長い休み
連休に入るまえの日、仕事から帰宅した息子は母に「明日から出かけてくる」と言った。
「出かけろって、どこに?」台所から出てきた母は息子の背中に聞いた。
「べつにどこだっていいだろ」息子はリビングのソファーに上着を投げ捨てた。「十代のガ
キじゃあるまいし」
「そんなこと言ったって、あなたね。こっちは食事の準備とか色々と・・・・」
「ああもう、うるさいな」息子は母の言葉を遮った。「とにかく明日から俺はいないから。
もう何度も言わせんなよ?」
そう言い残して息子はリビングを出ていった。「夕ご飯は?」と聞く母の声には一切返事をせず、階段を駆け上がっていく足音が聞こえたかと思ったら、母がリビングから頭を覗かせたときにはもうそこに姿はなく、バタンと扉が閉まった音だけが廊下に漂っていた。
台所に戻った母は「まったく、もう」と呟きながら、出来上がった料理を冷蔵庫に片し
始めた。鶏のから揚げにきんぴらごぼう、それに冷奴とジャガイモと玉ねぎのお味噌汁。 明日からいないというのだから、しまっておいたところで誰が食べるわけでもなかったが、 せっかく作った料理を無碍にはしたくはなかった。
夫が生きていたころは息子が食べなくてもべつになんとも思わなかった。子どもとはいえいい歳した男が親と食事しないのは当たり前だし、何よりいなくても夫がいれば寂しくはなかったから。息子が仕事し始めてからは夫と二人でいることに彼女は慣れ切っていた。
だから夫が亡くなってからというもの、その穴を彼女はいつしか息子で埋めようとするようになった。食べないとわかっていながら朝食はちゃんと準備し、帰宅時間もわからないのに夕食を作って帰りを待つ。そうやって夫がいなくなっても、彼女は夫がいたときと同じ生活を維持していた。そうされて息子がどう思っているかなど気にすることなく。
最初はのころは息子も母の気持ちを思って付き合ってくれていたけど、それが一年二年と続くとさすがに嫌気が差してきたのか、夫が亡くなって三年経ったころには元の息子に戻っていた。準備された朝食になど目もくれず出動し、帰ってきたらきたで夕食の席につくことなく部屋に戻っていく。同じ屋根の下で暮らしているだけで、そこには親子の繋がりは一切なく、時間が経てば経つほどその距離は着実に離れていったし、元の親子関係は日々冷蔵庫に溜まっていく料理がすべてを物語っていたが、彼女自身はそれを過去にあったはずの反抗期と同じくらいにしか思っていなかった。
あの夜も、彼女は素っ気ない息子の態度に苛立ちをおぼえながらも、いつものことと自分に言い聞かせてベッドに入った。が、目を閉じても一向に眠りが訪れる気配はなく、眼ろうとすればするほど眠気は遠ざかっていき、ふと「とにかく明日から俺はいないから」 と息子が放った一言が頭を通った。
息子はどこに行くつもりなのだろう?
閉ざされた視界の暗闇を見つめながら彼女は考えたが、いくら考えたところでわかるわけもないし、そんなことを考えていたらだんだんと言い知れぬ不安が胸の内からこみ上げてきた。そうなると居ても立っても居られなくなり、ベッドを飛び出して彼女は二階の息子の部屋へと向かった。音を立てないよう気にしながら一段、また一段と階段を上っていき、息を殺して息子の部屋のまえに立って、そっと扉に耳をつけた。
しんと静まり返った空気が扉越しに彼女の耳を伝い、彼女は扉から耳を離し、ドアノブを握る。そしてゆっくりとそれを回し、静かに扉を開けて中を覗き込む。
そこには暗闇が、見つめれば見つめるほど深みを増していく闇が広がっていた。




