第三章 the third moon 10
駄目だ。
駄目だ。
駄目だ。
もう、駄目だ。
全てバレてしまった。
全て見透かされてしまった。
辻岡どころの話ではない。アイツは――峰岸秀典は、数段上のレベルにいる。僕の、根暗で愚鈍で無能で小心で卑屈で卑劣で卑怯で醜悪で幼稚で身勝手で独り善がりで傲慢で浅慮な、塵芥以下の正体を、見抜いている。
僕はただ、不安を取り除きたかっただけなのに。
安心した日常を――過ごしたかっただけなのに。
峰岸は、犯人を救いたいと言った。
僕を救いたいと――言った。
馬鹿にするな。
適当なことを言うにも程がある。奴には誰も救えない。ましてや、僕みたいに救われない程に救われない人間なら尚更だ。
辻岡どころの話ではない。
排除すべきは――峰岸の方だったんだ。
だけど……どうすればいい? 奴は僕の全てをお見通しだ。『遺書』の意味するところも看破された。僕が辻岡を狙っていることも……遅かれ早かれ気付かれるだろう。
僕が何を恐れているのかも。
僕が何を厭っているのかも。
全て暴かれて、全て晒されて。
僕は、僕は、僕は――。
頭が空転を始めている。ゆっくりと息を吸う。頭を冷やす。ゆっくりと、息を吐く。視線を上げる。いつもと変わらない教室。いつもと変わらないクラスメイト達。教師。机。椅子。教科書。夏休みを目前に控えた、適度に緊張し、適度に緩和したその空気。いつもと変わらない、何てことない日常の風景。
僕だけが――皆と違う。
何でだろう。
僕は、どこで間違ってしまったんだろう。
誰にも嫌われたくなくて、仲間にしてほしくて、認めてもらいたくて、評価してほしくて、愛されたくて、誰かに傍にいてほしくて、世界と繋がっていたくて――ただ、それだけだったのに。
僕は、何を苦しんでいる。
何を厭っている。
何を呪っている。
そう言えば、僕はいつも苛ついていた。いつも、誰かを蔑んでいた。自分に関心を持ってほしいと願いながら、いつだって他人に無関心だった。嘘をついて、振り回して、傷つけて、それを見て笑っていた。自分の傷にばかり敏感で、人のことを何とも思っていなかった。世界との繋がりを求めながら――その世界は悪意に満ちていると思って、疑わなかった。拒絶を恐れ、否定を恐れていた僕は――結局のところ、世界の全てを拒絶し、否定していたのかもしれない。
間違っていたのは、僕の方なのか?
冷えた頭で、今さらそんなことを思う。
僕は、何をしようとしていたんだろう。愚鈍な自分を知られるのが怖くて、演技を続けていた。本心が知られるのが怖くて、拒絶されるのが怖くて、否定されるのが怖くて、そのために滑稽な演技を続けているのが知られるのが怖くて――挙げ句、その演技がバレてしまったら、今度はいとも簡単にその人間を抹殺しようと画策して。
何を――しようとしていたんだろう。
どうなったら満足できるんだろう。どうなったら安心できるんだろう。仮に辻岡を消すのに成功したら、今度は自分の罪が露見するのを恐れるに決まっている。太宰治の次はドストエフスキーか。峰岸は確実に真相に気が付くだろう。そうなったら――今度は、峰岸を消すんだろうか。臆病で卑怯な僕は、そうやって罪を重ねていくんだろうか。
……頭が、重くなる。思考放棄して、傷つかないように、少しでも自分が優位に立てるよう、怯えて逃げて嘘を吐いた結果が、これだ。目の前が暗くなる。
今まで信じて疑わなかったモノたちが、歪に形を変えて僕の目の前に提示される。僕は――何を、考えていたんだろう。
橘に、嘘を吐いた。
橘を傷つけた。
橘を操った。
東条を怒らせた。
高木を怒らせた。
梢を傷つけた。
末永に嘘を吐いた。
末永を惑わせた。
橘を傷つけた。
椎名を怒らせた。
梢を追い込んだ。
ニセモノの文章を書いた。
渡辺を惑わせた。
峰岸を疑わせた。
梢を――さらに追い込んだ。
全部、全部全部全部、僕の浅はかなエゴのせいで――みんなを巻きこんで。口先一つで世界を動かせると、いい気になって。
急に恥ずかしくなった。
自らの愚鈍さを隠すために行っていた所業が、いつからか自ら率先して痴態を晒す結果となってしまっていた。やはり愚鈍で臆病で卑怯な人間は、どこまでいって塵芥以下の存在にしかなれないんだろうか。
『俺は、救いたいんだ』
不意に、峰岸の言葉が蘇る。
アイツは、手を差し伸べていた。その手を振り払ったのは僕だ。馬鹿にされたと思い込んで、拒絶した。
『何も気に病む必要なんてないと思うんだけどな』
辻岡の言葉を思い出す。あの男もまた、僕を許してくれていた。勝手に怯え、勝手に敵意を抱いたのは、僕の方だ。
『わたしは、一人じゃないから』
今度は梢だ。あの子は僕なんかよりよっぽど辛い状況にある筈なのに、気丈にそう言ってのけた。追い詰めたのは僕なのに――下心から差し出された僕の手を、あの子は疑いもなく握ってくれたというのに。……僕は、それすら信用することができず。
何も信用せず。
全てに怯えて。
全てを拒絶して。
……僕は、どうしたいんだろう。
塞いでいく頭の隅で、授業終了のチャイムを聞く。昼休みだ。一気に弛緩する空気の中、皆思い思いの場所に散らばっている。
僕だけが、その場から動くことができないでいた。
「――どうした。ひどい顔色だな」
過ちに、失敗に、罪に気が付いた僕は、塞ぎ込む気持ちを抱えたまま、いつの間にか屋上へと向かっていた。施錠された扉の横にある小窓から屋上へ出ると、そこではさも当然のように、あの男が待ち受けていて――
「人を殺してきたみたいな顔してるな。大丈夫か?」
無愛想に、不器用に、そんな言葉をかけてくる。
嗚呼。
辻岡――僕は、お前を殺そうとしていたんだよ……。
「……昼ご飯、一緒してもいいかな……」
「好きにしたらいいんじゃないか。ここは俺の家じゃない。学校の敷地内だ。屋上で昼飯を食べる権利がお前にはあるし、それを拒否する権利など俺にはない」
相変わらず理屈っぽい奴だ。だけど――少なくとも、僕がここにいることを許してくれている。拒絶は、していない。そんな当たり前のことにようやく気が付いて、僕はひどく泣きたい気持ちで、扉の横に腰を下ろす。今日も快晴。例年に比べれば数段マシとは言え、それでも全身の汗腺が開く。額に浮かぶ汗を長袖の裾で拭いながら、僕は購買で買ったパンにかじりつく。食欲などないのだけれど、今食べなければ放課後までもたない。大会予選も近いのだし、部活を休む訳にもいかない。
「もうすぐ、夏休みだね……」
「――お前、俺と世間話するためにこんな所まで来たのか? 俺は別に構わないが」
取り付く島もない。
「冷たいね」
「俺が温かい男だと思っていたのか?」
ゆったりとフェンスにもたれながら僕の相手をする辻岡は、だけどどこか楽しげで。
「――僕がここに来た理由、聞きたい?」
「聞いてほしいんだろ」
「実は、僕自身もなんでここに来ちゃったのかよく分かってないんだけど……」
「……俺はその告白に対して、なんて声をかければいいんだ? 模範解答を示してくれ」
辻岡の困惑ももっともだ。
僕は、何故よりによってコイツの所に来てしまったんだろう。
二十四時間前まで、僕はコイツを殺すつもりでいたというのに。
本性を知られて、勝手に焦って、勝手に殺意を抱いて――勝手に後悔して。
僕は、何をしにここに来た?
懺悔でもするつもりだろうか。
告白でもするつもりだろうか。
……言える訳がない。
「――辻岡は、死のうと思ったこと、ある?」
結局口をついて出たのは、そんな下らない質問だった。なんだそれ。確か、前に梢にも同じことを聞いた気がする。数少ない引き出しの一つがコレって、どうなんだろう。
「……死にたいのなら、俺はもうとっくにこのフェンスを飛び越えているだろうな」
辻岡も梢と同じだった。
「何故唐突にそんな質問が口をついたかは、敢えて聞かないでおこう。どうせ自分でもよく分かってないんだろう?」
「なんで分かるの?」
「――今のが図星なことより、それを素直に認めたことに、俺は驚いている。またヘラヘラ笑って、下手な誤魔化しするもんだとばかり思っていたんだけどな」
「……言われたい放題だね」
「言われたくて、ここに来たんじゃないのか?」
そうかもしれない。事実、辻岡の口から出る遠慮のない正論を聞くのが、少し楽しくなってきていたところだし。
「――話の流れから聞くが、青山――」
何でもないことのように、辻岡が尋ねる。
「お前は死のうと思ったことがあるのか?」
「……いつも思ってる」
「そうか」
「……驚かないんだね」
「驚いてほしいのか?」
どうせ、質問した時点で僕の答えをあらかた予想していたのだろう。そういう奴だ。
「……僕は、誰だって、みんな心のどこかで死にたがってるんだと思ってた」
「そんな訳ないだろう。幸か不幸か、人は前を向いて生きるようにできている。それができないのは鬱病患者だ」
すげえ。言い切った。
「まるで僕が鬱病みたいな言い方するんだね」
「まるでお前が鬱病じゃないみたいな言い方するんだな」
えー。
「冗談だ。真に受けるな」
「真顔で冗談を口にする自分の非も認めてほしいんだけど」
「それもそうだな。すまん」
素直に謝罪する辻岡。マイペースにも程がある。
「でも確かに……前向きじゃなかったのは確かかもしれない。いつも後ろ向きにグジグジ悩むばかりで――世界は悪意に満ちてると思ってた」
僕は何でここまで素直に、自分の想いを打ち明けているのだろう。
「ずっと――辛かったんだ」
一度は殺そうとした、男相手にして。
「独白の途中で申し訳ないが、言い方が過去形な件については、突っ込んだ方がいいのか?」
……自分でも気付かなかった。驚いて顔を上げると、斜め前方、フェンスに身を預けた辻岡が、シニカルに笑っている。
「やっぱり、お前、面白いな」
僕を見下ろし、以前と同じ台詞を口にする。だけど何でだろう、前は躰が震えるくらい怖くて悔しくて恥ずかしかったのに、今は何とも思わない。むしろ、気持ちいいとすら思える。
いつの間にか、僕はこの、ひねくれた言い方で正論を吐くこ男のことが、好きになりかけていた。……もちろん、同性の友人という意味でね。
一時は殺そうとまで思った相手なのに。
こちらの感情の都合で、くるくると認識を翻したりして。
「僕、どうしようもない馬鹿だよね……」
「否定はし――」
「そこは否定しようか」
「無茶を言うな」
本当に遠慮がない。
「どういう心境の変化があったか分からないが――まあ、考えすぎないことだ。独り善がりな理論から出した結論は、大抵がろくでもないモノと相場が決まっている」
「――ゴメン」
「謝る必要はない」
いや、謝らなくてはいけないんだ。本気で、全力で、謝らなくちゃいけないんだ。
「……何だか、目が覚めた気がする」
「そうか」
「ありがとう」
「謝ったり礼を言ったり、忙しい奴だな」
辻岡はまた口元だけで笑って、寄り掛かっていたフェンスから身を離す。
「――そろそろ昼休みが終わる。次は移動教室だ。さっさとそのパン、食べ終えろ」
そう言って、さっさと屋上を後にしようとする。どうせなら一緒に戻ればいいものを、敢えて足並みを揃えようとしないあたり、辻岡らしい。バスケの時に見せるチームプレーはどこに行ったのだろう。
「それと――もう二度と、変なこと考えるな」
そんな台詞を残して、辻岡は小窓をくぐっていく。
一瞬、辻岡殺害のことを指しているのかと思ったけど――そんな訳がない。
アイツは、僕が自殺すると思って、心配していたのだ。