20XX年 3月17日 午後10:00 日本・成杯市
夜風がビルの間を勢いよく吹き抜けてゆく。それを受けて、ガラス張りの窓はガタガタと音を立てて震え、金属製の看板はその接合部分を少しだけキイと軋ませた。
それほど強い風だったというのに……何事もなかったかのように街は機能している。千年ほど時を遡れば、今の突風だけで事故が起きていても全くおかしくはないだろう。人が為した文明の発展は、人々の危機意識を少なからず鈍らせている。自分のいる場所は科学に守られている、だから絶対に安全なのだ――そういった油断が、街中に……規模を広げて言うのであれば世界中に蔓延しているためだ。
だから、忍び寄ってくる危機が自分の肩を掴むまで――果てはその危機によって取り返しのつかない損害を被るまで――人々はその存在に気づかない。危機を察知する才能を自ら封印し退化させた今の人類は、今もなお狩られる側に立つ可能性があることまでをも忘れてしまっているからだ。
『相互確証破壊』という言葉がある。力を持つ者が互いに争えば、甚大な被害が双方に生まれることになる。だから膠着状態を保つというのが古来から生物に受け継がれてきた暗黙の規則なのだ。だが――それは矛を持つ者同士、盾を持つ者同士……実力が均衡している場合のみに適用される規則である。今の人類には、その均衡を保つための『心構え』が致命的に欠落してしまっている。
狩る側、狩られる側……自分の立ち位置を把握していない人々は攻撃されて初めて己が如何に呆けていたかに気づくのだ。
最も、その自覚が生まれたところで……差し向けられるのが必殺の一撃であった場合はどうしようもないのだが。
そして、ここに一人……自分は矛を持っているのだと自覚している少女がいた。
フード付きの黒いコートに身を包み、ギターケースを背負ってビルの屋上の縁に手を置いている彼女。百五十センチ強と小柄な体格ではあるが、不思議と頼りなさげな印象はない。
コード・クラウン。それが年端もいかない少女に与えられた名であり役割であり――運命である。
この称号を与えられた者は代々この稼業に適した天賦の才が有ると認められた者だけなのだ、と彼女の師であり親である青年……サーカスは彼女に語っていた。
彼女はそんな肩書きに興味はなかったが、不思議とそう語る彼の表情は鮮明に思い出すことができた。明るい笑顔の裏に陰る暗い感情。『感情のある人間は』不思議な顔をするものだ――。
「……狙撃地点に到着」
それはまるで機械が発声したかのように単調で無機質な声だった。彼女にとってそれは思わず口から漏れたなどの意味のないものではなく、未だ完全に制御することの出来ない無意識を制するための記号であり、そして自分の中にあるスイッチを入れるための暗示でもあった。
「目標地点を確認。ここから北東におよそ2キロメートル。……風は強いが問題はなし」
その瞳が映す遥か遠方……そこには、とある会社が所有しているビルがあった。その最上階――十七階の一室には、黒いスーツに身を包んだ男性がいる。
その男は田沼という。海外から武器を密輸する組織に手を貸し、それを助けることで私腹を肥やしているとの情報が、クラウンの脳裏をよぎる。
次いで、(殺されても、文句は言えないほどの悪人だ)というサーカスの言葉が思い返された。
(今更、命の選り好みか)
自分の中に蟠るものの正体から目をそらして、クラウンはギターケースのロックを外し、その中に簡単に分解して収納されていたスナイパーライフルを取り出し、組み立てる。
――自分は任務を遂行するための銃弾にすぎない。
クラウンは自らの役割をそう定めていた。誰に言われるでもなく、また何に教わるでもなく、彼女自身が辿り着いた答えであった。
道具は摩耗し、その威力はただただ衰えてゆくばかり。サーカスが初めて彼女に与えたスナイパーライフル――名前は知らないが、サーカスが昔から愛用していたものだったと彼女はそれを受け取るときに聞いた――は、彼によって彼女用に最適化され、その威力と精度を以て任務の成功に大きく貢献してきたのだが、ある時を境に――それはミリ単位での、或いは更に小さな単位での変化だったのかもしれないが――どうにも引き金の感触が馴染まなくなった。「機構自体にガタがきたんだろう」とは彼の弁で、つまりは武器としての寿命を全うしたということである。それを聞いたクラウンは、こう理解した。
「この世に在るものは、何もかも壊れてしまうものなのだ」と。
自らが壊した命も時が経てばいずれ壊れてしまうものなのだと自分を納得させることで、少女は無意識に自分の心を守っているのであった。
たった今も、組み立て終えたライフルに弾を装填しつつ「銃弾としての自分」であることを強く、強く心へと言い聞かせている。信念で心を屈服させるという、大人でも難しい「自分を律する」ことのできる彼女の心の外殻は鋼の如く強靱なのだろう。……しかし、その内はどうだろうか。年相応の生活――少女として過ごすはずであった青春時代である――を捨てた彼女の内面には、どこか致命的な矛盾がある。
「……サーカス、命令を」
短く切りそろえられた艶やかな黒髪を押さえつけるように装着されているヘッドセット。そのマイクに向かってクラウンは呼びかける。
少しの沈黙があった。その間に彼女はスコープをのぞき込んで必殺の部位に――命中した瞬間に息絶えるよう――銃身を目標に向けて構え、微調整を行う。
数秒後、彼からの返事があった。
「撃て」
「了解」
即答し、クラウンが引き金を引く。加速し、加速し、加速する――それは命を奪うためだけに存在する金属色の死神。サーカスの返答とほぼ同時に放たれた弾丸は急速に回転しつつ、音の速さで風を切り闇を裂いて飛翔した。
彼女の中には、弾丸が目標の頭を撃ち抜くビジョンがあった。放たれた弾丸の行き先は手に取るように分かる。関節を駆動させ、四肢を自在に動かすが如く……弾丸は自分そのものなのだから操ることなど造作もない――。
血をしぶかせることもなく、田沼は後頭部から眉間へと貫通した弾丸によって死亡した。強化性のガラスには銃弾の直径分だけの穴が空いている。
「任務完了」
こうして、少女は無意識に自らの心を裂いて、その欠片で目標を撃ち抜く。
それが年端もいかない少女の名であり役割であり――運命であるから。