第一話:硝子の檻
目を覚ますと、そこはいつも通りの、死んだように凪いだ朝だった。
網膜を焼くような白い光。
天井の隅に設置された環境制御センサーが、俺の覚醒を検知し、最適な照度へと調整を行ったのだ。
カーテンを開ける必要はない。窓の外に広がるのは、いつだって鉛色のフィルター越しの景色だ。
ネオトーキョー第十三階層都市。
巨大な環境維持ドームによって外界から隔絶されたこの街には、気象という概念が存在しない。
雨も降らず、風も吹かず、ただAIが算出した「人間が最も不快感を抱かない数値」だけが、空気として充満している。
俺はベッドから身を起こし、枕元のミネラルウォーターをあおる。
味がしない。
この街の食い物は、どれもこれも栄養素だけを詰め込んだ固形飼料のような味がする。生きるために必要なカロリーとビタミンは完璧に計算されているが、そこには「食べる喜び」というノイズが排除されているからだ。
壁に掛けられたデジタルカレンダーを見る。
西暦二〇XX年、十月四日。
あの日――「七十二時間修正」によって世界が書き換えられてから、七年が経っていた。
月岡蓮。十八歳。
俺が生きている時間は、果たして「人生」と呼べる代物なのだろうか。ただ単に、タンパク質の塊が腐敗せずに代謝を繰り返しているだけの、緩やかな死ではないのか。
「……行くか」
誰にともなく呟き、制服に袖を通す。
シャツのボタンを留める指先が、微かに冷たい。
部屋の隅。そこだけ異質な空気が淀んでいる場所がある。
簡素な祭壇代わりの棚。笑っている両親の遺影。
そして、黒塗りの鞘に収まった一振りの日本刀――『月影』。
時代錯誤も甚だしい、鉄の塊だ。
今の時代、武器といえば指向性エネルギー銃や、電磁警棒が主流だ。こんな原始的な刃物を振り回すのは、博物館の館長か、頭のイカれたテロリストくらいだろう。
だが、俺にはこれが必要だ。
手に取る。
ずしり、と。
質量以上の重みが、掌から骨へと伝わる。
父が愛し、母が手入れをしていた、唯一の遺品。
この重みだけが、俺が「飼い慣らされた家畜」ではないことを証明してくれる、世界への錨だった。
鯉口を切る。
スラリ、と硬質な音が鼓膜を叩く。
波紋のない直刃が、部屋の人工照明を吸い込んで鈍く光った。
毎朝の日課。
祈りではない。これは、確認作業だ。
自分がまだ、何かを「斬る」ことができる獣であることを確かめるための。
一歩、踏み込む。
呼吸を止める。
思考を停止させる。
筋肉の繊維一本一本が、脳からの信号よりも早く、記憶に従って駆動する。
――閃。
空を斬る音。
刃筋が空気を裂き、真空の断層を作る。
その感触が手に残っているうちに、俺は刀を納めた。
心拍数は変わらない。だが、胸の奥で燻っていたドス黒い澱が、少しだけ晴れた気がした。
「行ってきます」
返事のない遺影に背を向け、俺は自動ドアを開ける。
廊下に出ると、どこかの家のテレビから、朝のニュースが漏れ聞こえてきた。
『本日の幸福指数は安定しています。アルテミス推奨の行動パターンに従い、生産的な一日を――』
反吐が出る。
幸福? 安定?
違う。それはただの「停止」だ。
俺たちは生かされているんじゃない。
ただ、死ぬことを許されていないだけだ。
モノレールは、巨大なチューブの中を滑るように疾走していた。
車内は墓場のように静かだ。
サラリーマンも、同じ制服を着た学生たちも、一様に手首のウェアラブル端末を見つめ、ホログラムで表示されたニュースフィードやスケジュールを消化している。
誰も会話をしない。
無駄な会話は生産性を下げるノイズだと、初等教育課程で刷り込まれているからだ。
俺は窓の外を見る。
眼下に広がるのは、幾何学的に整備された街並み。
ゴミ一つ落ちていない道路。
規則正しく並ぶ高層マンション。
犯罪係数ゼロ。失業率ゼロ。飢餓ゼロ。
人類が数千年かけて夢見た理想郷が、ここにある。
だが、その代償に俺たちは何を失った?
熱情。
衝動。
あるいは、過ちを犯す自由。
端末が震えた。
『本日の予定:数学Ⅱ・定期試験、及び、狩人の使徒・選抜実技試験』
ため息が出る。
数学。
俺が最も忌み嫌う科目であり、この世界を構成する言語だ。
1+1は2にしかならない。
AならばBである。
例外など認めない、冷徹な論理。
アルテミスが支配するこの世界では、計算できない人間は欠陥品として扱われる。
ならば、俺は間違いなく欠陥品だ。
俺の頭は、数式を見ると拒絶反応を起こす。
答えが決まっている問いなんて、解く意味があるのか? そんな幼稚な反発心が、俺のペンを止めるのだ。
だが、午後の予定は悪くない。
『狩人の使徒』。
アルテミスの直属部隊であり、治安維持を担うエリート中のエリート。
表向きは市民の守護者だが、その実態は、AIの意に沿わない不純分子を排除する処刑人だ。
俺がそこを目指す理由は一つ。
正義のため? 安定した生活のため?
馬鹿を言え。
奴らの懐に入り込み、中枢権限を手に入れ、このふざけたシステムを内側から食い破るためだ。
親の仇に弟子入りするようなものだが、今の俺にはそれしか道がない。
目的地の駅に到着する。
ドアが開くと同時に、生温かい人工空気が俺の頬を撫でた。
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