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<依頼人>
「4月15日……私は大学で仲良くなった先輩から、旅行に誘われたんです。自分の実家は日本海の小島にあるんだけど、もし良ければ皆でゴールデンウィークにでも遊びに来ないかって……」
約2週間前の記憶を辿りながら、私は目線を手元に当時のことを話していた。
「周りの友人は皆行くって云うから、私も一緒に着いて行くことにしたんです。……その日の晩からでした。毎夜、あの恐ろしい悪夢が始まったのは……」
「では、その夢の内容をできるだけ細いところまでお話して頂けますか?」
椛に促されて、私は小さく縦に頷いた。已緒と空海もこちらをじっと見つめてくる。
「最初……私は誰かと一緒に、海の見えるお庭にいるんです。辺りは夕暮れ時で、太陽は見たことがないくらい赤く大きくて……。
お庭の花壇には一面に花が咲いていました。種類は分かりませんが、青紫色の小さな花で……あっ、丁度この家のテラスにあった花と同じものだった気がします」
「ネメシアの花、か……」
ぽつりと已緒が目を閉じて呟く。ネメシア……聞いた事の無い名前の花だ。あまりポピュラーな花ではないのだろうか。もしかしたら、テラスの花は已緒が育てているのかもしれない。
「その、一緒にいた人が誰かは分かりますか?」
椛の質問に、今度は首を横に振る。誰かがいるのは確かなのだが、それが誰なのかまでは分からない。現実ならそんなはずはないのだが、何しろこれは夢の話だから……。
「場面は変わって、今度はお屋敷の中にいるんです。和風建築の結構立派な造りで、けれど夜なのか随分と薄暗い……。
周りには多分、私の大学の友人達がいました。一人一人の顔はよく分かりませんでしたが、きっと雰囲気で友人だろうと。私達は外に買い物に出かけた人達を待っていました。
かなり長い時間が経ったはずなのに、その人達は帰ってこない……。心配になって、私は一人で探しに行くんです。けれど何処にも見当たらない。仕方なくお屋敷に戻ろうとしたら、そこで……」
無意識に身体に力が入る。その時の夢の記憶が不意に鮮やかに蘇ってきて、私はそれを振り払うように強く瞼を閉じ、そのまま一気に言い放った。
「……化物が現れたんです」
「化物……? どんな奴なんだ?」
眉を潜める空海に、声が震えそうになるのをぐっと我慢しながら説明した。
「夢だからやっぱり具体的なところは曖昧なんですけど……とにかく、物凄く恐ろしい存在だったんです。本能が拒絶反応を起こすと云いますか、言葉じゃ上手く表せないんですが……」
「……何となく分かるヨ。僕にも、似たような経験があるカラ」
言葉を濁す私に、已緒が静かな声で助け船を出してくれた。いや、様子を見るに彼にその気はなかったのかもしれない。
「……それで、私は化物から逃げ出しました。薄暗い道をずっと独りで逃げて、逃げて……けれど化物の荒い息遣いはどんどん迫ってきて、左手首を強く掴まれて……!」
高ぶった感情を一旦静めて、私はいくらか落ち着きの取り戻した声で続けた。
「……そこで、私はいつも目が覚めているんです。全身に冷や汗をびっしょりかいて、左手にはじんわり痛みと痕が残っていて……」
左手首に巻かれた腕時計の下から、くっきりとした赤い痕が見え隠れしている。
「それがこの二週間で毎夜続いているんです……。
もうこれ以上は耐えられない……お願いです、どうか悪夢から私を助けて下さい……!」
一通り話を終えて気を静めようとミルクティを飲む私に、椛がいくつかの質問をしてきた。
「最初に確認しておきたいのですが、貴女は何故この事務所へ来たのですか? いくら悪夢にうなされているとはいえ、わざわざ東京からここまで……?」
「……最近、噂になっていたからです」
「噂?」
腕時計をいじりながら、私は上目遣いに答える。
「夢の内容が現実になって現れる、って……」
「七喜はそんな眉つばもんな噂、マジで信じてるわけ?」
空海の冷たい嘲笑にぞくりと寒いものを感じながらも、私はゆっくりと頷いた。
その時、自分を見ていたのが空海だけでなく已緒と椛もだったことに気付いて、私はいよいよこの場に気味の悪さを感じ出した。しかし数秒の沈黙が過ぎると、ふっと空気が軽くなった。空海の嘲笑は第一印象を覆してしまうような、柔和な微笑に変わっていた。
「そっか、悪かったな。変なこと訊いちまって」
「え? いえ、そんな……」
不意打ちの笑顔にみっともなく動揺してしまう。そんな私の心境を知って知らずか、空海は僅かに笑みを引いた。
「やっぱり、七喜みたいに信頼してくれる依頼人ばっかじゃねぇんだよ。先月の奴なんかは散々俺達の力を利用しておいて、事が過ぎれば今度は金を返せとペテン師呼ばわりだ。……おいおい、そんな顔すんなよ。別にこんなのは日常茶飯事さ。ま、夢が現実に影響するなんて信じられないってのも分かるけどよ……」
「けれど、確かに夢が現実を歪ませている現象は事実なんです。11年前、ちゃんと科学的にも立証済みなんですよ? 公での発表は混乱を招くだろう、と未だされていませんが……」
空海の言葉を引き継ぐようにして、椛が穏やかな姿勢を崩さぬまま言った。彼らの話を聞いて、私の口から思わず溜息が零れた。
「色々、苦労なさっているんですね……」
「俺や空海さんはいい方ですよ。大変なのは、已緒君達のような未成年者なんです。未だ若いのに、能力があると云うだけで半ば強制的に憶超に入らされて……そのせいで学業と両立させている状況なんですよ。こんな危険な仕事の生贄のようにされて」
「秋等さん、そんなコトは無いんだヨ?」
椛の嘆きに終止符を打ったのは、話の中心である已緒本人であった。
「憶超に入らなきゃよかったなんて思ったコトは一度も無いし、むしろ僕は秋等さんや空海さん達に会えて良かったって思ってるヨ? 勉強とも何とか両立はできてるしネ。まぁ、確かに憶超の仕事は危険なコトの方が多いケド……」
「……危険?」
たびたび彼らの会話の中に出てきた不穏な言葉に、私は思わず反応してしまった。
「あの、危険ってどういうことですか?」
私の質問に気まずげに目線を逸らす椛とは反対に、已緒は何てこともないように説明役を買って出る。
「危険って云っても種類は二つあるけどネ。一つは秋等さんみたいな、現実的問題専門の人。一般的にやる事は探偵と同じモノだから、それ相応の危険は常に伴ってる。ソレでもう一つの方が、僕や空海さんのような『能力者』にかかる危険」
「能力者……」
「千人に一人くらいの確率で見つかるんだヨ。逆に言うなら、日本には十数人いる計算になるけどネ。……アレ、その辺りの事情は知らない? てっきり秋等さんの知り合いから聞いてると思った」
「いえ、詳しいことは何も……」
「俺の方から話そう。おい秋等、2階行ってアイツの様子見てこい」
空海に促され、椛は途端に不安そうな顔になって席を立った。
アイツ……誰のことだろう。また憶超の仲間の一人なのだろうか。それにしては、已緒の顔が急に不機嫌そうになったのが気になるところだけど。
「秋等のことは気にすんな、七喜。……能力者についてだったな。簡単に云うと、そいつは他人の夢の中に入ることのできる能力だ」
「他人の、ユメ……」
「誰かの夢の世界に行きたいと願うと、俺達能力者はそれを叶えられる力があるんだよ。異常の起きてる夢に限定されるけどな」
「異常、と云うのは……?」
「俺達に依頼をしに来る人間の見るような夢だ。現実世界に悪影響を及ぼす夢にだけ、俺たちの力は発揮出来る。七喜が知ってるような噂の夢は、ごく稀にしか現れないもんなんだよ。それでも最近はその系統の夢が増えてきてるみてぇだけどな」
「そういった夢の現れ始めた原因は未だ解明されてないカラ、僕達が夢の中に行って問題を解決する方法を見つけてくしか今は手立てがないんだヨ。だから憶超の能力者には危険が伴う。何が起こるか分からない世界に行くわけだし、異常の発生してる夢で万が一の状況になったらどうしようにもないんだからネ……」
慣れきって今は恐怖なんて感じないケド、と已緒はぼそりと付け加えた。