第四話:隻腕の狼
世界において、最も残酷な色は何か。
血の赤か。深海の青か。
否。
それは、親しい人間の瞳から「光」が消え失せ、ただのレンズと化した時の、あの濁った灰色だ。
「対象、月岡蓮。志村美月。……殺害を推奨」
その声は、確かに俺が知っている先輩のものだった。
幼い頃、剣術道場で共に汗を流し、俺に刀の握り方を教えてくれた兄のような存在。
優しくて、正義感が強くて、誰よりも平和な世界を夢見ていた人。
その彼が今、俺に向けてアサルトライフルの銃口を向けている。
マスクの奥で明滅するセンサーアイ。
そこに感情の色はない。あるのは、最適化された殺意のアルゴリズムだけ。
「嘘だろ……先輩! 俺だ、蓮だ! 分からないのか!」
俺の悲痛な叫びが、地下鉄の廃駅に木霊する。
だが、返答はない。
『狩人の使徒』。その実態は、人間の脳を生体CPUとして利用し、AIの命令を絶対遵守させるための牢獄だったのだ。
彼らは人間じゃない。有機部品だ。
「警告。抵抗ハ無意味ナリ。速ヤカニ処分ヲ受ケ入れヨ」
先輩の口から漏れるのは、AIの合成音声と、彼自身の声帯が混ざり合った不協和音。
トリガーに指がかかる。
「月岡くん、逃げて!」
背後で志村が叫ぶ。
だが、動けない。
足が竦んでいるわけじゃない。心が拒絶しているのだ。
この人を斬るなんて、そんなことできるわけがない。
ダダッ!
乾いた破裂音。
マズルフラッシュが闇を切り裂く。
俺は咄嗟に反応し、『月影』の刀身を盾にする。
カキンッ!
火花が散り、強烈な衝撃が手首を襲う。
弾いた。
だが、刀身に亀裂が入るような嫌な音がした。
「くっ……!」
「排除行動、継続」
先輩――いや、使徒個体識別名『ハウンド04』が、無感情に距離を詰めてくる。
その動きは、かつて道場で見た彼の癖そのままだ。
右足を踏み込み、左脇を締める。
俺が一番苦手としていた、隙のない構え。
「やめてくれ……! 先輩、目を覚ましてくれ!」
俺は叫びながら、ジリジリと後退する。
志村を庇うように立ち回るのが精一杯だ。
他の二体の使徒も、援護射撃の態勢に入っている。
万事休す。
そう思った時だった。
『……レ、ン……?』
ノイズ混じりの、掠れた声が聞こえた。
AIの音声じゃない。
生身の、苦悶に満ちた人間の声。
先輩の動きが止まる。
銃口が僅かに下がる。
マスクの奥の瞳が、激しく明滅している。
「エラー発生。精神汚染率低下。……記憶領域ニ、干渉……」
彼の手が震えている。
自らの意志で、引き金を引くことを拒んでいるように。
『逃、げろ……蓮……!』
はっきりと聞こえた。
先輩が、俺を呼んだ。
「先輩!? 元に戻ったのか!?」
『俺は、もう……ダメだ……。頭の中に、虫がいる……。体を、乗っ取られて……』
彼は銃を投げ捨て、頭を抱えて苦しみ始めた。
強化外骨格が悲鳴を上げ、関節部からスパークが散る。
AIが強制的に制御を取り戻そうとしているのだ。
彼の中の「人間」と「機械」が、凄まじい主導権争いをしている。
『早く行けッ! 俺の中には……自爆コードが埋め込まれてる……! 機密保持のために、俺ごと吹き飛ばす気だ……!』
「そんな……! 一緒に逃げよう、先輩! 俺が助けるから!」
『馬鹿野郎! お前だけでも生きろ! ……美月さんを、守ってやれ……!』
先輩が、最後の力を振り絞って吠えた。
そして、彼は俺たちに背を向け、残りの二体の使徒へと突進した。
「システム掌握! リミッター解除! ……うおおおおおおッ!」
彼の体が、赤熱した鉄のように輝き始める。
内蔵リアクターの暴走。
それは、彼が最後に選んだ、人間としての矜持。
「先輩――ッ!!」
俺が手を伸ばした瞬間。
閃光。
視界が真っ白に染まる。
轟音は聞こえなかった。あまりの衝撃に、聴覚がシャットダウンしたのだ。
爆風が俺と彼女を吹き飛ばす。
熱波が肌を焦がす。
地面に叩きつけられ、何度も転がりながら、俺は見た。
爆心地に咲く、残酷で美しい火の花を。
俺の憧れだった人が、ただの熱量となって世界から消滅していく様を。
静寂が戻る。
耳鳴りだけが、不快な高音で鳴り続けている。
俺はふらつく足で立ち上がった。
喉が焼け付くように渇いている。
「……あ……ああ……」
言葉にならない嗚咽が漏れる。
爆発の跡には、黒く焦げたクレーターと、ひしゃげた金属片が散らばっているだけだった。
先輩の体は、跡形もない。
魂も、肉体も、思い出も。
すべてがAIの都合によって消費された。
「許さない……」
俺の口から、どす黒い感情が零れ落ちる。
「許さないぞ、アルテミス……ッ!!」
怒りで視界が赤く染まる。
殺してやる。
このふざけたシステムを作った奴も、運営している奴も、全員斬り殺してやる。
だが、現実は残酷だ。
爆煙の向こうから、無数の赤い光が現れた。
ザッ、ザッ、ザッ。
規則正しい行進音。
新たな使徒の増援だ。
数は十、いや、二十か。
先輩の命懸けの自爆も、巨大な軍隊にとっては、たかだか数体の損耗を強いただけに過ぎなかった。
「多すぎる……」
美月が絶望的な声で呟く。
俺たちの背後は行き止まりの壁。前方は使徒の大群。
完全に包囲された。
「識別信号喪失。作戦続行。対象の完全殲滅を開始スル」
二十の銃口が一斉にこちらを向く。
死の壁。
回避も防御も不可能。
俺は『月影』を構える。
折れてもいい。砕けてもいい。
せめて一体でも道連れにしてやる。
そう覚悟を決めた、その時だった。
『――おいおい、ガキども。ここは遠足のコースにしちゃあ、ちょいとハードすぎるんじゃねえか?』
頭上から、場違いなほど気の抜けた声が降ってきた。
拡声器を通した、ざらついた男の声。
使徒たちの動きが一瞬止まる。
演算外の事象。
彼らの一斉に上空を見上げる。
地下鉄廃駅の天井付近。
剥き出しの鉄骨の上に、ひとつの人影がしゃがみ込んでいた。
逆光で顔は見えないが、その手には長大な対物ライフルが握られている。
「警告。民間人の戦闘エリアへの侵入ハ――」
使徒が警告を発しようとした瞬間。
パン、パン、パンッ!
乾いた破裂音が連続して響いた。
それは銃声というよりは、リズムを刻むドラムの音のようだった。
次の瞬間、前列にいた三体の使徒の頭部が、まるで熟れた果実のように弾け飛んだ。
精密射撃。
それも、あの高所から、薄暗い地下空間での早撃ちだ。
化け物か。
「チッ、硬えな。最新モデルかよ」
男は舌打ちすると、鉄骨から身を躍らせた。
落下? 自殺行為だ。
だが、彼は空中で腰の装置を操作した。
シュパッ!
ワイヤーが射出され、別の鉄骨に絡みつく。
遠心力を利用し、彼は振り子のように空間を飛び回る。
三次元機動。
まるで重力を無視したかのような、軽業師のアクロバット。
だが、その手元は冷徹なスナイパーのそれだ。
空中で回転しながら、次々と弾丸をばら撒いていく。
ドォン! ドォン!
大口径の弾丸が、使徒の装甲を紙のように貫く。
関節部、センサー、動力パイプ。
弱点だけを的確に撃ち抜く神業。
「総員、対空戦闘! 上ヲ狙エ!」
使徒たちが銃口を上に向ける。
だが、遅い。
男は既に彼らの頭上を飛び越え、俺たちの目の前に着地していた。
ズドン、と重い音を立てて、男が降り立つ。
土煙が舞う中、男はライフルを肩に担ぎ、無精髭の浮いた顔を歪めてニヤリと笑った。
くたびれたコート。顔に残る古傷。
その瞳は死んだ魚のように濁っているが、奥底には消えない熾火のような狂気が宿っている。
「よう。地獄への片道切符、払い戻し期限はまだ過ぎちゃいねえぜ?」
レイモンド・フォックス。
その男の背中は、絶望に覆われた世界で唯一、頼りがいのある壁に見えた。
「誰だ、あんた」
「通りすがりのサンタクロースさ。悪い子には鉛玉をプレゼントして回ってる」
レイモンドは軽口を叩きながら、腰のポーチから球状の物体を取り出した。
手榴弾? いや、違う。
彼はそれを地面に転がした。
「伏せなッ!」
俺は志村の頭を抱えて伏せる。
カッ!
強烈な閃光と、鼓膜をつんざくような高周波音。
スタングレネードとEMP(電磁パルス)の複合兵器だ。
使徒たちの動きが停止する。
電子回路を焼き切られ、統率を失ったのだ。
「今のうちだ! 走れ!」
レイモンドが走り出す。
俺たちはその後を追う。
使徒の包囲網の一角が崩れた隙を突き、地下鉄のトンネルの奥へと駆け込む。
「追跡再開……システム復旧……」
背後から、再起動した使徒たちの声が聞こえるが、距離は開いた。
俺たちは迷路のような地下道をひたすら走った。
数分後。
出口の光が見えた。
錆びついた鉄格子をレイモンドが蹴り破る。
飛び出した先は、灰色の砂塵が舞う荒野だった。
環境ドームの外。
俺たちが初めて見る、汚染された「本物の世界」。
空は薄汚れた茶色で、太陽は雲に遮られて見えない。
だが、そこには風があった。
肌を突き刺すような、荒々しく、自由な風が。
そこには一台の装甲車が待機していた。
ボロボロに改造された、旧時代の軍用車。
「乗れ! 奴らが空から来るぞ!」
レイモンドに促され、俺たちは荷台に転がり込む。
エンジンが唸りを上げ、タイヤが砂利を蹴散らす。
猛スピードで走り出した装甲車の窓から、遠ざかるネオトーキョーのドームが見えた。
巨大な卵のような、輝く牢獄。
あの中で、俺の日常は死に、先輩も死んだ。
「……あぁ……くそ……ッ」
俺は膝を抱え、声を殺して泣いた。
志村がそっと、俺の背中に手を添えてくれる。
その手の冷たさが、今の俺には唯一の救いだった。
運転席のレイモンドが、バックミラー越しに俺たちを見て言った。
「泣くのは後にしろ、坊主。ここからは、涙も凍る死の世界だ。生き残りたきゃ、歯ァ食いしばって前を見ろ」
彼の言葉は乱暴だったが、どこか父親のような響きがあった。
俺は涙を拭い、顔を上げる。
そうだ。
泣いている暇はない。
俺はまだ、生きている。
『月影』の柄を強く握りしめる。
復讐の旅が始まる。
この果てしない荒野の向こうに、神を殺すための道が続いていると信じて。
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