雨の日の記憶
見上げた空はここ何日も真っ黒に染まったまま。そこから降り注ぐ雫は地面を叩き、耳がおかしくなりそうなくらい大きな音を立てていた。
髪から垂れる雫を払って、王城の自室から外を見る。
――さっきより、川の水位が下がっている。もうそろそろだろう。
「……?」
豪雨がもたらす音の中、誰かの声が聞こえた気がした。こんな雨の日に王城に来る物好きがいるはずもないのに。
王城は街とは離れていて、いくつもの増水した川を渡らなければならない。そして、極めつけが今見ていた大きな河だ。
気のせいだと、窓際に移動させた椅子の上で膝を抱え直して、再び外へと意識を向ける。濡れた衣装が重くて、少し動くだけで大義に感じた。
でも、それもすぐに気にならなくなる。そう思って目を閉じた。
その時だった。
「ルビア、無事か………っ!!」
雨音に負けない盛大な音を立てて、扉が開き、小さな灯りしかなかった部屋に光が入ってきた。
否――こんな天気で光などあるはずがない。実際に入ってきたのは、輝くように明るい金の髪を持つ美しい青年だった。
彼は今、扉を開けた時の勢いが嘘のようにその場に立ち尽くしている。
「この王城の状態は…お前が……?」
「そうよ、私がやったの。だから、すぐにお家に帰りなさい、エスター。王城はもうすぐ流されるわ」
彼――エスターシュヴァンは、おぼつかない足取りで部屋に入ってくると、水たまりの手前で立ち止り、私を見据えた。燃えるような激しい怒りをその瞳に宿して。
「ルビア。どうして…どうして殺した!!」
「必要だったからよ。私はこれが一番だと思った。エスター、この後はあなたが全てをやり直さなければならない。重い荷物だけれど、あなたは大丈夫。あなたを支えてくれる人はたくさんいるわ。だから、この国を頼みます」
全ての王族と、王城で働く全ての使用人の血で真っ赤に染まった白のドレス。私は椅子から立ち上がると、その裾をつまんで腰を深く折り、目の前の人物に最敬礼をとった。
「ごらん通り、父王を廃し、王女であるわたくしに王位は移りました。その王位を今、エスターシュヴァン・クローに禅譲いたします。今より先、王族を示すディ・フェグリットを名乗りなさい」
礼をとる私のすぐ前に、ごろり、と人の頭が身体と離れて転がっている。既に血は流れ終え、まがまがしい水たまりには鈍く輝く王冠が浸っている。その血だまりをはさんだ向こう側にエスターは立っている。
「…どうして、罪のない人間まで殺したんだ、ルビア…」
湧き上がる複雑な感情を押し殺して、エスターが声を絞り出した。そんな彼だから、私は信頼してこの国を譲ることができる。降嫁した前王女の息子で、唯一王家の名を持たない従兄は、王族の横暴を許さない非情さと、民を想う情深さを持ち合わせる人間だから。
「今日この王城で何があったかを隠すためよ。もうすぐこの城は土石流に巻き込まれ、何もかもが土に埋まるわ。そうすれば、全ては不幸な事故で終わる。新たな王家の始まりに血生臭さは残らない」
ちらり、と外の河を見降ろすと、さらに流れる水は減っていた。早くしなければ、賢王となるであろう彼まで巻き込まれてしまう。
「もう時間がないわ、すぐに王城を出なさい。さようなら、エスター」
「待てよ!!ここに残る気じゃないだろうな?そんなの、絶対に許さないっ!!」
元の椅子に戻ろうとした私を彼が引き止める。
「私がしたことは確かに国のためを思ってした事。でも、多くの人をこの手に掛けたことに変わりはないわ。私は、生きていてはいけないの。さあ、早く行きなさい、エスターシュヴァン・クロー=ディ・フェグリット!!」
残された時間は半時ほどだろう。厳しい口調で敢えて彼の名前を全て呼ぶ。私はあなたに国王として民を守り、傾いたこの国を立て直してほしいのだ、と伝えるために。
「……だ」
それなのに、エスターは俯いたまま動かない。仕方がない。私は命を断とうと傍らの剣に手を伸ばした。しかし、その腕は血だまりを越えたエスターに掴まれてしまう。ああ、彼はこちらに来るべき人ではないのに。
「嫌だ。ルビアが残るというのなら、俺も一緒に残る。誰が何と言おうと、絶対に…絶対にお前を離すものかっ!!」
「エスター…!!」
掴まれた腕をそのまま引っ張られ、私はエスターの胸に抱え込まれた。ふわり、と香る彼の香りに一瞬懐かしさを感じて身を委ねたが、すぐに私はその腕から逃れるべくもがく。彼の衣装に、血の汚れが付いた。
「愛している女を置き去りにして、俺はお前の望むような王にはなれない!!お前がここで死ぬというのなら、俺も一緒に死ぬ!!」
「そんな…そんなのは駄目。絶対に駄目よ…何のために私がこんなことをしたと思っているの!?」
もがけばもがくほど、エスターは私を抱き締める腕に力を込める。
腐敗しきった王族の末の王女。それが私だった。
貴族や官僚の声を聞かず、横暴の限りを尽くし父や叔父は政治を誤り民を苦しめた。民の苦しい生活を知りながら、母や側室、腹違いの兄弟たちは贅の限りを尽くした生活に溺れた。
そんな中、幼いころ身体が弱かった私はエスターの母である叔母が住む田舎で、彼女の子供たちと共に民に近い場所で育てられた。
だから、彼らを苦しめる父や母が許せなかった。そして、それをどうにもできない自分も。
「わかってるよ!!それでも、お前が死ぬなんて、俺には耐えられない!!」
小さな頃からの付き合いで、何を言ってもエスターが動かない事はわかった。このままではこの国は指導者を失ってしまう。
「わかった、私もちゃんと逃げるわ。でも、私はもうエスターの側には居られない。生きてるって証拠に、手紙を出すわ。だから、早く逃げて…」
「…わかった。約束だ、必ず連絡しろ」
エスターの腕が緩み、彼の手が頬に触れる。そして―――
どちらからでもなく、唇が合わさった。