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第三章 the third moon 11

 何も、変わらないのだと思っていた。

 事実、何も変わっていない。

 僕はやっぱり愚鈍だし、卑怯だし、臆病だ。人間、そう簡単に変われるものではない。

 だけど。

 ずいぶん、気が楽になったのも、また事実で。


「――おしっ! じゃあ一〇分休憩っ!」

 渡辺の号令の下、汗だくの選手達が散っていく。近くにいるメンバーにタオルを手渡したり、ドリンクの用意をしたり――マネージャーの仕事も、前より苦にならなかった気がする。僕は僕だし、皆は皆だし。バスケができるできないなんて微々たることで、それで全てが決まってしまう訳ではない。そう思えるまでになってきた。もっと言えば、学校での評価だってそんなに大したことではない。僕には僕の能力があって、僕には僕の非凡さがある。今はまだ、それが何が分からないけど――何か――きっと。


「はい、タオル」

 近くを通った末永にタオルを渡してやる――のだけど、

「…………」

 どこか顔色が良くない。無言で汗を拭いながら、入り口の方ばかり気にしている。

「どうかした?」

「いや……」

 入り口には誰もいない。それなのに、末永はキョロキョロと落ち着きなく辺りを警戒しているようで……。そう言えば、今日はプレーに精彩さを欠いていたような気がする。まるで集中してないというか。

「……誰か来る予定でもあるの?」

「お前さ」

 低い声で呟き、いきなり顔を寄せてくる。吃驚するなぁ、もう。

「最近――あずさと何か話したか?」

「姫? ……いや、別に」

 軽く、嘘を吐いた。最後に話したのは、廊下の奥でゴンゴン頭を打ち付けられたあの時――ずいぶん前のことのような気もするけど、よく考えてみればまだ四日前なのだ。あの時は確か、末永が別の女子と付き合い始めたと聞かされて――だけど、僕はその後で、末永をけしかけたんであって――。

「昨日から、変な視線を感じるんだよな……。俺の気のせいかもしれないけど」

「気のせいなんじゃない?」

「無言電話もかかってきた」

「間違い電話でしょ?」

「鈴の音が聞こえンだよ」

「幻聴です」

「――俺は、あずさの仕業だと思ってンだけど」

 奇遇だね。僕もそう思ってたところだ。あの女、末永を尾行するんなら、せめて鞄の鈴くらいは外したらどうなんだ。バレバレじゃないか。

「……考えすぎじゃないかな。橘とはもう別れたんだし、今さら末永が誰と付き合おうが、そんなの自由じゃないの? 末永は末永だし、橘は橘だし」

 辻岡の口調を真似て、そんなことを言ってみせる。

「そりゃそうなんだけどな……」

釈然としない感じで去っていく末永。 

 何だか、面倒くさいことになっているみたいだ。


 全部――僕のせいなのだけれども。


 末永は色欲が強い。

 橘は執着心が強い。

 その二人の隙間に付け込むようにして、僕は虚言を手繰った。末永拓にいらない期待を抱かせ、橘あずさにいらない不安を吹き込み――その結果がこれだ。橘は理性を失い始めている。末永に付きまとい、失うモノを最小限に食い止めようとしている。第三者から見れば、そんなの逆効果以外の何物でもないというのに……。

 

 全部――僕のせいだ。


 どうするべきなんだろう。

 自らの犯した罪に気が付いたとは言え、目が覚めたとは言え――それで、今まで自分がしてきたことが消えるなんてことは、絶対になくて。

 末永を救わなくてはならない。

 橘を、救わなくてはならない。

 そのために――まずは、何をするべきなんだろう?

 僕は今まで、嘘ばかり吐いてきた。……いや、今だって、末永に嘘ばかり吐いている。本当は、橘の挙動も、その元凶となった末永の振るまいも、そしてそれら全ての原因が僕自身の立ち回りにあることだって、全部全部全部――分かっている筈なのに。

 人を惑わすことは簡単だけど。振り回すことも、引っ掻き回すことも、それ自体は子どもにだってできることだけれども。

 それを収束させるのが、こんなに難しいなんて。

 梢のことを、思い出す。

 自分自身のエゴのために、彼女を限界まで追い詰めて――この様は何だろう。彼女をイジめるように、敵意を抱くように立ち回ったのは僕だけど、その僕ですら、もうこの状況を止められなくなっている。

 イジメを止めるのは容易ではない。

 友人が理不尽な振られ方をされ、その元凶が町田梢という鈍くさい一年にあると知り、東条里枝と高木サチはひどく独善的な義憤を抱いた。その感情は集団心理により累乗に増幅され、いとも簡単に、複数で個人を攻撃するに至る。そうなると後は加速するだけだ。最初の一撃は呼び水となり、攻撃は更なる攻撃を、加虐はさらなる加虐を呼ぶ。いつしか目的は失われ、より陰湿に、より狡猾にダメージを与えることばかりが求められるようになる。人はそれを、『悪意』と呼ぶ。問題は、攻撃する側の誰一人としてそれを意識していない点にある。歪に枝を伸ばし、禍々しく根を張るそれは、もう誰にも止められない。梢が部を止めるか、東条たちが引退するか、あるいは、別の新しい『標的』を見つけない限りは……。

 全部、僕のせいだ。

 重い頭を壁につけ、僕は一人、当てのない自問自答を繰り返す。過ちに気付いたからと言って、その罪が消える訳ではない。全てをリセットするには、すでに事態は複雑になりすぎている。

 だけど――こうなったのは、全て僕のせいなのだから。

 全て全て全て全て全て、僕に責任があるのだから。

 ならば、次にするべきことは決まっている。事態の収束だ。混乱を、困惑を、悪意を、敵意を、全て統べて、消化し昇華し浄化するべきだ。僕にはそうする義務と責任がある。夏休み直前にして大会予選目前の今は、時期的に相応しいとは言えないけれど――それでも、ボケッとしている訳にはいかない。ほっておけば事態はますます拡散する。悪意はますます増幅されて、きっと手が付けられなくなる。そのために僕は――


「うあああぁぁっ!」


 頓狂な声で、思考が停止される。

 声のした方を見る。女子バスケ部コート――その隅で、一人の少女が転倒していた。顔を確認するまでもない。彼女の周囲には、無数のボールが散乱している。どうやら、それを両手いっぱいに抱えて歩いて転んだ結果らしい。

「大丈夫っ!?」

 思わず駆け寄っていた。

「――スミマセン」

 呟き、梢は立ち上がる。だけど顔は俯いたままで、それがひどく痛々しい。

「あぁー、またやってるよぉー」

「ボールの準備もできないノ?」

 痛々しい彼女を鞭打つ嘲笑の声。言うまでもない、三白眼と茶髪の登場だ。

「しょうがないよねぇー、マチダだもーん」

「ゴメンネ? ここまで鈍くさいと思わなくてサ?」

 間延びした声が神経に障る。見れば奴らは一定の距離を保って梢を見下ろしている。決して、手を差し伸べたりはしない。取り囲んで嘲笑って……ただそれだけだ。大量のボールを一人で運ばせるなんて無意味な仕事を押し付けておいて、失敗するや否や皆でよってたかって彼女の無能を指摘して――いつものパターンだ。芸がない。

「ほら、いつまでもボケッとしてないでもらえるかなあ? わたしたち、早く練習始めたいんだけどー?」

「あ、ゴメンナサイ……」

 慌てて散乱したボールを集め始める梢。

「ちょっと、何だよこれ!」

 思わず声が出た。

「梢ちゃん一人に仕事押し付けて――お前ら、何やってンだよ! ってか、こんなの意味ないだろ!? 一人でこんなにたくさんのボール運ばせるなんて、ただの嫌がらせじゃないかっ!」

 柄にもなく声を荒げた僕を見て、東条は少なからず衝撃を受けたようだった。

「……何よぉー。青山くんには関係ないでしょぉー?」

「関係あるね。これ以上見てられないんだよ。いい加減にしたらどうなんだよ、こんなこと」

「――バッカみたい。ナニ熱くなってンノ? これはウチラの問題なんだから、男バスには口出ししてほしくないんダケド?」

 意地の悪い嘲笑を顔に浮かべ、高木がそう吐き捨てる。体格が良くて三白眼の東条の方が見た目には怖いけど、性格的には高木の方が圧倒的に悪い。性格だけならまだしも、頭も悪いときてる。こちらの話が通じない。論理的な話ができない。僕はとてつもない徒労感を感じながらも、なおも言葉を紡ぐ。

「だから、男バスとか女バスとか関係なく、僕は人として、お前らのやってることが――」


「何やってるのッ!」


 瞬間、その場の時が止まった。

 振り向くと、そこには表情をなくした椎名香織の姿。

「――あ。香織……」

 彼女の姿を認識した途端、今まで得意そうにしていた二人の落ち着きがなくなる。

「……何を、やっているの……」

 無表情、顔面蒼白、低音の声色で再度そう尋ねる椎名。気のせいか、彼女の背後から紅蓮炎が立ち上がっているような気がする。


「里枝、サチ……アンタたちが……」

 

 声が、震えている。

 どうやら、本気で怒っているらしい。

「いや、香織ぃ、ちょっと待ってー。これはさぁ、この一年が――」


 ぱぁん。


 東条は最後まで台詞を喋らせてもらえなかった。言い訳じみた彼女の言葉は、椎名の平手打ちによって木っ端微塵に砕け散ったのだ。

「――――ッ!」

 ぱぁん。続いて、高木も同じようにビンタを喰らう。

「…………」

「……痛いナー」

「アンタたち……自分が何やってるのか、分かってるの……?」

 憤怒で躰を震わす椎名の声が、体育館に木霊する。頬を打たれた東条、蒼白な顔をして身を震わせている。案外気が弱いのかもしれない。対して、高木はむすっとした顔で椎名を睨みつけている。凄いな。……単純に、椎名から発せられている怒りのオーラに気付いてないだけなのかもしれないけど。

 しかし――まさか椎名がここまで怒るなんて。聡明な彼女のことだ。きっと、この状況を見てある程度のことは察してしまったのだろう。この数日間、誰が梢をイジめていたのか――誰が梢を追い詰めたのか――。トイレで水をかけた一件も、この二人の仕業だと思っているのかもしれない。

 だけど、それだけではない。 

 彼女が本当に怒っているのは、そんなことではない。

 もちろん東条や高木が怒りの矛先なのは間違いないのだけれども……きっと、椎名は自分自身に怒っているのだ。今の今まで、部内で起こっている事態に気付けなかった自分に。

 そりゃ、東条たちは椎名に隠れて陰湿な真似をしていた訳で、椎名がそれに気付けなかったのは、ある程度仕方のない面もあるのだけれど――彼女にしてみれば、そんなもの、言い訳にもならないんだろう。椎名は他の誰よりも梢を可愛がっていた。トイレでの一件の時だって、今ほどではないにしても、珍しく怒りを顕わにしていた。梢がイジめられているという事実には、他の誰よりも心を痛めていた筈なのに――今の今まで、本当のことを知らずにいた。そのことが、許せないのだ。


「――出てって」


 底冷えするような声で、椎名が言い放つ。

「……聞こえなかったの? 出ていって。アンタたち、もう練習来なくていいから」

「……え」

「ちょっと、香織何言ってんの? 大会はどうするのヨ。わたしたちがいないと試合になんか――」

「後輩をイジめる人間なんていらない」

 小馬鹿にしたような顔で抗議する高木を一蹴。

「それに、アンタたちがいなくなっても、戦力にはさほど影響ないから」

「……ちょっと」

「何度も同じこと言わせないで。早く、出ていきなさい」

 それが最後通告とでも言わんばかりに、椎名は冷たく言い放ち、震える東条たちに背を向ける。そして怯えた表情で事の成り行きを見守っていた梢に近付き、

「梢、大丈夫?」

 今までとは打って変わって、優しい声音で語りかける。

「あ、ありがとうございます」

 椎名を見上げる彼女の目には、涙が浮かんでいる。安心したんだろう。かつての明るかった少女の面影はどこにも見られないけど、それでも――ずいぶん、救われた顔をしている。

 嗚呼。

 僕は、この顔が見たかっただけなのに。

 梢に見てもらいたかっただけなのに。

 彼女を痛めつけて。

 彼女を追い詰めて。

 自分で谷底に突き落としておいて、手を差し伸べて引き上げて、それであたかも自分が救済者であるかのように繕って、彼女に好意を寄せてもらおうと、卑怯で愚劣な画策を巡らせて。その結果がこれだ。結局のところ、僕は何もできはしなかった。東条たちを止めることもできなかった。まるで意味のない抗議をするだけで精一杯。糞の役にも立ちゃしない。

 対して、椎名は梢の置かれている状況に真っ当な怒りを示し、実際の加害者である東条・高木を排斥した。僕にはできない――いや、やろうともしなかった。

 ……考えてみれば、どだい無理のある話だったのかもしれない。僕が救済者なんて。救世主なんて。ヒーローなんて。器じゃない。自分自身も救えない人間に、どうして人が救えるというのか。計算違いとか、齟齬が生じたとかそんなレベルじゃなく、計画自体が、最初から破綻していたのだ。

 ――計画? なんだそれは。僕みたいな愚鈍な人間が、何を企てるというんだ。目を覚ませ。自重するんだ。無能で卑怯で臆病で、そんな自分のことを必要以上に自覚していて――自覚しているからって、そこから逃げていいなんて話にはならない。いい加減に、する頃だ。

 いい加減にしようと、思った。

 辛いのも痛いのも苦しいのも、それは全部僕のせいだ。逃げて誤魔化して繕って欺いて――今までは、それで泥沼にはまっていた。いい加減に抜け出すべきだ。抜け出す、努力をするべきだ。

 正面から向き合うべきだ。

 自分の弱さに対しても――梢に対しても。

 彼女が僕のことをどう思っているかは分からない。だけどそんなことは関係ない。いや、関係なくはないけど……恐れて怯えて(おのの)いていたって、何も変わらない。

 正直に、想いを伝えよう。

 どうなるかは分からない。駄目かもしれない。でも、それならそれで仕方ない。行動を起こすことで何かを変えられるなら、これ以上足踏みする意味などない。

 そう思えるように、僕はなっていた。


 いつのまにか、東条と高木の姿は消えていた。僕が思考の無限回廊を突っ走っている間にいなくなったんだろう。椎名にあそこまで言われて、なおも反論するほど東条は強くないし、高木は賢くない。きっと、彼女たちの姿をコート内で見ることは未来永劫ないんだろう。気のせいではなく、女バスの面子は皆どこか安堵した風な表情で通常練習に戻っている。今まで見て見ぬ振りをして、あまつさえそれに加担までしていたくせに、勝手な話ではある。少なからず苛立ちを覚えないではなかったのだけれども……今となってはどうでもいい話だ。顔色を取り戻した梢が、椎名のマンツーマン指導で楽しそうに練習しているのだから、いいじゃないか。梢のドリブルは、相変わらず絶望的だったけど。


○ 


 彼は一人、空を見上げていた。

 中庭のベンチを照らす月明かりは、照明というにはあまりに心なくて――峰岸秀典という圧倒的な存在ですら、その輪郭を曖昧にしていくようで。足元に気を付けながら至近距離まで近付いた僕ではあったのだけど、何だか声をかけづらかった。

「……アオヤマ?」

 口を開いたのは、向こうが先。僕の存在に気付きながら、顔はまだ上空を見上げている。夜空を見上げるのがそんなに楽しいんだろうか。

「……何してんの?」

「うん? いや、別に何ってことはないんだけど……月が綺麗だな、と思ってさ」

「……僕はまた、宇宙からの電波を受信してるのかと」

「フフ、アオヤマは本当に面白いな」

 峰岸は相変わらずのリアクションだけど――もう、腹は立たない。当たり前だ。峰岸は別に、馬鹿にしている訳ではないのだから。

「昼休みにここでご飯食べてるってのは知ってたけど……まさか、練習の後までここにいるなんてね」

「いつもじゃないけどね。たまに、姉さんが仕事で遅くなる時があって……家で一人で飯食うのも淋しいしさ。だから、ここで」

 そう言って、鞄から特大のメロンパンを取り出す。そう言えば、前にも『あまり遅くなると姉さんに怒られる』みたいなことを言っていた気がする。コイツも親を亡くしたのだろうか。……と言うか、

「バスケ部の誰かと一緒にご飯食べて帰るって選択肢はないの?」

「……うーん。あんまり、人と飯食うの、好きじゃないんだよなぁ……。まず間違いなく、変な顔されるし」

 ああ、そうだった。コイツは人並み外れた胃袋の持ち主なのだ。ハンバーガー二〇個をぺろりと平らげたのを見て、度肝を抜かれたのも――昨日の出来事とは言え――今となっては懐かしい。

「アオヤマこそ、こんな所に何しに来たの?」 

「ちょっと、ヒデと話したいことがあってさ」

「へぇ」

 片眉を上げ、意外そうな顔をしてみせる。……この表情のどこまで信用していいんだか。何でもお見通しの腹黒君だからな、コイツは。

「意外だね。てっきり、俺のこと避けてるんだと思ってたのに」

 ほら、やっぱり。

「それとも――何か、心境の変化でもあったのかな?」

 サトリの化け物か、コイツ。でもまぁ、それならそれで――話が早い。

「この前のマックで話したことなんだけどさ」

「ふんふん」

 メロンパンをもしゃもしゃと頬張りながら、気のない相槌を打ってくる。力が抜けるなぁ。

「ヒデは、あの『遺書』が殺人計画の布石だって言ってたけど――」

「ふんふんふん」

「……あの、ちゃんと聞いてる?」

「ひいふぇる(聞いてる)よ。ひゃんと(ちゃんと)ひいふぇる(聞いてる)はら(から)――」

「口にモノ入れて喋らない」

「ねえふぁんと――うん」

 そこで、口の中のメロンパンを全て飲み込んだらしい。

「――姉さんと、同じこと言うね」

 知るか。いつのまにかメロンパン一個完食してるし。もしかして、今飲み込んだのメロンパン一個分か? ヘビみたいな男だな。

「とにかく、ちゃんと聞いてるから……。ごめんね、練習の後で腹減ってるもんだからさ、失礼ながら飯食いながら話聞かせてもらうけど」

 言いながら、鞄から次々と菓子パンを取り出す。小倉あんパン、メロンパン、ジャムぱん、クリームぱん、メロンパン、コッペパン、焼きそばパン、メロンパン、ウグイスあんパン、メロンパン、メロンパン、チョココロネ、メロンパン――。

 ……まぁ、メロンパン一個で済むとは思ってなかったけど――その量は何なんだ。無駄に種類が豊富な割に、メロンパンの比率が高すぎるし。と言うか、これだけ大量のパンがよく学生鞄に入ったな。もう、ツッコミ所が多すぎて面倒くさいったら。

「……なに、ここで峰岸パンでも開業するの?」

「昨日近くのスーパーで特売やっててさ。今日姉さんの帰りが遅くなるのは分かってたから、夕食代わりにいいかな、と思って」

 そんなことは聞いていない。聞きたいことはそんなことではない。今、論点にすべきは、お前の胃袋と食欲と、夕食に菓子パンをチョイスするという偏った嗜好だ。

 ――いやいやいやいやいや。

 そんなことはどうでもいいんだよ。どれだけこちらのペースを乱すんだ。乱気流みたいな男だな。

「……本題に、戻っていいかな?」

「どうぞ~?」

 変な節をつけて答えながら、嬉々としてパンの袋を開けている。

「ヒデ、この前は誰かが――バスケ部の誰かが殺されるって、そう言ってたじゃない」

「アオヤマは違うんでしょ?」

「うん、あれはあくまで本物の『遺書』で、殺人なんかじゃなく、誰かが追い詰められてて、自殺を考えてるんだって――」

「考え、変わったの? 俺の推測に賛同する気になった?」

 パンを頬張り、飲み込みながら、その合間に的確な相槌を打つという、器用の真似をしている。いいから食べるのやめてくれないかな。緊迫感に欠ける。

「いや――考えは変わったけど、ヒデの仮説を支持する訳じゃない」

「うん?」

「……むしろ、逆かな」

「と言うと?」


「もう――誰も死なない、と思う」


 僕が決定的なことを言ったというのに、峰岸はメロンパンを夢中になって頬張っていて。

「……聞いてる?」

「うん、やっぱり、谷口屋のメロンパンは別格だな」

「おや、僕の話はメロンパン以下なのかな?」

「ん? アオヤマ、自分の話がメロンパン以上だと思ってた?」

「――日本が銃社会だったら、撃たれてるよ?」

「大丈夫だよ。日本は銃社会じゃないから」

「…………」

 帰ろうかな。

「ああ、ごめんごめん。ちゃんと聞いてるよ。誰も死なない――か。ふうん……そっか」

 何やら一人で頷き、柔和な――それでいて、今までで最高の笑顔を、僕に見せる。


「そりゃ、よかった」


 瞬間的に、顔を背けていた。

 何で――そんな顔をするんだ。

 その一瞬前に、人をさんざんからかっておいて――何でそんなに、心からよかったみたいな言い方をするんだ。

 台詞だけ抜き出せば、ひどく他人事みたいに言っているようにも見える。だけど、違う。コイツは。この男は。

 全てを知っていて。

 全てを分かっていて。

 僕の計画も僕の思惑も全て把握していて、その僕が『誰も死なない』と宣言したということは、つまり僕がもう誰も死なすつもりはないと思い直したからだと、峰岸は瞬時に理解して、その上で――

 祝福しているのだ。

 もちろん、単純に誰も死なないという事実に対して『よかった』、というのもあるだろう。だけど、それじゃあこの笑顔の説明がつかない。そんな、そんな優しい顔で僕を見ないでほしい。こんな僕を、こんな――浅はかで愚かで弱い、狡い、幼い僕を……。

 泣きそうだ。

 

「……根拠は聞かないの?」

 顔を背けたまま、僕は下らないことを聞く。この質問に意味などない。ただ、沈黙が怖かっただけだ。当然、峰岸にはそれくらいお見通しだったらしく、

「聞いてほしいの?」

 などと、どこか楽しそうな口調で聞いてくる。嗚呼、もう。どこまでいい性格してるんだ、この男は。誰よりも頭脳明晰で、誰よりも、人の気持ちが分かって――誰よりも優しくて。これで、この人をからかう癖さえ治してくれれば、本当に完璧なのに。

「……フフ、聞かなくても分かってるんだ。今日の練習のことでしょう?」

 と、僕が何も答えられずにいるのをいいことに、話は思わぬ方向へと転がっていく。

「……今日の?」

「そ。マチダコズエのこと」

 そっちか。そっちに話を持っていくか。

「アオヤマはさ、マチダが自殺するって思ってたんじゃないの?」

「よく分かるね」

 ……そりゃ分かるか。事あるごとに梢を気にかけてる素振りは見せていたし、今日だって――意味はなかったとは言え――一応、梢を守るため、東条たちに喰ってかかる真似までした訳だし。


「――アオヤマは、マチダが好きなの?」


「そうだよ」


 ……驚いた。まさか、こうもすんなりと自分の気持ちを認めて、しかもそれを峰岸に対して口にできるなんて。以前の自分なら、きっと見苦しく狼狽して、慌てて誤魔化したりしていただろうに。そう、かつて橘に指摘された時みたいに――

「そっか……。ふうん、なるほど」

 何を納得しているのか、菓子パンをモグモグ咀嚼しながら頷く峰岸。物凄く嫌な感じ。

「アオヤマとマチダか――お似合いだね」

「それは、体のサイズ的な意味で?」 

「いやいや、そうじゃなくて、普通にカップルとしてお似合いってこと」

 いつしか菓子パンを全て食べ終えていた峰岸は、真っ直ぐに僕を見つめ、そんなことを言う。


「俺は――応援してるよ」

 

 嗚呼。この男の言葉はどうしてここまで胸に響くんだろう。

 何だか、卑怯な気がする。

 僕の言葉は、人の胸に響かない。

 当然だ。端から嘘ばかり口にしているのだ。不安や欲望に付け込むことはできても――それで人を動かすことはできても――結局、そんなのは全てマヤカシだ。物理的な風力で無理矢理吹き飛ばすしか能のない北風と変わらない。絶対に太陽には勝てないのだ。

 でも、それはそれでいいと思った。

 僕は僕で、峰岸は峰岸で――どっちが優れてるとか劣ってるとかではなく――ただ、単純に違う存在なのだから。僕は峰岸にはなれない。峰岸だって、僕にはなれない。以前のように妬ましく思ったり、どこか欠点をあげつらって、その部分だけを指摘して蔑んで満足したりはしなくなっていた。

 そう思えるように、僕はなっていた。

 多分、峰岸のおかげなのだと思う。

 あの日、僕の過ちを指摘してくれたから。

 僕の暴走を食い止めてくれたから――。

 もちろん、その後で僕の話を聞いてくれた辻岡の力も大きいし、結果的に僕の尻ぬぐいをしてくれた、椎名にも感謝しなくてならないんだろう。

 だけど。

 今の僕がいるのは――紛れもない、峰岸のおかげな訳で。

 それを口にできないのが、少し悔しかった。


 ほんの数瞬、月明かりの照らす中庭を沈黙が支配する。何か喋るべきだろうか。実際のところ、こうして黙って座っているのも、今ではそれほど苦痛でなくなっている。だけど、せっかく峰岸と二人でいるのに黙ったまま、というのも少しもったいない気がする。コイツと喋るのは楽しい――嗚呼、人と喋るのが楽しいなんて思えたのは何時ぶりだろう――

「ヒデは、さ――」

「うん?」


「死のうと思ったこと、ある?」

 

 ああもう。僕はどこまで芸のない男なんだろう。梢、辻岡に続いて、峰岸にまでこんな質問をぶつけるなんて。だけどそんな僕の煩悶など、峰岸の答えでふっとんでしまった。


「あるよ」


 一瞬、聞き間違いかと思った。梢も辻岡も、ほぼ即答でNOと言い返したこの設問に、彼はYESと返答したのだ。自分の耳を疑わずして何を疑うってんだ。

「……え?」


「俺だって……死のうとしたことくらい、ある」


 二メートル先の地面を凝視しながら、彼は答える。峰岸のデフォルトである筈の笑顔は、とうに消えていた。

「――気を悪くしないで聞いてね――」

 珍しく沈鬱な表情で、ただ直向きに言葉を紡いでいる。

「中学の時かな……色々あって、親を亡くして――俺は両親とも、だったんだけど――俺と姉さんは奇跡的に生き残って……その時は、何て言うか、本当に死のうと思った。そのくらい辛かったんだ」

 やはり両親は存命ではなかったらしい。その事件のことを詳しく聞きたい気持ちはないではなかったけど、辛そうな峰岸の顔を見てまで好奇心を発揮するほど、僕も無神経な男ではない。……それよりも、大切なこと。

「でも――ヒデは生きてる」

 結局、彼は死を選ばなかった。それは事実で、それが全てだ。

「――アオヤマ。死ぬっていうことはさ……自分ていう存在がこの世からいなくなる――それ以上の意味を持つんだよ」

 吐き出すように、切々と言葉を紡ぐ峰岸。

「父さんが死んで、母さんが死んでも……それでもまだ、俺には姉さんが残されていた。それだけじゃない。俺には友達がいて、先輩や後輩がいて、他にもたくさん、大事な仲間がいた。あの時、俺まで死んでいたら……きっと、みんな悲しんだと思う。……いや、『悲しむ』なんてレベルじゃないだろうな。

『死』っていうのは、きっと『毒』と一緒なんだ。

 それは感染する。『峰岸秀典』が死んだという事実――しかもそれが自殺だったという現実――それは周囲の人々に治癒しようのない傷を与え、一生消えない(くさび)を打ち込むことになる。悲しさ、悔しさ、怒り――そういったマイナスベクトルの感情ってのは、もの凄い力を持っている。何故死んだのか、何故それを止めることができなかったのか、何故それを理解することができなかったのか――疑問は怒りとなり、悲しみとなり、結局は埋めようのない『闇』を与え――決してプラスに働くことはない。

 俺は――そんなの、耐えられない。

 だから、俺は死ぬのをやめた。辛くて辛くて、何度も自分も責めたりしたけど……でもやっぱり、死ぬのは卑怯だから。皆に辛い想いをさせて自分だけ逃げるなんて――絶対に卑怯だから」

柄にもなく強い言葉を使って、峰岸はそう言い切る。

 断言するように。

 断罪するように。

「人のすることには、必ず意味がある。それがどれだけ自己中心的であったにせよ、思いつきでの行動だったにせよ、欲望からきたモノであったにせよ、そこには少なからず、本人の意思があって――正当性がある。正しいか間違ってるかは別にして……取りあえず、一方的に否定するつもりは、僕にはない。人の意思を否定することなんて、本当は誰にもできることじゃない筈だからね。

 ――だけど、『命』が関わるとなると、話は別だ。

 自ら命を絶つということ。

 人の命を奪うということ、

 この二つだけは、絶対に許す訳にはいかない。如何なる理由があろうとも、絶対に同情なんかしない。同調なんか、しない。人が死んでいい大義名分なんて、どこを探してもある筈がない。それは絶対的な『悪』であって――絶対的な『愚行』なんだ」

 視線は前に固定したまま、口調も依然として強いまま、さらに言葉を重ねる峰岸。いつしか見せた、目の奥の炎が、また再燃している。当然のことながら、いつもの笑顔などない。ただ真剣に、説くように、諭すように、悟らせるように、言葉を紡ぐ。

 

「ゴメン、変な話しちゃったね」

「……んや、別にいいけど……」

「――そっか、誰も死なない、か……」

 空を見上げ、僕の言葉を繰り返す。その目の先には、何があるんだろう。コイツは今――何を見ているんだろう。

「うん、本当によかった。生きてさえいれば、繋げる明日もあるもんね」

「……その明日に、希望が持てなくても?」

「ん?」

「今がどうしようもなく辛くて、逃げたくて、どこにも希望が見つけられなくても――生きてなきゃ、いけないのかな?」

 わざわざ一般論にすることもないだろう。梢がそうで、僕が――そうだ。

「そりゃ、辛いことや悲しいことは沢山あるし――きっと、そういうことの方が多いんだろうけど――いつかきっと、生きててよかったって思える日が来る。少なくとも、そう思っておくべきじゃないかな。その方が、楽しい」

 ここまでポジティブでシンプルな考えを真っ直ぐに伝える人間も珍しい。それとも、僕が相手だから――ネガティブでひねくれている、僕を相手にしているから――敢えてそういう論調にしているのか? ……考えても分からないし、それに、答えはどうでもいい気がした。

 人を想うということ。

 明日を見つめるということ。

 生きることを楽しむということ。

 ごくごく単純で当たり前で、それ故に馬鹿にしていたことばかりだけど――きっとそれは、最も大切なことの筈で。

「……ありがとう」

「ん? 何もお礼を言われるようなことはしてないけどー?」

 性懲りもなくすっとぼけてるけど、わずかに口元がニヤけている。

「いいんだ。僕はお礼を言いたいんだよ。……何だか、ずいぶん楽になったし」

「そっか」

 そりゃよかった――とでも思ってるのか、峰岸は笑って空を見上げている。僕も真似て、空を見上げる。

 キレイな月が、ひどく近い所に浮かんでいた。

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