第二章 the second moon 9(新月)
早いもので、バスケの地区大会まで、二週間を切った。わざわざ描写するまでもなく、昼間の練習はますます熱を帯び、チームのテンションも高まっていく。
そして、僕はと言うと。
何も変わっていない。
変わり様がない。
何も変わらない。
何も変わらない。
何も変わらない。
何も変わらない。何も変わらない。何も変わらない。何も変わらない。何も変わらない。何も変わらない。何も変わらない。何も変わらない。何も変わらない。何も変わらない。何も変わらない。変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない変わらない。
何も――変わらない。
「事情が変わったんだ」
珍しく険しい表情で、峰岸がそう告げる。
「――いや、変わったのかも、しれない」
「え、どっち?」
「取り敢えず俺の話を聞いてもらっていい?」
そりゃ聞くよ。聞きますとも。そのために、放課後潰してまで付き合ってるんだから。……と言うか、最近、放課後一人でいたためしがないよなー。梢ちゃんとか渡辺とか辻岡とか峰岸とか、誰かしらと一緒にいることが多すぎる。ま、大半は僕が望んでしたことなんだから、文句を言う筋合いでもないのだけれども。
今日は朝から信じられないくらいの快晴で、空はあまりにも高くて青くて、そのくせ暑さは大したことがなく、必要以上に爽やかで――そんな午後のこと。
練習を終えた僕は峰岸に誘われて、駅前のマックにまで足を伸ばしていた。僕が先に立ち、レジでのオーダーを済ませる。考えるのが面倒なので、一番シンプルなセットを選び、さっさと二階席へと向かう。やはり夕方ということもあってか、席の八割方は高校生で埋まっている。みんな暇なんだろう。羨ましい限りです。僕は運よく空いていた窓際の二人席に腰掛け、峰岸を待った。
しかし――昨日の今日で、何の話があるというんだろう。遺書の書き手が見つかった、って訳じゃないだろう、最初からそんなものは存在しないし、峰岸ともあろう人間が軽率に該当者をでっちあげるとも思えない。色々な可能性を考えて――また、少し気が重くなる。そもそも、奴は遺書の信憑性そのものに疑問を抱いていた。まさか僕の目的に気が付く筈はないだろうけど……。
「お待たせ」
どれだけ待っただろう。待ちくたびれてハンバーガーに手を着け始める僕の耳に、奴の柔和な声が響く。階段の方を振り返ると、両手にトレイを持った峰岸の姿。そのトレイには、ハンバーガーとポテトが冗談みたいに山盛りになっていて。
「ゴメンゴメン。レジで待たされちゃってさ」
何でもないことのようにそう言って席に着き、そそくさとハンバーガーの包みをほどき始める。見た限り、軽く二十個はあるように見える。
「えっと……ギャグ?」
「何が?」
きょとんとした顔でこちらを見ている。いや、きょとんとしたいのはこっちだってば。
「……ご近所にお裾分けでもするの?」
「ハハ、アオヤマはいつも面白いな」
うあー、笑顔で流すなよこのやろー。人のことウィットに富んだ奴みたいに言いやがって。どっちがおかしいかって、絶対にお前の方がおかしいんだかんな。
「それ、全部一人で食べるつもり?」
「……もちろん。当たり前でしょう」
当たり前ではない。少なくとも僕の常識では、当たり前ではない。あれ? 僕、何かおかしなコト言ってますか?
「……すごいね」
「小遣いが思ったよりたくさん貰えたもんだからさ。普段だったら、とてもこんな贅沢は出来ないんだけど」
「……いや、経済的なことを言っているんじゃなくて。その量が凄いね、って言ってンだけど……」
「そうかな。……ああ、今日弁当忘れちゃったからさ、腹減ってるんだよ」
「そうなんだ」
「だから購買で買ったメロンパンしか食べてない」
「食べてんじゃん」
「しかも、二個だけだよ?」
「充分だよね?」
「正直、今日の練習は本当にキツかった。空腹で倒れるかと思ったもの」
その割にはいつも通りの大活躍でしたが。倒れればよかったのに。そんな下らない遣り取りをしている間に、この男はハンバーガーを二つ、ぺろりとたいらげてしまっている。普通に会話していたのに、しかもこの短時間で――手品? 注意してみれば、この男、大口でガブリとかぶりついて嚥下、かぶりついて嚥下――というテンポで食べ進めている。黙って食べれば五秒もかからずに一つのハンバーガーを食べ終えてしまうに違いない。
――化け物か。
入部してから、約二年程の付き合いになるのだけれど……これほどの大食い、早食いだったとは、今の今まで知らなかった。
僕だけだろうか。
僕だけが、知らなかったのだろうか。
――いや、そんなことはないだろう。この峰岸秀典という男、外向的で気さくなくせに、どこか近寄りがたいオーラを発散している部分がある。一定のラインから内側には決して立ち入らせないような、無言の圧迫。そう――そうなのだ。休み時間、いつもどこでも多くの友人に囲まれているくせ、昼休みだけは好んで一人、中庭のベンチで昼食を摂っていたりする。近付いてくる人間を拒絶したりはいないけど、自分から皆と昼食を共にしようとはしない。その話を聞いた時は、完璧超人に見えて、けっこう暗い部分があるんだな――なんて親近感を覚えたりもしたのだけど……。案外、自らの健啖ぶりを指摘されるのが嫌で、そういう態度をとっていたのかもしれない。別に、どうでもいいけど。
ハンバーガーを、チーズバーガーを、ベーコンレタスバーガーを、ポテトを、むしゃむしゃむしゃむしゃ食い尽くしながら、峰岸は事もなげに本題に入っていく。議題は案の定、昨日の朝に発見された『遺書』についてだ。
事情が変わった――と奴は宣う。何が変わったと言うのだろう。首謀者である僕自身が何も変わっていないと言うのに。好きな娘と相合い傘で帰って、何だか微妙な気分になっただけで、良くも悪くもならず、いつもと同じように、怯えて厭って悔いて逃げて、負のスパイラルから逃れられずにいるというのに……何が変わったというのか。
「いや、『事情が変わった』って言うのは、俺の中の話でね」
僕の心中を察したのか、そんな台詞を吐く峰岸。察するな。気持ち悪い。ここで峰岸にまで僕の正体を看破されようものなら――僕はどうしたらいいか分からない。僕の演技を見抜き、見透かした辻岡――僕は奴を殺そうとしているんだぞ。それにプラスして峰岸まで敵に回ってしまうとなると、だいぶ分が悪い。正直勘弁してほしい。
「だから、それは何なのさー。僕エスパーじゃないからさ、ちゃんと言ってくれないと分かんないってば」
「うん……昨日はさ、『分からない』って言ったじゃない。あの『遺書』には不自然な部分が多すぎる。作為的なのは目に見えてるんだけど、それが何を意図してるモノなのかが『分からない』って――」
「うん、確かにそう言ってたね。それが?」
何か嫌な予感がして、知らず急かせるような口調になってしまう。
「それが、分かったかもしれないんだ」
ハンバーガーを頬張ったまま、峰岸は器用に言葉を紡いでいく。そんなふざけた態度で吐かれた台詞が、僕をどれだけ追い詰めるかも知らずに。
「遺書としては不自然な部分が多すぎる。じゃあ何なんだろう。例えばさ――昨日も言った通り、あれが『狂言自殺のための布石』だとしたら、どうか。現状はあまりにも辛すぎる。自分一人ではどうしようもない。誰かに助けを求めたいけど、それもできない。そういったうえでの、あまりにも不器用なSOS――だったならよかったんだけど……それでも、やっぱり状況は変わらない。情報がないことには、書き手を特定できない。どこかの誰かが助けを求めていたとして、これじゃあ助けるべき人間を探すことすらできやしない。それじゃ意味がない。ヒントすらないんだからね。暗号になってるのかとも思ったけど、どうやらそうでもないみたいだ。だとしたら、これは何なのか――」
「だから、本物の遺書だって――」
「取り敢えず俺の話を聞いて?」
ニッコリと柔和な笑みを浮かべながら、有無を言わせない圧迫をかけてくる。圧迫面接ですか。たまにこういう態度をとるから――この男は油断がならないんだ。
「あまり考えたくないことだけど――もし仮に、今、誰かが死んだとしたら、どうだろう? みんな、どんな反応をとるかな?」
「……え、それは……」
こういう肝心な時にアドリブが効かないから僕は駄目なんだろう。今、物凄く大切なところに差し掛かっているというのに。
「睡眠薬の大量摂取、手首を切る、飛び降り、飛び込み、入水、焼身――いずれにせよ、あの文書を目にした人間なら――自殺した、と思うんじゃないかな。その人物は前々から死のうと思っていた、そのために遺書をこしらえたのだけど、肝心なそれを体育器具庫に落としてしまった。新しいソレを用意する気力もなく、その人物は実行に移してしまった――辻褄は合う」
「……実際は違うみたいな言い方だね」
「あくまで仮定の話だと思って聞いてほしい。
死体が出るより先に『遺書』らしきモノが見つかっていて、自殺としか思えないような状況で誰かが死んで――だけど、もし仮にそれが自殺でないとしたなら、どうだろう?」
何個目かのハンバーガーを口に押し込みながら――そんな緊張感のない表情で、なんて話をしているのだろう。
「どうだろう――って言われても」
「自殺ではなくて、誰か別の人間が明確な意図をもって、その人物を死に至らせたとしたら――どうかな?」
「だから、そんな仮定の話を僕に振られても分からないよ」
「あの文書は、これから起きる殺人の布石かもしれない――俺は、そう考える」
「…………」
「アオヤマは――どう思う?」
「だからっ! いちいち僕に振らないでよっ! 分かんないよそんなのっ! 僕は峰岸みたいに頭良くないんだからさっ!」
思わず、強い言葉を使ってしまった。ダメだダメだダメだ。頭に上りかけた血を下げ、瞬時に頭をフル回転させて、一息ついてから、目を伏せたまま言葉を紡ぐ。とにかく、早く何か言わないと。
「……要するに、これから誰かを自殺に見せかけて殺そうとするために、先だって『遺書』だけを用意しておいたってことでしょ? 遺書を見つけた人間が、そう都合良く結びつけて考えてくれるとも思えないけど……」
「いや、それは間違いないよ。同級生が死ぬなんて、そうそうあることじゃない。それも、病気や交通事故とは違う、自殺したかのような状態で死んでいるんだ。誰だって、あの文書のことが頭をよぎるに違いない。……フフ」
真面目な論調で語っていたその矢先、態度を豹変させるように顔を綻ばせた峰岸に、僕は少し鼻白む。
「……今の流れで、どっか笑える部分があったっけ?」
「ああ、ゴメンゴメン。いや、何だかんだ言って、アオヤマに俺の話がちゃんと伝わってるのが嬉しくってさ。やっぱりアオヤマ、頭いいよね。理解力が高い。もっと自信持ったらいいのに」
刹那、こめかみの近くでブチブチと血管が切れる音を、僕は確かに聞いた。
――馬鹿にしやがって。
こんな台詞、自分が相手より優位に立っていると自覚していなければ出てこない。大層なオツムがあって、容姿も運動神経も人柄もズバ抜けていて、周りの奴らなんか虫螻にしか見えないに決まっているこの男の言葉は、いちいち僕の神経をささくれ立たせる。
僕は怒りで震えそうになる声を必死で抑え、何でもないかのように本題に戻る。
「――だ、だけど、『遺書』のことを知ってるのは僕たち二人と、渡辺だけじゃないか。自殺を疑うも何も、この三人しか知らないんじゃ――」
「充分なんだよ、それで」
新しいハンバーガーの包みを解きながら、どこまでもフラットな口調で、峰岸は続ける。
「死ぬのは、バスケ部員なんだからね」
息が、止まるかと思った。
「男子か女子か……まあ、八・二で男子かな。狙われているのは、男子バスケ部員か――少なくとも、それに関わる人間だろうね」
何で、何で、何で――
「何で、そんなことが分かるんだよ」
「今アオヤマが言った通りだよ。例え自殺に見せかけて殺したところで、『遺書』と結びつけてくれないんじゃ――意味がないとまでは言わないけど――自殺だという根拠が薄くなってしまう。遺書は、ちゃんと影響があるであろう人間に認知してもらわなければならない。
逆に考えるんだ。結果から、考えるんだ。今回のことを考えた人間は、かなり周到に計算して、事にあたっている。人間なんて身勝手で気まぐれで、とても計算通りに動くような代物ではないけど――それでも、この現状は犯人の想定した『結果』だと考えていいと思う」
「つまり、敢えて渡辺に――んや、バスケ部の人間に発見させたってこと?」
「そう。ここ最近、室内競技の部活で朝練までをやってるのはバスケ部くらいだ。あの封筒は器具庫の目に付きやすい場所に落とされていた。まるで見つけてくれと言わんばかりにね。犯人はバスケ部の人間にあの文書を読ませたかったんだよ。そして、認識してほしかったんだ。『どこの誰か分からないけど、とにかく自殺を考えている人間がいるようだ』と――」
「んで、誰かの死体が発見されて初めて、あの『遺書』が効果的に働くって仕掛けか。『今まで黙ってたけど、前に遺書らしきモノを見つけてたんだ』って、渡辺あたりが口を割って、部員全員に自殺だって認識されて。最終的には、学校にも、警察にも、世間にも、その『死』は自殺として処理される、と……」
「そういうことだね」
調子を合わせて物わかりのいいところを見せるも、峰岸は相変わらずのペースでハンバーガーを処理し続けている。苦しそうな様子は微塵も見せない。
苦しいのは、僕だけか。
峰岸の話が核心に触れてから、鼓動がうるさくて仕方がない。膝も震えるし、掌など汗でビッショリだ。せめて表情には出すまいと気を付けているのだけれど。
ただ、内容はともかく、口を動かしているだけでだいぶ気は紛れる。要は慣れなんだろう。慣れは大切です。刺激も苦痛も緊張も、持続すれば麻痺して感じなくなる。あとは、集中力が途切れないようにするだけ。問題は、ない。
「だけどさ――それって、意味あるのかな?」
「ん? どういうこと?」
慣れにまかせて、自分から話を広げてみる。ここまで来たら後戻りなどできない。毒を喰らわば皿までだ。この男がどこまで分かっているのか、探ってみようじゃないの。
「そんな面倒なことしなくても、死体のそばに『遺書』置いておけば済む話なんじゃないの? こんな、予告状みたいな形で一部の人間を警戒させるより、よっぽどリスクが少ないと思うんだけど」
「確かにね。普通ならそうする。俺だってそうする。だけど――これはこれで、メリットがあるんだよ」
「……と言うと?」
「だからさ……例えば睡眠薬を飲ませて殺すとするよね。その場合、枕元とか、机の上とかに遺書を置かなければならない。それも、事を為す前後にね。自殺現場に遺書を置いておくってことは、目的の人物を殺める、その時、その場所に自分がいなければならないってことを意味してるんだ」
「推理小説でいうところの、アリバイってやつ?」
「それもあるね。だけど、それは大して重要ではないと思うよ。周囲に自殺だと思わせるのなら、アリバイの元となる死亡推定時刻自体、重視されないかもしれないし」
「じゃあ、何さ」
「犯人はきっと、現場に近付きもせずに、目的を達しようとしているんだと思う」
「――遠隔殺人ってこと?」
「そうそう。電話を使って行動を誘導したり、或いは無関係の第三者を言葉巧みに操って、結果的に目的の人物が死ぬように仕向けたり――実際に成功させるのは難しいだろうけど、もし成功したなら、自分が疑われる危険性は確実に低くなる。被害者が死んだその時、その場所にいなかったんだからね。ただ、偽造した遺書を置いておくことはできない。……いや、それすら、策を弄すればできるんだろうけど、だったら確実な手を打った方が無難だ。計画を実行する何日か前にわざと偽の遺書を発見させ、バスケ部の人間に『誰かが自殺を考えている』と誤認させ、誰が遺書の書き手なのか、その追及が進む前に、どうにかして目的の人物を死に至らせる。どう見ても自殺にしか見えない状況を、数日前に発見された遺書が補強する――って訳」
ダウト。
僕はそこまで手の込んだことを考えていない。そりゃ、ちょっとは考えたけど――到底、実現不可能に思えて、一〇分で却下した。僕にはそこまで巧妙なことはできない。計画はもっとシンプルなモノで――と、無意識に思ってしまう自分を慌てて封じ込める。慣れるのはいいが、ここで馬脚を晒しては元の子もない。『そこまで考えてないよ』なんて言葉に出すのは論外だが、そう思っていることを表情に出してもいけない。この男はいとも簡単にこちらの思考をトレースしてくるだろうし……そうなったら、それこそ墓穴だ。
「もう一つ、可能性がある。トリックに利用するとかそんな難しいことを考えてるんじゃなくて――何か、全く別の計画に利用しようとしている、とかね。誰か自殺しそうな人間がいる――心配だ――誰がその人物なのか、探ってみよう。悩んでそうな人間がいるから、近くにいてあげよう――本来は、探ること、或いは対象に近付くこと自体が目的で、遺書はその大義名分を得るための材料だった、とか」
動揺してはいけない。
動揺してはいけない。
動揺してはいけない。
今聞いた台詞は、即刻頭の中で削除するんだ。
何も聞かなかったことにするんだ。
落ち着け。落ち着け。落ち着け。
「――そんなに、うまくいくかな」
よかった。声は震えていない。
「それは分からない。何がどう転ぶかなんて、誰にも分からないさ。今言った俺の話だって、根拠なんか何もない、完全な推測だからね」
次に言うべき反論の芽を早々に摘み取られる。
「だけど――もしその推測が的中したとしたら――それは、絶対に阻止しないといけない」
ここに来て初めて、いつも穏やかな峰岸の目に強い光が灯る。
「俺は、誰を死なすつもりもない。できることなら――助けたい」
真っ直ぐに、あまりにも真っ直ぐに、僕の目を捉える。
「被害者も――そして犯人も」
曇りのない瞳で、真摯な言葉で、優しい声音で、彼はそう告げる。
何様のつもりなんだろう。
頭はいい。
発想がズバ抜けているし、思考は常に論理的だし、記憶力はいいし、物事のメカニズムを解き明かす能力に秀でている。それは認める。
だけど、それだけだ。
コイツには僕の気持ちなど分からない。
僕のことなど、救える訳がない。
未来永劫絶対に無理だ。
人に怯え、周囲を罵り、世間を厭い、世界を呪って、現実から逃れているだけの最下層のクズのことなんて――僕のことなんて――理解できる筈がない。お願いだから、犯人を救うなんて、そんな思ってもいないことを口にしないでほしい。
「ふう、ごちそうさまでした。全く、空腹って言うのは人を駄目にするよね。やっと人心地ついた」
人が鬱々しているというのに、この男は呑気に山盛りハンバーガーを完食してやがった。まるで苦しそうでもなく、満足気にナプキンで口元のデミグラスソースを拭っている。もう、大食い選手権にでも出たらいいよ。
「……どうするつもりなの?」
「ン? 何が?」
『何が』じゃねえよ分かってンだろうがこの野郎。
「だからさ……ヒデが今回のことをどう考えてるのかは分かったよ。実際どうなのかは別として……一応の筋は通っていると思う。もちろん、僕は今でもアレは本物の『遺書』だと思ってるけど……まあ僕の考えはともかく――ヒデはあの『遺書』がニセモノで、殺人の布石で、被害者候補となる人間と、全てを画策する犯人がいると考えている――そういうことだよね?」
「そうだね」
「んで、できるならそれらを阻止したい、と――それは分かるけど、具体的にどうするつもりなの? 僕や渡辺を仲間に引き込んだって、やれることは限られてるし……そもそも、何をすればいいのやら……」
「あ、ちょっと待って」
真面目な顔をして頷いていた峰岸、僕の話がそこに至るや否や、再び表情を緩めて――
「実はさ、この話……渡辺にはしてないんだ」
……は?
「今の俺の話、人に話したのは、アオヤマが初めてなんだ」
無邪気な顔をして、そんなことを言う。
「……ナンデ」
喉の粘膜が張り付いて、うまく発声できない。慌ててコーラを啜り、軽くムセる。
「……腹を割って話すと、こういう核心に触れる話っていうのは、少ない人間で考えた方が、往々にしていい結果を残すことが多いんだよね。事態を混乱させるだけだし」
いやいやいやいやいや、僕なんて、事態を混乱させる最右翼だし。まあもちろんそんなこと峰岸の知るところではないのだろうだけれども。
「……でも、何で僕なの。渡辺じゃなくて」
「ワタナベはいい奴だしリーダーシップもあるけど――論理的思考とか、状況判断能力に関しては、アオヤマの方が上だと思う」
「辻岡は?」
「アイツは周りのことに関心がない。人は人、自分は自分って割り切っているタイプだ」
峰岸は人物観察眼もなかなかのようだった。渡辺にせよ辻岡にせよ、その評価はほとんど当たっている。――だからって、
「なんで、僕なの」
「さあて……何でだろうネ」
いつもの穏和な笑みで、人の質問をあっさり受け流そうとしている。
「いや、『何でだろうネ』じゃなくて、ちゃんと――」
しつこく追及しようとして、僕は口を噤んだ。
咄嗟に感じる違和感。
数瞬後、その違和感の正体に気が付き――僕は戦慄した。
峰岸の浮かべる笑みの向こう、目の奥が――
全く、笑っていなかった。
柔和などではない、穏和などではない、こちらを観察するような目に晒されて――僕は総毛立つ。
――見るな。
見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな見るな。
そんな目で、僕を――
「俺は、救いたいんだ」
峰岸の声が、ひどく遠いところから聞こえる。
躰が震える。
吐息が熱い。
脂汗が滲む。
頭が、痛い。
「色々偉そうに理屈こねちゃったけど……結局、分からないことだらけなんだけどね。犯人の目的がどこにあるのか、何に絶望しているのか――何を、厭っているのか。まるで分からない。もしかしたら、僕なんかには理解できっこないと思っているのかもしれない。だとしたら、淋しい話だよね」
コイツ――気付いている。
気付いている。
見抜いている。
見通している。
見越している。
見透かしている。
「証拠なんてない。根拠なんてない。そもそも、まだ何も起きてすらいない。だけど、それは必ず起きる」
奴の目の奥で揺れる、静かな炎。
焼き殺される。
道化た表層を焦がされ、醜い本性を外界に晒されて――無様に、あまりにも無様に――僕は、終わる。
終わってしまう。
終わる。
――違う。
ダメだ。
落ち着け。
落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着け落ち着けおちつけおちつけオチツケオチツケオチツケオチツ
ケ――――――――――落ち着け。
「でもさ……」
声が震えないように、内心を――驚愕とか焦燥とか不安とか恐怖とかすでに定着し沈着し始めているマイナスカオスな感情を表に出さないようにして、僕はそれでも言葉を紡ぐ。
「証拠も根拠もないんだったら、それはやっぱり仮説で推測で、『絶対に起きる』なんて言い切れない筈だよね?」
あくまで、峰岸の意見に対峙する――ポーズをとる。それはあくまでポーズであって、内心の動揺なんて峰岸には全てお見通しなんだろうけど、それでも、
「説得力はあるけどね。僕も調子に乗って調子合わせたりしたけど……やっぱり、僕の考えは変わらないよ」
「アオヤマの――考えって?」
「全部全部、ヒデの考えすぎだってこと。
殺人なんて起こらない。
犯人なんていない。
救うべき人間なんて、いない。
僕は――そう思う」
目を真っ直ぐに見つめ返し、僕は堂々と嘘を吐く。余裕を見せるかのように、目の前の冷えたハンバーガーにかぶりつく。まるで味がしない。紙を食べてるみたいだ。
「……そう。まあ、俺は自分の話を聞いてもらいたかっただけだから。別に構わないよ」
そう言い、峰岸はニッコリと、柔らかく笑う。すでに目の奥の炎は消えていた。蔑むでもなく、失望するでもなく、どこまでもフラットな態度で、僕と対峙している。
「ま、それはそれとして、誰かが死ぬかもしれない、ってのは本当だから。渡辺と二人で頑張ってよ。僕は何の力にもなれないけどさ」
「いや、もうこの件は俺に一任されてるんだ。頑張るのは――って言い方も語弊があるけど――俺一人だよ」
「あ、そうなんだ」
人を巻きこんでおいて、自分はさっさと自主退場か。前回の橘の時もそうだったよな……? まあ、別にいいけど。
「話はそれだけ? だったら帰るけど」
「……そうだね。そろそろ晩飯の時間だし。あまり遅くなると、姉さんに怒られちゃうな」
ほう。この上、さらに夕食まで完食ですか。それだけ食べて太らないってどういうメカニズムだ。物の怪の類か、この男。
「ゴメンねー、なんか、大して力にもなれなくて」
「いやあ、楽しかったよ。これからもよろしくね」
最後の台詞は聞こえないふりをして、僕は席を立った。震える脚で階段を降りるのは、ひどく辛かった。
不思議なことに、晴れているのに月は見えなかった。