生きる?
この小説は東日本大震災・自殺などの重いテーマを含んでおります。閲覧にはご注意ください。
古くは無い、が特別きれいとも言えないごく普通の中学校舎。だがそこを駆け行く少年の形相は普通とは言えない。
全てのものを恨むかのような目つきですれ違いざまに生徒を睨み、階段を駆け上がる。彼が追うのは、これもまた一風変わった飄々《ひょうひょう》とした雰囲気を漂わせた少女だった。
少女のポケットの中には、一つの鍵がおさまっている。持ち出している本人は何事も無かったかのようにスカートのポケットに入れているが、鍵は基本的に生徒が持ち出すのは禁止だ。
辺りが、静まり出した。教室では「早く席につけ」と先生や一部の生徒がわめき散らす。始業を告げる、長ったらしいチャイムが鳴った。
それと同時に、丸いドアノブがきしんだ音を立てて回り、扉が開け放たれる。
生徒と先生は教室に入り、廊下や階段に彼らの姿は無い。少年と少女を除いては。
少女は扉の先に進んだ。彼女の整えられていない前髪が、風に揺れる。少女が持っていたのは、屋上の鍵だった。
「サボリはいいもんだ」
彼女はドアを足で蹴って閉めた。しかし鍵は掛けずに、ふっと笑みを浮かべる。
「どうやら今日は新入りもいるみてぇだしな」
砂埃も気にせず、屋上に少女は座り込んだ。その態度や至る所にある青あざから、ただ者でないことが受け取れる。
そして屋上のドアが開いた。少年は少女に少したじろいたようだが、すぐに目を反らして距離を置く。
少年はそのまま歩き続け、屋上に備え付けられたフェンスに手をかけた。
この様子を少女はほおづえをついて面白そうにながめていたが、不意につかつかと彼のもとへ歩み寄る。そして少年の襟をつかんだ。
「自殺かい?」
「ほっとけ」
噛み付きそうな勢いの物言いだ。
「お人好しならいいよ。迷惑だ」
「お人好しなら自殺を止めたりしないさ。生憎、私は自己中心的な考えの持ち主でね」
ざらに言わないことを、何の迷いも無いように少女は言い放った。
「屋上は普段開けられない。開くのは私がサボるときだけだ。そうだろ? ならお前がここで自殺したら、間違いなくサボリ癖の悪い私がお咎めを受けちまうわけさ」
少女は制服を無理矢理たぐり寄せて、少年に腕を突き出した。
「しかも近頃の警察さんは冤罪をやらがお好きなようでね」
ミミズ、否蛇の這ったような痕が集中していた。少年は呆気にとられて、何も言い返せなかった。
「話を聞いてやる。その代わり自殺すんじゃねぇ」
少女は腕を下ろしたが、少年は自然とそれを目で追って、しばらく答えることを忘れていたようだ。
「どうなんだ」
少女とは思えないような、どすのきいたこえで少年ははっとした。
その様子を見て少女はため息をつくと、もう一度条件の説明をする。
「お人好しなのに?」
少年の目には、明らかな疑いの色があった。
「言い訳がきく。あんたが自殺したとしても、私は精一杯努力してそれを止めました。とか、仮に自殺しなかったときのサボリの言い訳とかな」
少年がしぶしぶという様子でうなづくと、少女は踵を反した。同時に、ちらと少年の左胸を見る。だが何も言わずにドアへ向かい、鍵を閉めた。
「何で自殺しようと?」
戻ってくると、すかさず単刀直入に訊いた。
少年は「ありえない」といういうように目を細める。少女はその反応に驚きもせず、やはりなとつぶやいた。
「制服は既製品であるため学年途中の転校でも間に合ったが、特注の名札は間に合わなかったというわけか。転校のトラブルと見受けられるが……君は今回が初めての転校だったんだろう?」
少女が少年の左胸を見たのは、名札の確認のためのようだった。この学校は物を大切にさせるためといって、名札を何度でも買えるような布ではなく、プラスチックに掘る形としている。
「君だって名札、無いじゃないか」
「別に必要ない。それより、初転校でいろいろと戸惑っているということだな」
少女は次々と推理して、本人に解説した。
「自分はこう考えるから、ああ考える人間は間違っているというのは、あまり多くの土地に行ったことのないやつの特徴さ。私の態度に度肝を抜かれているようじゃ、転校慣れしていないのだろう? 私はいろいろな場所に行ったことがあるが、どこにも共通したことだったよ」
「そうだよ。金があって何回も家を移れるような一家じゃないさ。震災で全部流されて、なんとかこっちに来れたんだからな」
「私は金が有り余って転校しているわけじゃない。で、あんたの悩みは金が無いこと?」
少年は目を伏せたまま、視線を右往左往させた。迷っているようだ。
「幸せが、無いこと」
途切れ途切れ、風を一緒に流れていってしまいそうな声で答えた。
「そんじゃ死んだら幸せになれるってか?」
「わかんないよ。でも、この世は辛いことばっかりじゃないか。だったら、死んでみてどうなるか賭けてみるしかないだろう」
少年の中では、決心がついているようだった。彼の顔は、廊下を走っていたときと同じような形相に変わっている。
「死んだら日本の場合、火葬されてお墓入りだろ。説明すれば幼稚園生でもわかる」
「そんなことじゃない。楽になるかもって」
「楽なのが幸せとも限らんだろ」
少年は少女のペースに乗せられて不満なのか、その感情を目線に添えて送る。
すると少女は「一時間だな」と言って、目線を打ち砕くかのように、彼を睨み返した。
「じゃあ何が幸せってい言うんだい?」
少年は負け惜しみのように食い下がった。
「幸せなんて、自分でそう思えばどんな逆境だろうと幸福ってことになんだろ。まあ、恵まれている環境でも本人がそう思わなきゃ不幸だけどな。それを何だって聞かれたって答えられんさ」
「僕が恵まれているとでも言いたいのか」
少年の肩がいかっていた。生ぬるいやつと思われたくないのだろう。
「言ってどうする。どちらにせよ、死んでから幸せになることは無いだろうな」
「なぜ?」と少年は言葉と雰囲気で訴える。
「幸せかどうかが、人の受け取り方によって違うとする。となるとつまり、何かことが起こらない限り人は感情を持たないから幸せとも不幸とも思わない」
少年はうなずいた。
「死んだ人間は周りの状況を知ることができないから、そいつにとっては何も起こらないことになる。さっき言った通り何も起こらないと何も思わないから、死んだところで幸せにはなんないさ」
少年がフェンスに手を掛けたまま、動かなくなっていた。少女は「幸せも追い求めずに楽になりたないなら話は別だけど」と付け加えた。
少年は格違いの財宝に触れるかのように、震えながら、恐る恐るというように訊く。
「幸せになるには、どうしたらいい?」
「説明したろ。生きてみるしかなくないか?」
少女は逆に訊き返していた。答えの見つからないらしい少年はだんまりをつかう。
沈黙が降りて、辺りを包み込んだ。かなり時間が経ったようで、長ったらしいチャイムが鳴り響いた。少年は顔を上げてまっすぐに少女を見つめた。
「やっぱやめた」
少年はフェンスから手を放した。
その時、ガチャガチャと音がしてドアが開く。
「探したんだぞ。いつもは教室にいなくとも保健室にいるのに」
担任らしき人物だった。どうやら少年は先生にまでも恨まれてしまうほど、悲惨な境遇ではなかったらしい。
「職員室に確認したら屋上の鍵が無くなっていると聞いてな。マスターキーで開けてみればこれだ」
迎え人は少年の肩をたたき「鍵は?」ときいた。彼は少女のいた場所を見たが、彼女は消えていたのだ。
「いいさ。話は後できく」
彼は少年の背中を押して、校舎内に戻っていった。
迎え人がドアに鍵を掛けたとき、少年の手に何かが落ちた。それは少女が盗んだはずの鍵だ。少年は目を見開いたが、結局それをズボンのポケットに押し込む。
数ヶ月がたち、少年はまた屋上に行った。今回はフェンスに触れることもなく、座っていた。
「何だったんだろうな、あいつ」
すると、少年ははたと動きを止める。彼の目の前には私服の男子小学生がいた。目の前といっても、隣の学校の屋上だが。
容姿は違えど、見間違えるはずが無かった。なぞの飄々とした雰囲気が遠くからも伝わってくる。
「結局、お人好しじゃんか」
少女の姿をしていたそれは、人間ではなかった。その証拠に、やつに命を救われた者以外は、それについての記憶が無い。彼女がその場から消えると同時に記憶が消されるのだった。まさに幸せそのもののような実体の無いもので、転校手続きなんかに使う資料も彼女は持ち合わせていなかった。気まぐれにいろいろな場所へ飛び回り、姿を変えて突然現れる。
少年も、彼女がいなければ今頃自殺して幸福も不幸も無いところだっただろう。
幸せが何かって訊けば十人十色だろうが、生きてみないと始まらないってのは万人共通のことだろう。