられない。勿論、それは椎名に限ったことではない。例えば末永などに見られたら、話がややこしくなりかねない。と言うか、単純に、人目がつく所は避けたい。彼女をどこかに呼び出す必要がある。体育館裏とかが一般的なんだろうけど、そこはバスケ部員たちの通り道だ。とてもじゃないけど、告白できるような場所ではない。だけど――だったら、どこがいい? 屋外にせよ屋内にせよ、どこで誰が見てるか、どこで邪魔が入るかなんて分かったもんじゃない。できうる限り、二人っきりになれる空間が必要だ。そう、ごく限られた人間しか知らないような――あるいは、ごく限られた人間しか侵入できないような――空間。そこで僕は、この屋上を選んだのだ。ここに通じる扉は普段から施錠されていて、一般生徒は立ち入り禁止になっている。僕や辻岡が自由に出入りできているのは、扉の横の窓が解錠されているのを知っているからで、しかもその窓自体、普段は工具箱で隠れている。いわば秘密の空間という訳だ。ここなら告白場所に最適だ。
ただ、そのためには辻岡に場所を譲ってもらわなければならない。もちろん、コイツとて毎日屋上に来ている訳ではないのだろうけど、鉢合わせする確率は高い。辻岡にしてみれば、僕の恋路になど興味ないのだろうけど――それでも、告白する場所に先客がいるのは気まずいだろう。前もって根回ししておくのが賢明というものだ。そう思って、こうして屋上まで上がってきたのだけど――と、そこまで思考確認したところで、慌てて顔を上げた。再三注意されていたのに、また思考モードに入ってしまったらしい。案の定、辻岡が物凄く嫌そうな顔でこちらを睨んでいる。
「……人の話を聞いていないのか、人の話を聞く気がないのか――それだけ、教えてもらえないか」
呆れたようにそう言う辻岡に、僕は返す言葉もなかった。