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史的な夜話 其の二十

作者: 戸倉谷一活
掲載日:2026/02/09

 個人的には「鉄炮」ではなく、「鉃炮」と表記したいところです。

 そもそも何故、金属の「鉄」は「金」と「失」で表記されているのでしょうか?

 元々は「鐵」や「鐡」に「銕」を使っていたそうですが、画数が多いとかなんとかで「鉄」の字に落ち着いたそうですが、他に良い字は無かった物か、その様に思います。

 大した話でも無いのですが、過日、平山優さんの「検証長篠合戦」と言う本を読んでいました。機会があれば長篠合戦についても語ってみたい、そう言う事からこの一冊に軽く目を通していたのですが、その中で一か所、気になるところがありました。

 それは八二頁から八四頁に書かれています「猟師と鉄炮」という記事です。

 天正元(一五七三)年四月二十日、越中国から越後国へと軍勢を率いて帰国中だった上杉謙信は糸魚川辺りにいたそうです。その時、一発の銃声が響いて「武田信玄が攻めてきた」とか、そういう騒ぎになったそうです。それで周囲をよくよく調べてみると猟師の放った一発だったとか、それで皆は安堵したという内容なのですが、ここで疑問が生じます。

 鉄炮が日本へ来たのは天文十二(一五四三)年八月に種子島へ異国船が漂着したのが最初と言われています。異説もありますが、今は横に置いておきましょう。

 天文十二年に日本へ鉄炮が入ってきたと言っても即、大量生産に至ったわけでは無く、一年二年かけてようやく生産が始まったそうです。いずれにしても当時としては最新の兵器であったにも関わらず、三十年で民間人が所有できていることに驚きました。

 前後に書いてあったのですが、必要であれば猟師であっても領主が動員して戦地へ引っ張られるそうです。

 Wikipediaの「火縄銃」の頁に書いてあったのですが、当時鉄炮一丁の値段が八貫五〇〇文で現代の金額に直すと五〇万から六〇万円ぐらいになるそうです。現代で五〇万円、六十万円と言っても物の価値も違いますし、戦国時代ですから全国各地に鉄炮の販売店があるわけではありません。それに鉄炮に必要な火薬も弾も高価だったと思います。火薬の原料も硝石を輸入に頼っていましたし、弾も材料の鉛を輸入に頼っていました。どのようにして戦国時代の猟師は鉄炮の維持管理、火薬や弾の購入を行っていたのか、そこが気になりました。勿論、戦国時代の猟師さんはどのようにして現金を得ていたのか、鉄炮一丁を現金一括払いだったのか、ローンを組んでいたのか、その辺りも気になります。

 熊、鹿、兎、猪などが狩猟の対象だったとのことです。他の動物も狩猟の対象となっていたでしょうし、仏教国で肉は食べないと言われていますが、案外食べていたとか、その様にも聞きます。

 当時、戦場で亡くなった人から衣類を取ったり、武具を取ったり、いわゆる略奪行為が普通に行われていたそうです。戦場で転がっていた鉄炮を拾って使っていたのではないか、その様にも思ってしまいましたが、それでは火薬と弾はどうするのか、その疑問は残ります。

 多くの戦国大名が鉄炮の産地である堺、近江国の国友村から鉄炮を購入していたと思いますが、輸送して各地の戦国大名へ届けるのも簡単ではないでしょうし、代金を受け取って持って帰るのもまた大変だったと思います。

 当然、依頼があれば火薬と弾を届けなくてはいけませんし、その辺の苦労はどうだったのか、気になりますが、戦国時代の商人に特化した研究は有るのか無いのか、今の私にはわかりません。

 鉄炮の行商人がいて各地の戦国大名を訪ねて歩いて鉄炮の有用性を伝えて歩いたのでしょうか。荷車に大量の鉄炮を乗せてえっちらおっちら街道を進んだのでしょうか。

 そういう旅の途中で猟師さんに出会って鉄炮を売り込んだのかもしれません。

 この頃はまだ兵農分離が始まっていませんから領主が鉄炮を購入して猟師に預け、普段は領主から貰った鉄炮で狩猟、動員したら駆け付ける様にしていたとも考えられます。

 それでも火薬や弾の支給を考えたら結構面倒でしょうし、わざわざ領主、戦国大名が猟師に鉄炮を買い与えていたのか、その点を考えると有り得ないか、その様に感じます。


 今一つ気になることが有ります。

 元亀元(一五七〇)年五月十九日、京都から岐阜へ戻る途中だった織田信長が狙撃されるという事件が起きます。幸いにして信長はかすり傷程度で済んだようですが、当然怒り心頭に発した信長は犯人捜しを行い、狙撃の実行犯である杉谷善住坊が逮捕されることになります。そして有名な鋸引きの刑に処されてしまいます。これが天正元(一五七三)年九月十日のことです。

 ちなみに杉谷善住坊が何故、信長を狙撃したのか、誰かに雇われたのか、個人的に狙っていたのか、その辺の事情も謎のままです。おそらく信長は杉谷善住坊を捕らえた時、狙った理由を尋ねたのか、何も聞かずに刑に処したのか、今の処記録は出てきていません。

 この、さっぱり事情がわからない点を想像して楽しむのが私たちなのですが、今はさっぱり思い付きません。


 もしかすると四月二十日に上杉謙信らが敵襲と勘違いした一発の銃声、実は猟師の格好をした狙撃手が上杉謙信を狙ったのではないか、その様にも思ったのです。勿論、何一つ証拠もありませんし、この時現場にいた人が同僚へ書状を送っているのですが、そこにも猟師が狩猟中だったと記されているの間違いは無いと思います。しかし、猟師だと言い逃れたのではないか、ついつい疑ってしまいます。

 この時代の鉄炮は火薬の威力が弱かったからか、有効射程が五十から百メートルと言われています。このため、杉谷善住坊も二十メートルぐらいの位置から狙撃したそうですが、それでも信長はかすり傷で済んだから信長の運が良かったのか、銃や火薬の性能が悪かったのか、いずれかでしょう。

 もし狙撃が上手くいっていたら今頃、日本史も随分と違ったことになっていたでしょう。

 でも、熊とか猪が二十メートルぐらいの距離に居たら怖くて仕方がありませんが、当時の猟師達はどれぐらいの距離で獲物を狙っていたのでしょうか。この点も気になりますが、当時の猟師さんたちに話を聞くわけにもいきませんし、「怖い、怖い」と思いながら発砲したと思っておきましょう。

 久しぶりに真面目な文章で書きましたが、色々と疲れました。中途半端な気もしますが、ここで締めます。

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