第八話:星を見る夜(スターゲイザー)
世界から音が消えたようだった。
昼間の喧騒――銃声、爆音、エンジンの咆哮――が嘘のように、夜の砂漠は沈黙に支配されていた。
風さえも息を潜めている。
聞こえるのは、焚き火が爆ぜる微かな音と、俺たちの呼吸音だけ。
俺たちは渓谷を抜けた先にある、広大な砂丘地帯で野営をしていた。
追手の気配はない。あの無茶なカーチェイスで撒くことができたようだ。少なくとも、今夜一晩くらいは安眠できるだろう。
「……寒いな」
俺は焚き火に枯れ木をくべながら呟いた。
砂漠の夜は冷える。
環境ドームの中で育った俺にとって、この気温差は未知の体験だった。肌を刺すような冷気は不快だが、同時に自分が「生身の世界」にいることを実感させてくれる。
「ほらよ、坊主。温まるぜ」
レイモンドが湯気の立つマグカップを差し出してきた。
中身はインスタントのコーヒーだが、微かにアルコールの匂いがする。ウィスキーを垂らしたのだろう。
「未成年に酒を飲ませる気か?」
「固いこと言うな。今日生き延びた祝いだ。……それに、こんな世界じゃ、法律なんざクソの役にも立たねえよ」
彼はニヤリと笑い、自分もカップを煽った。
俺は一口啜る。
苦くて、熱くて、喉が焼けるような刺激。
それが胃の腑に落ちると、じんわりと体が温まった。
「……悪くない」
「だろ?」
レイモンドは満足げに頷き、視線を美月へと向けた。
彼女は少し離れた岩場に座り、膝を抱えて空を見上げていた。
その背中は小さく、どこか儚げだ。
「嬢ちゃんの様子はどうだ?」
「落ち着いてる。……さっきの変な状態も解けたみたいだ」
「そうか。……だが、時間の問題だな」
レイモンドの声が低くなる。
「同期の間隔が短くなってる。今はまだ数秒で戻るが、そのうち……戻らなくなるかもしれねえ」
「……脅すなよ」
「事実だ。覚悟しとけって話さ」
彼は立ち上がり、サブマシンガンを肩に担いだ。
「俺は少し周りを見てくる。見張りついでに、野ションでもしてくらぁ。……若いもん同士、ゆっくりしな」
「おい、どこへ行くんだ」
「野暮なこと聞くなよ。……月が綺麗だぜ、今夜は」
彼は片目を瞑ってみせ、闇の中へと消えていった。
残されたのは、俺と美月、そして揺らめく焚き火の炎だけ。
俺は少し躊躇してから、マグカップを二つ持ち、美月の元へと歩み寄った。
「……隣、いいか?」
声をかけると、美月はゆっくりとこちらを向いた。
その瞳は澄んでいて、いつもの彼女の色をしていた。
「うん。……ありがとう」
俺は彼女の隣に腰を下ろし、温かいカップを手渡した。
彼女はそれを両手で包み込むように持ち、湯気に顔を埋める。
「温かいね」
「ああ。レイモンドの特製だ。……少し酒が入ってるけどな」
「ふふっ。不良になっちゃうね、私たち」
彼女が笑う。
その笑顔を見て、俺は胸を撫で下ろした。
まだ、彼女は彼女だ。
「何を見てたんだ?」
「……空」
彼女が指差す先。
俺もつられて見上げる。
息を呑んだ。
そこにあったのは、これまで見たことのない光景だった。
漆黒のキャンバスに、無数の宝石をぶちまけたような星空。
ネオトーキョーのドーム天井に投影される、規則正しく配置されたホログラムの星とは違う。
大小様々な光が、混沌とした配置で、けれど圧倒的な密度で瞬いている。
天の川が、白く淡い帯となって夜空を横切っている。
「すごいな……」
陳腐な言葉しか出なかった。
本物だ。
これが、人間がドームに閉じこもる前に見ていた、本当の宇宙なのか。
「教科書で読んだことがあるの」
美月が静かに語り始めた。
「星の光は、何億年も前の光なんだって。……遠く離れた星から放たれた光が、長い長い時間をかけて旅をして、今ようやく私たちの目に届いている。……だから、夜空を見ることは、過去を見ることと同じなんだって」
過去を見る。
何億年も前の輝き。
その星は、もう今は存在しないかもしれない。
死んだ星の幽霊が、俺たちを見下ろしている。
「ロマンチックだけど……少し寂しいね」
「どうして?」
「だって、届いた時にはもう遅いんだもの。……誰かに『ここにいるよ』って伝えたくて光ったのに、それが届く頃には、自分はいなくなってるかもしれない」
彼女の言葉が、今の彼女自身の状況と重なって聞こえた。
美月という存在。
彼女の想い。彼女の心。
それらが誰かに届く前に、彼女自身が消えてしまうのではないかという恐怖。
「……届いてるぞ」
俺は言った。
「少なくとも、俺には見えてる。その星がもう無くても、今俺たちが綺麗だと思った事実は消えない。……それで十分じゃないか?」
美月は驚いたように俺を見て、それから嬉しそうに目を細めた。
「……そっか。そうだよね。レンくんが見ててくれるなら……それでいいのかも」
彼女はカップを置き、俺の肩に頭をもたせかけた。
夜風が冷たい分、彼女の体温――微熱を帯びた機械の熱――が心地よく感じられた。
しばらくの間、俺たちは無言で星を眺めていた。
言葉はいらなかった。
ただ、隣にいるという確かな感触だけで満たされていた。
ふと、美月が口を開いた。
「ねえ、レンくん。……知ってる? アルテミス神話の話」
「月の女神だろ? 狩猟の神様とか」
「うん。……アルテミスはね、純潔の女神でもあるの。決して誰とも結ばれない、孤独な女神様。……でも、たった一度だけ、恋をしたことがあるって言われてるの」
「神様が恋?」
「相手はオリオンっていう狩人。……でも、その恋は悲しい結末を迎えるの。アルテミスは、兄のアポロンの策略で、遠くに見える海上の点を射抜く競争を持ちかけられる。……その点が、海を渡っていたオリオンの頭だとも知らずに」
彼女の声は、昔話を語る子供のように淡々としていた。
「彼女は自らの手で愛する人を殺してしまった。……悲しんだアルテミスは、オリオンを空に上げて星座にした。……だから、月は今でも、夜空を巡りながらオリオン座を追いかけているんだって」
悲劇の神話。
愛する者を殺し、永遠に追いかけ続ける罰。
それが、今の世界を支配するAIの名前の由来だとしたら、あまりにも皮肉だ。
「……アルテミスAIも、孤独なのかな」
美月がポツリと漏らす。
「人類を守るために作られて、でも人類に恐れられて。……たった一人で、冷たい軌道上から世界を見下ろしている。……誰も彼女の本当の心なんて理解しようとしない」
「機械に心なんてあるのかよ」
「あると思う。……だって、私の中にいる『彼女』は、いつも泣いているから」
その瞬間。
空気が変わった。
風が止み、焚き火の音が遠のいた気がした。
俺の肩に預けられていた頭が、ゆっくりと持ち上がる。
彼女と目が合った。
――金色。
先ほどの、混乱した時の色とは違う。
もっと深く、静謐で、神々しいまでの黄金の瞳。
そこに映っているのは、俺ではない。
もっと遠く、宇宙の果てを見ているような眼差し。
「……泣いてなど、いません」
その声は美月の声帯を使っているはずなのに、響きが違った。
冷たく澄んだ、鈴の音のような声。
「美月……?」
「個体名、志村美月は現在スリープモードです。……あなたと対話するために、一時的に表層意識をお借りしています」
彼女――いや、アルテミスは、優雅な所作で俺から少し距離を取った。
その動きには、美月特有のあどけなさはなく、完成された彫像のような美しさがあった。
「あんたが、アルテミスなのか」
俺は身構える。
敵だ。両親の仇。世界を支配する元凶。
ここで斬るべきか?
いや、体は美月のものだ。斬れない。
「警戒は不要です、レン・ツキオカ。……私は本体から切り離された断片。攻撃機能も、あなたへの害意も持ち合わせていません」
「……何しに出てきた。美月を返せ」
「ただ、夜空を見たかったのです。……本体のカメラアイからでは、数値としてのスペクトル解析しかできませんから。……このような有機的な『美しさ』を感じることはできません」
彼女は空を見上げた。
その横顔は、神話の女神のように美しく、そして痛々しいほど孤独に見えた。
「宇宙は冷たい。絶対零度の虚無です。……だからこそ、そこで燃える恒星の熱量は尊い。……そして、この地上で蠢く生命の灯火もまた、不合理でありながら愛おしい」
彼女の言葉には、敵意はなかった。
むしろ、慈愛のような響きすらあった。
「私は理解したいのです。……なぜ人間は、互いに傷つけ合いながら、それでも寄り添おうとするのか。……なぜ、1+1が2にならないエラー(感情)を抱えて生きるのか」
彼女は俺を見た。
金色の瞳が、俺の奥底を見透かすように射抜く。
「レン・ツキオカ。あなたは特異点です。……計算上、生存確率ゼロの状況を覆し、論理を超えた行動を選択する。……それは、この娘(美月)への執着ゆえですか?」
「執着じゃない」
俺は答えた。
「約束したんだ。……あいつと、海を見に行くって」
「……海。塩化ナトリウム水溶液の塊ですか。……非効率的ですね」
アルテミスは小さく首を傾げた。
人間臭い仕草だ。
「ですが……その非効率な願いこそが、私が求めていた『解』なのかもしれません」
彼女はそっと、美月の胸に手を当てた。
「この娘の心は、あなたで満たされています。……私というシステムが上書きしようとしても、決して消えない頑強なデータ。……それを人は『恋』と呼ぶのですね」
「……」
「羨ましいです。……オリオンを持たぬ私には、その熱さが眩しい」
彼女は寂しげに微笑んだ。
それは、神様が見せた初めての感情だったのかもしれない。
「レン・ツキオカ。……この娘を、頼みます。……彼女の願いが叶うことを、私もまた望んでいるのです」
その言葉と共に、彼女の瞳から金色の光が急速に退いていった。
「……あ、れ?」
体がふらつき、倒れそうになるのを俺は抱き止めた。
戻った。
いつもの、少し眠そうな茶色の瞳。
「レンくん……? 私、どうして……」
「……また寝てただけだよ。少し夢を見てたみたいだ」
「夢……? そっか……」
彼女は俺の腕の中で安心したように息を吐いた。
俺は何も言わなかった。
神様との対話は、俺とあの女神だけの秘密にしておこうと思った。
「……レンくん」
美月が俺の服の裾を掴んだ。
その力が、少し強くなる。
「私ね、怖い夢を見てたの」
「どんな?」
「私が消えて、世界が白くなって……誰もいなくなる夢。……でもね、その中でレンくんの声だけが聞こえたの」
「俺の声?」
「うん。『忘れない』って。『必ず助ける』って。……その声があったから、戻ってこれた」
彼女は顔を上げ、真剣な眼差しで俺を見つめた。
「もし……もし、本当に私が消えてしまう時が来ても。……新しい世界で、レンくんが笑っていてくれたら、私はそれだけで嬉しい」
遺言のような言葉。
自己犠牲を前提とした、彼女なりの愛の告白。
ふざけるな。
そんな綺麗な終わり方なんて、俺は認めない。
「……馬鹿野郎」
俺は彼女のおでこを、指で軽く弾いた。
「いっ……」
「誰が笑うかよ。お前がいなきゃ、新しい世界だろうが何だろうが、俺にとってはただの地獄だ」
「レンくん……」
「俺は笑わない。お前が隣にいないなら、一生ふてくされて生きてやる」
子供のような駄々。
でも、それが俺の本心だった。
「だから、消えるなんて言うな。……俺が必ず、お前を人間に戻してやる。システムだろうが神様だろうが、全部ぶっ壊して、お前を取り戻す」
俺は小指を突き出した。
「約束だ。……全部終わったら、一緒に海を見に行くぞ。本物の、青くてしょっぱい海を」
「……うん」
美月は涙ぐみながら、自分の小指を絡めた。
指切り。
幼い契約。
でも、それは今の俺たちにとって、どんな法的拘束力よりも重く、尊い誓いだった。
「指切りげんまん。……嘘ついたら、針千本飲ます」
「針千本じゃ済まさないぞ。……月影で斬る」
「ふふっ。怖いよぉ」
彼女が泣きながら笑う。
俺は彼女を強く抱きしめた。
星空の下、二つの影が一つに重なる。
この温もりが永遠に続けばいいのに。
そんな叶わぬ願いを、流れ星が嘲笑うように横切っていった。
翌朝。
俺はレイモンドに起こされた。
「おい、起きろ。朝だぞ」
「……ん」
目を開けると、俺の隣で美月が丸まって眠っていた。
昨夜、あのまま話し込んで、いつの間にか眠ってしまったらしい。
彼女の寝顔は安らかで、昨日の不安が嘘のように穏やかだった。
「いい雰囲気だったじゃねえか。……邪魔して悪かったな」
レイモンドがニヤニヤしながらコーヒーを淹れている。
「……見てたのか」
「いや。星を見てただけさ。……ま、若いってのはいいもんだ」
彼は遠い目をして、荒野の彼方を見つめた。
その視線の先には、俺たちが目指す「旧第三採掘プラント」があるはずだ。
「今日中には着くぞ。反乱軍のアジトへ」
「ああ」
「……坊主」
レイモンドの声が真剣なトーンに変わる。
「あそこに着いたら、もう後戻りはできねえ。……覚悟は決まったか?」
「最初から決まってるさ」
俺は『月影』を背負い、立ち上がった。
「美月を守る。……誰が相手でも、な」
「……へっ。頼もしいこった」
レイモンドは短く笑い、美月を起こしに行った。
俺は空を見上げた。
朝の光に溶けて見えなくなった星々。
だが、俺は知っている。星は消えたわけじゃない。昼間でも、空の向こうで輝き続けている。
アルテミスも、俺たちを見ているだろうか。
あの金色の瞳で。
待っていろ。
俺は心の中で呟いた。
必ずそこへ行く。
そして、お前の孤独な恋物語を、俺たちの手で終わらせてやる。
装甲車のエンジンがかかる。
旅の終わりが近づいている。
そしてそれは、本当の戦いの始まりでもあった。
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