「婚約破棄? しないよ、君は最愛の婚約者だからね」
本編はタイトルから地続きです。
「……じゃあ、その隣の女は誰なんですの?」
王城の大広間に公爵令嬢エレノア・フォン・ブラウンの声が静かに落ちた。
今宵は王太子主催の舞踏会。磨き上げられた大理石の床には燭台の火が淡く映り、楽団の奏でる優雅な旋律に合わせて、貴族たちが穏やかに笑みを交わしている。
その中心で王太子レオンハルトは胸を張っていた。隣には白いドレスをまとった可憐な乙女が一人。
今年、辺境の村から神託を受けて王家に召し抱えられた少女。聖女アリシアである。
「聖女アリシアだ。私に真実の愛を与えてくれた女性だ」
あまりにも堂々とした声音だった。
悪びれもなく、隠す気もなく、まるで素晴らしい宝石を披露するような顔でレオンハルトはそう言い切った。
エレノアは瞬きする。
なんだろう、先程から微妙に話が噛み合わない。
「ええと、バカ王子。ちょっと待ってください。もう一度確認ですが、私とは婚約破棄するって事でよろしいのかしら?」
「ははは、何を言ってるんだエレノア。君は僕と将来を誓った仲じゃないか。君は最愛の人だ。生涯手放すつもりはないよ。……っと、こんな所で言わせないでくれよ、恥ずかしいから」
レオンハルトは照れたように頬を掻いた。
会場の数名が、まあ、と頬を染める。未来の王と王妃の睦まじい一幕だとでも思ったのだろう。
エレノアは頭痛を堪えるようにこめかみを押さえた。普段は家の名に恥じぬよう、淑女としての振る舞いを忘れない彼女だったが、この時ばかりは思わず舌打ちが出る。
「……もっと他に恥じるところがあるでしょう。アリシアさんはそれで良いんですの? 正直舐められてますわよ、私たち」
矛先を向けられたアリシアは、びくりと肩を跳ねさせた。
しかしその瞳に怒りはない。むしろ、困惑と善意と、妙な期待が入り混じっている。
「わ、私は全然! その、全然大丈夫です! もう全然! 実家でも父が三人、母が六人居ましたので! もう全然全然!」
「……そういえば因習村出身でしたわね貴女。倫理観、色々と狂ってますわね。もういいです。それなら私から婚約破棄させてください」
会場の空気が凍った。
それまで微笑ましげに見守っていた貴族たちが、一斉に息を呑む。婚約破棄。それも王太子ではなく、公爵令嬢の側からの申し出。何人かが心配そうに首を振る。
「突然何を言いだすんだ! 王家と公爵家の婚約をこんな公衆の面前で破棄とは! 気でも触れたか!?」
「気が触れたのはあなたの方でしょう! ……もういいですわ、私、体調が優れないので帰らせていただきます」
エレノアは踵を返した。
この場に留まっていれば、自分の常識の方が間違っているような気がしてくる。それが何より恐ろしかった。
「くっ……女心は難しい。だが、今はそれどころじゃないな。すまないアリシア。……すまないが誰か、馬車を呼んでくれ。私は先に失礼する。エレノアを送らなくては」
「誰のせいだと思ってるんですか!」
叫んだ瞬間、エレノアの肩にそっと白い手が触れた。
「落ち着いてくださいエレノア様! わわ、私に任せてください! 今、聖女の奇跡の力で……」
淡い光がアリシアの手のひらから溢れる。
柔らかな温もりが胸の奥へ染み込む。
苛立ちがわずかにほどける。
癪なことだが、聖女の力は本物らしい。
「ええい、鬱陶しいですわ! あ、でもちょっと安らぐ……って大きなお世話です! 奔放な育ちのくせに聖女に選ばれてるんじゃないわよ!」
「せ、聖女だけに〜、な、なんちって。えへへ……」
アリシアは照れたように笑いを浮かべた。
怖そうに見えるけれど、エレノア様って意外とユーモアがあるのかも。仲良くなれたらいいな。そんなことを考えている顔だった。
「これから、な、仲良くしましょうね!」
「なっ……するもんですか! なんか、私の方がおかしいんですの? これ……」
ぽつりと漏れた言葉に、レオンハルトがぴくりと反応する。
その顔は浮気を責められた男の顔ではない。愛する婚約者が傷ついていることに、心から胸を痛めている男の顔だった。
「そんな事はないさ。君をおかしいなんていう奴は僕が絶対に許さない。……多分、ちょっと頑張りすぎてるだけさ。さあ向こうで休もう。お前たち! すまないがベッドの用意を頼む!」
「!」
控えていたメイドたちが、はっと頭を下げ、テキパキと動く。
王太子は本気でエレノアを案じている。聖女も本気でエレノアを慕っている。どうやら周囲も本気でこの場が丸く収まることを願っている。
「エ、エレノア様。私、お姉ちゃんができたみたいで嬉しいです。実家では二十八人兄弟の末っ子で女は私一人だったので……」
「それはまた、天文学的な確率ですわね……ってもうツッコミも疲れてきました」
エレノアは深く息を吐いた。
目の前には自分を最愛だと信じて疑わない王太子。隣には自分に懐きはじめた聖女。周囲には未来の王妃を見守る貴族たち。国王と王妃も玉座の方でハラハラと、こちらの成り行きを心配そうに見守っている。
この場で一番まともなのは自分だ。
そのはずなのだが、もうあまり自信がない。
ただ不思議と隣のバカ王子と、倫理観の壊れた妹の事は嫌いになれなかった。
「……まあ、もういいですわ。じゃあ、ちゃーんと二人とも大事にしてくださいまし」
その瞬間、会場から拍手が起こった。
パチ、パチと、最初は控えめに。
やがて安堵が波のように広がり、華やかな大広間を満たしていく。国王と王妃もスタンディングオベーションしている。
盛大な祝福の中、呆れながら小さくため息を吐くエレノアの耳に、観衆の中にいる一人の紳士が小さくこう呟くのが聞こえた。
良かった……不幸になる女の子はいなかったんだね……!
◇
その後、レオンハルトは王として即位した。
彼は民の声に耳を傾け、貴族たちをよくまとめ、隣国との争いを避け、乱れた財政を立て直した。歴史家たちは後に、彼を賢王と呼ぶことになる。
第一王妃エレノアは、王の最愛として深く敬われた。第二王妃アリシアは、聖女として国を癒し、王宮に明るい笑い声をもたらした。
そして二人の王妃は、それぞれ同じだけの大きな愛を受け取り、仲睦まじく暮らしたという。
「……全く、このバカ二人には私が付いてないとダメですわね」
「エレノアお姉様♡ へへ……今日もお美しいです」
「あぁ^〜」
「やかましいですわ」
レオンハルト王は長く国を治め、王国は穏やかな繁栄の時代を迎えた。
王と二人の王妃は子宝にも恵まれ、末永く幸せに暮らしましたとさ。
〜fin〜
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