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第二章 the second moon 7

 どうしよう。

 どうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしようどうしよう――

 どうしよう。


 僕はひどく焦っていた。

 うまくやっていたと思っていたのに。誰にも自分の本質を悟られず、醜い内面を晒すことなく、平穏に平凡に平坦に平均に――そう、生きていくと決めていたのに。

 バレてしまった。

 見透かされて、しまった。

 考えるだけで鼓動が激しくなる。

 怖い。

 恐ろしい。

 恥ずかしい。

 僕は怖いです。

 生きてるだけで恥ずかしいです。 

 全て消えてしまえばいいって、いつも思ってます。

 だけどそんなことは考えない。考えたって何も変わらない。考えなくて――いい。思考は行動を鈍らせる。迷いは焦りに繋がる。余計なことなど、考えてはいけない。思考停止は得意です。

 だけど――やはり、辻岡の存在は許せない。

 僕の本性を知っている人間が、この世にいていい筈がない。

 どうにかするべきだろう。


 あの男。


 辻岡。


 辻岡慎哉。


 あいつはどうにかしないといけない。

 昨夜はほとんど寝ていない。もちろん、不安と恐怖と焦燥と羞恥と憤怒で神経が昂ぶって眠れないというのもあるけど――それ以前に――僕にはやらなければいけないことがあった。

 心の安寧を得るため。

 平静な精神で日々を過ごすため。

 世界と――繋がるため。






























 殺す。

















 殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す殺す。

 殺さなければいけない。

 消さなくてはいけない。

 抹殺しなくてはいけない。

 僕は机にかじりつき、一晩かかって一つの計画を立ち上げた。……いや、計画なんて大層なものでもない。下手に凝ったモノを練り上げたところでうまくいく筈がない。ここはごくシンプルに――そう、奴は電車通学だから、隙をついてホームから突き落とすとか、そんな単純なモノで構わない。後は、如何にそれを自然に見せかけるか、であって。

 いずれにせよ、やるべきことは決まった。

 あとは行動に移すだけだ。

 とりあえず――


「あ・お・や・ま・クンッ!」

「――――ッッ!」

 俯いて廊下を歩いていた僕を呼び止める声。心臓が止まりそうになる。背後から声をかけられるのは苦手だと言っているのに、わざとやっているのか……。うんざりして振り向く間もなく、

「ちょっと来てねー」

 凄い勢いで襟首を掴まれた。

「ちょ、ちょ……いきなり何事だよお!」

「いいから来てねー」

 反論する間も与えず、ズルズルと廊下を引き摺られていく。必死で首を回して、僕を拉致しようとする人物を確認する。栗色のツインテール――ただでさえ色素足りてないくせに、今日はまた一段と顔色が悪い。それなのに、表情だけは柔和な笑顔。あの、怖いんですが。

「ひ、姫……?」

 ごんっ。

「姫はやめて、って何度言ったら分かるのかなー?」

 ニコニコ。

 廊下の突き当たり、柱の陰になっている場所に押し付けられる。勢い余って後頭部をしたたか打ち付けた。星が見えます。笑顔で乱暴しないで。怖いから。

「青山クンさ……どういうつもりかなー?」

 星の向こうに、あずさの顔が見える。目に光彩がない。

「え、ちょ……何? ごめん、話が見えない。頭悪い僕にも分かるように、説明してくれるかな。――あと、落ち着こうか」

「末永クンのこと。あたしに何て言ったか覚えてる? 一年の町田梢のことが好きみたいだって、そう言ったんだよねぇ……。それが理由であたしと別れたんだって、そう言ったんだよねぇ……」

 ああ、その話ですか。ヤな予感がするなあ。

「その話を信用したのに……そしたら何? アイツ、全然別の女と付き合い始めたって、そう聞いたんだよねぇ。六組の長原(ながはら)千早(ちはや)ってコ、知ってる? 町田梢とは全然違う、キレイ系の女のコ」

 知らない。興味ない。ってか、あの男、もう新しい彼女作ったのか……。もうちょっとほとぼり冷めるの待とうよ。迷惑な。

「へ、へえ……そうなんだ」

「他人事みたいに言わないでねー?」

 他人事ですけど。


「何で――嘘を、吐いたのかな?」


 口元だけで笑っている。怖い。僕を壁に押し付け、ギリギリと襟を締め上げながら詰問してくる。バタ臭い顔して物凄い力。

 面倒くさいなあ。

 正直言って、末永と橘のことは、もう僕の中では終わった話なんだよ。用済みの人間に興味覚えるほど暇じゃないし。必死なのは勝手だけど、お願いだから僕を巻きこまないでほしい。

「嘘? いやちょっと、人聞き悪いなぁ。僕は何も嘘なんか――」

 ごんっ。

 襟を前後に振って、壁に頭を打ちつけられる。また星。

「――どの口が、そういう適当なことを言うのかな?」

「いや、あの、あのね、僕は別に嘘を言った訳ではなくて」

 ごんっ。

「言い訳とかいいから」

「痛――って、いやそうじゃなくて」

 ごんっ。

「あの、ちょっと――」

 ごんっ。

 ごんっ。

 ごんっ。

 目の前が銀河系です。てか本気で逝くから。死ぬから。

「ちょ――ちょっとは僕の話を聞こうよっ! 本気で危ないから、一旦離してっ!」

 力を込めて、襟を掴む橘の手をほどく。……全く、瘤だらけになったじゃないか。

「……何よ」

 怪訝な顔で僕の目をじぃっと覗き込んでくる。

 目の奥には漆黒の闇。

 まともに見つめ返そうものなら、いとも簡単にその闇に取り込まれてしまいそうだ。

「僕は嘘なんか言ってない。末永が梢ちゃんを狙ってるってのは、あくまで不確かな情報だって、僕そう言わなかったっけ?」

「それは……そうだったかもしれないけど」

 記憶を探るように、橘の目が泳ぐ。

「だいたいさ……あんまりこういうことは言いたくないけど、末永って、かなり気まぐれなところ、あるじゃない? 気が多い男だし、梢ちゃんから、その長原って人に興味が移ったとしても、おかしい話ではないよ」

「……それは……まあ……」

「だいたい、姫は何をそんなに――」

 ごんっ。

「次はないわよー」

「……橘は、何をそんなに怒ってるのさ? 末永の狙いが梢ちゃんじゃなかったからって、何なの? 相手が誰でも変わらなくない?」

 うんざりとした顔で、僕はそんなことを言う。

「いや……まあ、そうなんだけど……」

 言葉に詰まる橘。そうだよね。言える訳ないよね。嫉妬に狂って、女バスの友達けしかけて、梢をいじめるように仕向けたなんて、言える訳がない。

 でも大丈夫。

 興味ないし。

 勝手にしたらいいよ。

「――そういえば、梢ちゃんで思い出したけど……最近、変な噂が流れてるんだよね」

 でもついでだから、新たな情報を流しておく。まだ方向性は定まってないけど、根回しといて損はないでしょう。

「もちろん、これも不確かな話だから――ってか単なる噂だから、あまり真に受けてほしくはないんだけど……」

「……何?」

 目を泳がせながら、適当な相槌を打つ橘。怖いだけだった笑顔は、すっかり消えてしまっている。動揺している。自分の早とちりで、一人の少女をいたずらに傷つけたと、今さら気付いたらしい。

 心配しなくていいよ。

 もう手遅れだから。

 それより、新しい段階に進みたいから、今は僕の話を聞いてね。

「南校舎の屋上――基本的に立ち入り禁止になってる場所だけど――最近、誰かが出入りしてるみたいなんだよね」

「……屋上?」

「そう。放課後の、部活も終わった後らしいんだけど、動く人影を見た――って話を聞いたんだ」

「そんなところで何してんのよ」

「僕に聞かれても分からないよ。でも……ひょっとしたら、死のうとしていたのかも」

「ハァ?」

「推測だよ? あくまで想像の話。……でも、屋上ですることなんて、そのくらいしか思いつかないし……。自殺しようとして、でもやっぱりふんぎりがつかなくて、ウロウロしてるところを見られちゃったのかも――って、それも僕の想像だけど」

 南校舎の屋上に何者かが出入りしてる、ってのは事実。まあ辻岡のことなんだけど。後半の台詞も、まあ別に嘘を言っている訳ではない。推測は推測で、想像は想像だ。何を言っても嘘にはならない。『本当のことを言わない』のと『嘘』がイコールで結びつかないといういい例だね。

「……何が言いたいのよ」

「んや? 別に、そういう噂が流れてる、ってだけだけど? 橘、こういう話興味あるかと思って」

 真剣な顔をしてはいけない。かと言って、ヘラヘラしてもいけない。目を逸らしてはいけない。かと言って、真っ直ぐに視線を合わせるのも良くない。心理誘導は、あくまでニュートラルな態度で行うべし。

 直前に『梢ちゃんで思い出したんだけど……』なんて、あからさまなミスリードをしておいて、自分でその台詞をなかったかのような顔をして。

 橘がどういう結論を出すか。

 まあ、足りない頭でせいぜい考えることだね。

 財産、権力、地位、容姿、愛情――

 生まれた時から何もかもを手に入れていて。

 それなのにまだまだ足りなくて。

 満たされているがうえに虚しくて、不安で空っぽで、加速度的に貪欲になって。

 自分の行為も省みなくて。

 人の不幸を鑑みもしなくて。

 罪に報いなさい。

 ……まあ、僕の知ったこっちゃないけど。

 


 放課後、ほんの少し動きがあった。

 夏の大会を間近に控えたバスケ部はそれなりに活気に満ちていて。ウチの部は今までそれなりの実績を重ねた『強豪』なんて呼ばれる歴史あるチームで、特に今期は才能ある選手が揃っている。渡辺に峰岸、辻岡、末永――どいつもこいつも一癖ある連中だけど、確かにバスケはうまいもの。それだけは認めざるを得ない。勢いに乗れば全国も充分に手が届く。……正直、僕にはそれすら興味ないのだけれども。

 あ、ちなみに女バスは全然ダメだから。キャプテンの椎名は頑張ってるけど、あとは所詮お遊びの延長でしかないもの。まあ、自分たちでチームワーク乱して、挙げ句の果てにそれで練習に身が入らないてんだから、呆れた話ではあるんだけどね。


 僕は真面目だから、仕事はちゃんとする。皆の邪魔になってはいけないし――僕の異変を気取られてはならない。

 辻岡と、目が合う度に。

 高慢な月の光を宿したかのような、あの目に見つめられる度に。

 鼓動が跳ね上がり、全身にじっとりと厭な汗が浮かぶ。

 見るな。

 見るな見るな見るな見るな見るな。

 これ以上僕の何を見抜こうって言うんだ。

 これ以上――何を暴こうって言うんだ。


 早く、いなくなれ。


 夏の大会が終わるまで、あと一ヶ月弱。それまでこんな状況が続くのかと思うと、限りなく気分が塞いでくる。ああ、みんな死ねばいいのに。

 まあいい。時期が来たら、ホームから突き落とすなり、道路に突き飛ばすなりして、最期にしてやる。

 せいぜい、いい気になってるがいいさ。

 

 いつも通り、やたら熱っぽい練習を終えて――それに加え、辻岡の視線に怯え続けたせいで、僕はヘトヘトに疲れ切っていた。

 片付けを適当に済ませ、そそくさと体育器具庫に向かう。一昨日の今日で同じ仕事を押し付けられているとも思わなかったけど、一応ね。案の定、彼女はそこにはおらず、僕はさっさと更衣室に向かうことにする。

「――ビックリした……」

 彼女は、そこにいた。

 通用路に繋がる裏口に、彼女は無言で立っていた。

「あ、青山センパイ……」

 僕の声に反応してか、おどおどとした態度を見せる梢。まるで悪戯をみつかった子どものようだ。

「何してるの、そんなところで」

 体育館には大きく分けて表と裏の二カ所に出入り口がある。校舎との行き来には、主として表口が使われている。もちろん裏口からも校舎に行くことはできるのだけど、遠回りになる上、両側をコンクリの壁に挟まれているため、薄暗く、トイレや更衣室に向かう以外の用途で利用する生徒は少ない。

「いえ、別に……ちょっと、ぼおっとしてました――」

 言葉とは裏腹に、その視線は絶えず虚空を彷徨っている。

「あ、じゃあわたし――着替えてきますんで――」

 そう言い、そそくさと裏口から出て行ってしまう。更衣室で着替えるだけだったら、そのうち戻ってくるのだろうけど――今日は勇気を出して、一緒に帰ろうかと誘うつもりだったのに――と言うか、それもどうだろう。一昨日、計算した台詞で、芝居がかった態度で、彼女の支えになると、痛みを共感すると宣言した僕ではあるのだけれど……かと言って、一緒に帰る口実がない。ううん、どうするべきか。

 などと思案に耽りながら、体育館シューズから上履きに履き替える僕。すでに人気(ひとけ)は全くなくなっている。僕も制服に着替えて、帰るとしよう。更衣室は突き当たりにある。その途中、向かって右側にはトイレがあるのだけど――

 ふと、足が止まった。

 すすり泣きが、聞こえる。 

 女子トイレ。

 もちろん、その隣には男子トイレも併設されているのだけど、その声は確かに女子トイレの方から聞こえてきて。そしてその声は、僕が想っている人物のものに相違なくて。

「――こ、こず――」

「……青山君!?」

 僕の呼びかけを遮る意外な人物。長身で、黒い長髪を後ろでざっくりと結んでいて、美形なのに加え、ずいぶんと男前な印象で、この界隈ではバスケットのユニホームが似合うナンバーワンだろうなぁと思わせる人物――女バスキャプテン・椎名香織。

「こんなところで何やってンの?」

「……いや、帰る途中だけど」 

 そして、あわよくば意中の人と下校を共にしようとしていましたけれども。

「……って言うか……何事?」

 女子トイレから出てきた椎名は、すでに制服へと着替えを済ましていて――別段、そのこと自体は何も不自然ではないのだけど――彼女が肩を貸し、一緒にトイレから出てきた人間に、僕の目は釘付けになってしまった。

 町田梢はずぶ濡れになっていた。

 椎名と違い、彼女はまだ部活の練習着のままなのだけど、その袖口から、水滴がポタポタと滴り落ちている。精神的ショックによるためか顔色は蒼白で、椎名に抱きかかえられたまま、幼女のようにぐずぐず泣き続けている。全身を細かく震わせているのは、決して寒さのせいなんかではないんだろう。ほんの少し力を加えただけで、いとも簡単に壊れてしまいそうだ。……何だか、ひどく痛々しい。

「……水、かけられたみたいなんだよね」

 押し殺した声で、椎名が状況説明を始める。

「個室に入ってる時に、上の隙間からバケツか何かで水かけられたんだって。私が更衣室から出て来た時には誰もいなかったけど……何でこんなことするんだろう。訳わかんない」

 椎名の声はあくまで静かで、落ち着いていて、

「……大丈夫?」

 予想外の展開につまらないことしか言えない僕。

「これが大丈夫なように見える? 水、かけられたんだよ?」

 彼女の声が、普段のそれより幾分低くなっているのが気に掛かる。きっと、必死で怒りを抑えているんだろう。彼女は、一年生の中でも技術・体力共に圧倒的に劣っている梢を、特に目をかけている。『甘い』と言ってもいい。そんな彼女が理不尽な目に遭っているのだ。怒りを覚えない方が不自然だろう。

 だけど、彼女は知らないんだ。

 数日前から、梢が三年女子に陰湿なイジメに遭っていたことを。

 もちろん、それは彼女らが椎名の目につかない所で行動していたからで、そのことで椎名を責めるのは少々酷というものなのだろうけど。

 だけど。

 僕は知っている。

 梢がイジメに遭っていることも、彼女がそれで苦しんでいることも、イジメの主犯格となっているグループのことも、彼女らの行動の元になった、橘と末永のアレコレについても――それを利用して今の現状を築いたのは僕自身なのだけど――とにかく、全て知っている。

 本来ならば。

 今梢の横にいるべきは僕の筈なのに。

 梢と痛みを共感し、梢を支え、梢を救うと――そう、宣言した筈なのに。

 今彼女を支えているのは僕ではなく、椎名だ。

 曲がったことにまっすぐ怒りを示し、常に正しい方向に持っていこうとする――その一方で、善良すぎて人の悪意に疎い面があり、いつも肝心なところで根本の解決には至らない――椎名香織とは、そういう存在だ。

 彼女に梢は救えない。

 梢の横にいる権利は、彼女にはない。

 何故だろう。

 なんでだろう。

 梢が決定的なダメージを受けた時、傷ついた時、助けを必要とした時――横にいるのは、僕に決まっていた筈なのに。

「うぅ……ぐず、椎名センパイ……うぅ、スミマセン……」

「何で謝るの。梢は悪くないでしょう? ……歩ける? 一緒に保健室行こう。ね? そこで着替えよ?」

「……で、でもまだ片付けがっ」

 着替えに行ったのだから、全て仕事は終わったのかと思ってたけど、まだ何かやり忘れたことがあったらしい。

「そんなことしてる場合じゃないでしょう!」

 この期に及んでまだそんなことを言う梢を、椎名が叱りつける。「……そんなのいいから。……どこまで真面目なのよ、アンタは……。真っ直ぐなのはいいけど――ちょっとはズル賢くならないと、損するだけだよ」

 なるほど、それは僕もそうだと思う。正論だ。だけどね椎名――それは自分自身に言うべき台詞じゃないのかな? 何も知らない癖に、何も出来ない癖に――これ以上、出しゃばらないで頂戴。

「ねぇ、青山君」

 不意に、声をかけられる。透明人間の如き傍観者に成り下がっていた僕は、それだけのことでひどく狼狽してしまう。

「……な、何?」

「梢にこんな悪ふざけをする人間――誰か心当たり、ある?」

「……さあ……?」

 全力ですっとぼけたり。

「そう。まさか女バスは関係ないと思うけど……」

 そのまさかだよ。東条と高木だよ。お前のチームメイトだよ馬鹿野郎。

「誰か思い当たる人間がいたら、すぐに教えてね」

 どこまで頼りにしているのやら、あまり期待のこもってない声で彼女はそう告げる。


「――私、絶対に許さないから」


 嗚呼。

 嗚呼。

 何故彼女はこれほどに……真っ当な、真っ直ぐな、正しい目をして怒りを顕わにできるのだろう。確かに彼女は善良で鈍感で、おまけに無力な存在ではあったのだけど……何だか、とても羨ましい。

「じゃあ、私たちこれから保健室行かないといけないから――」

「あ、ああ……」

 中腰で梢に肩を貸したまま、彼女は薄暗い通用路へと向かう。


「…………」

 

 すれ違い様、梢が初めてこちらに顔を向けた。救済を求めるでもなく、糾弾するでもなく――ただ、ひどく怯えている。もう限界なのかもしれない。

 

 遠ざかる二人の背中を眺めながら、僕は一人思案に暮れていた。ぼんやりしている場合ではない。早く行動を起こさないといけないみたいだ。一昨日の一件で満足しているようでは駄目だ。もっと梢との距離を縮めるイベントを演出しなくては。そのためには、もっともっともっともっともっともっともっともっと梢にダメージを与える必要があるだろう。もっと打ちひしがれて、もっと絶望して――そこに救いの手を差し伸べることができたなら、もう僕以外の人間など目に入らないに違いない。忙しくなりそうだ。

 さっさと着替えて、帰るとしよう。トイレで用を足した後、僕は男子更衣室の扉を開けて、自分のロッカーへと向かった。この時間になると、更衣室には誰もいなくなっている。


 ――あれ?


 何か――何か、ひどい違和感があったような気がしたけど……何だったっけ? 自分の考えに夢中で忘れてしまった。まぁいいや。大事なことなら、そのうち思い出すだろうし。――今は、それよりもっと大事なことがある。僕の脳はフル回転を始めていた。

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