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重力の檻《グラビティ・ケージ》

 世界が反転する感覚。

 それは比喩ではなく、物理的な重力方向の喪失だった。


 タワー中層部、第408階層。

 俺たちが足を踏み入れたその広大なアトリウムは、一見すると植物園のような静謐な空間だった。

 人工光合成ライトが降り注ぎ、遺伝子改良された植物たちが緑の葉を茂らせている。

 だが、その平穏は罠だった。


「……来るぞ!」


 レイモンドの叫びと同時だった。

 空間が歪んだ。

 視界がグニャリとねじ曲がり、足元の床が天井になり、壁が床になる。


 重力制御装置グラビティ・コントロール

 このタワー自体が、侵入者を圧殺するための巨大な胃袋なのだ。


「うわぁっ!?」


 美月が悲鳴を上げて落下――いや、上昇する。

 俺は咄嗟にワイヤーを射出し、彼女の腕を掴んだ。

 だが、俺自身の体も重力の濁流に飲み込まれていく。

 上も下もない。あるのは、あらゆる方向から押し寄せるGの暴力だけ。


「捕まってろ!」


 俺は手近な手すりにワイヤーを巻き付け、何とか体を固定する。

 全身の血液が逆流し、視界が赤く染まる。

 これは、ただの重力変化じゃない。

 空間そのものが圧縮されている。


「チッ、派手な歓迎だぜ……!」


 レイモンドが近くの柱にしがみつきながら、悪態をつく。

 彼もまた、顔を歪めて重圧に耐えていた。


 その時、アトリウムの中央に黒い影が現れた。


 漆黒の球体。

 いや、それは球体ではない。

 光さえも吸収する高密度の重力場を纏った、人型の怪物。


 第零種使徒『グラビティ・パペット』。

 かつての英雄の死体を利用して作られた、アルテミスの最高傑作。


『侵入者ヲ確認。……排除シマス』


 声というよりは、振動が空気を伝わってくる。

 怪物が手をかざすと、不可視のハンマーが俺たちを襲った。


 ドォォォン!


 俺たちがしがみついていた手すりが、飴細工のように捻じ曲がる。

 衝撃波で吹き飛ばされる。

 俺と美月は、何とか通気ダクトの縁に着地したが、レイモンドは反対側のキャットウォークへと弾き飛ばされた。


「レイモンド!」

「来るなッ!」


 彼が片手で制止する。

 その瞬間、彼の周囲の空間が黒く染まった。

 局所的重力崩壊。

 彼と俺たちの間にある通路が、重力の渦に飲み込まれて消滅した。

 分断された。


「行け、坊主! ここは俺が食い止める!」

「何を言ってるんだ! 一緒に行くんだろ!」

「無理だ! こいつは……俺がやらなきゃならねえ相手だ!」


 レイモンドが対物ライフルを構える。

 その背中は、かつてないほど大きく見えた。


「娘との約束があるんだ。……父親として、カッコつけさせてくれよ」

「レイモンド……」

「行けぇッ!」


 彼の怒号に背中を押されるように、俺は美月の手を引いて走り出した。

 振り返らない。

 振り返れば、足が止まってしまうから。


 背後で轟音が響く。

 隻腕の狼と、重力の怪物の、最後のダンスが始まった。




(Side:Raymond Fox)


 重い。

 鉛のコートを着せられたような圧迫感が、全身の骨をきしませる。

 この空間の重力は、通常の5倍……いや、10倍か。

 呼吸をするだけで肋骨が折れそうだ。

 内臓が下へ下へと引っ張られ、口の中に鉄の味が広がる。


 だが、悪くない。

 この重さこそが、俺が今、生きているという実感だ。


「よう、怪物さんよ。……随分とご機嫌斜めじゃねえか」


 俺は口元の血を拭い、ニヤリと笑ってみせた。

 目の前に浮かぶ黒い影。

 『グラビティ・パペット』。


 その正体が誰なのか、俺は知っている。

 かつての俺の戦友。

 空軍時代、共に大空を翔けたライバル。

 マイク・ハミルトン少佐。


 あいつも俺と同じだった。空に憧れ、家族を愛し、そして世界に絶望した男。

 戦争で死んだと聞いていたが、まさかこんな姿にされちまってるとはな。

 死体すら利用する。それがアルテミス流のエコロジーってやつか。反吐が出るぜ。


『……排除……排除……』


 マイクの成れの果てが、無機質に呟く。

 その仮面の下に、かつての笑顔はない。


「安心しろ、マイク。……今、楽にしてやる」


 俺は対物ライフルのボルトを引く。

 装填されているのは、徹甲榴弾。

 戦車の装甲すらぶち抜く代物だが、こいつの重力シールドを貫ける保証はない。


「ダンスの時間だ!」


 俺は地面を蹴った。

 ワイヤーを天井の梁に撃ち込み、振り子の要領で加速する。

 重力に逆らうな。重力を利用しろ。

 10Gの加重を、そのまま速度スピードに変換する。


 俺の体は弾丸のように宙を舞った。

 三次元機動。

 かつて宇宙飛行士訓練で培った、無重力空間での身体制御技術。

 それが、この超重力の檻の中で、唯一の翼となる。


 ダァァァン!


 空中で発砲。

 マズルフラッシュが闇を裂く。

 弾丸はマイクの眉間へと吸い込まれる――はずだった。

 だが、着弾の寸前、弾道が急激に下へと曲がる。


 重力偏向。

 奴の周囲だけ重力が異常に強いため、物理法則が捻じ曲げられているのだ。

 弾丸はマイクの足元の床に突き刺さり、虚しく火花を散らす。


『無駄デス』


 マイクが手を振るう。

 不可視の重力波が俺を襲う。

 避ける場所はない。空間そのものが圧縮されているのだから。


「ぐっ……ぁぁぁッ!」


 俺は空中で叩き落とされた蝿のように、床に激突した。

 全身の骨がきしむ音が聞こえた。

 左腕の義手がショートし、火花を吹く。

 痛い。熱い。

 だが、意識は冴え渡っている。


 血反吐を吐きながら、俺は笑った。

 視界の端で、千切れかけた左腕の義手が火花を散らしている。

 痛覚信号はとうにレッドゾーンを振り切っているが、アドレナリンという名の麻薬が脳を焼き、痛みを快楽ノイズへと変換している。


「ハッ……ハハッ! どうしたマイク、その程度かよ!」


 俺は床を這いずりながら挑発する。

 グラビティ・パペット――かつての戦友マイク・ハミルトンは、無機質な沈黙を守ったまま、ただ掌の重力球を圧縮し続けている。

 その球体の中には、光すら脱出できない事象の地平線が見える。


 昔のマイクは、もっとお喋りな男だった。

 訓練の合間、食堂の安っぽいコーヒーを啜りながら、よく娘の自慢話を聞かされたものだ。

 『俺の娘は天才だ』『将来はNASAに入る』『いや、俺と一緒に火星へ行くんだ』。

 バカ親丸出しの笑顔。


 俺たちは似た者同士だった。

 空に憧れ、家族を何よりも愛し、そして世界に裏切られた敗残兵。


 だが、今のあいつには何も残っていない。

 愛も、夢も、後悔さえも。

 ただアルテミスの命令を実行するだけの、悲しい肉人形だ。


「……可哀想になぁ」


 俺はライフルの銃身を杖代わりにして、よろりと立ち上がった。

 全身の骨が軋む。重力が俺を押し潰そうと咆哮している。

 だが、ハートだけは、羽根のように軽い。


「俺は恵まれてたよ。……最後に、守りたいもんを見つけられたからな」


 レンと美月。

 あの不器用なガキ共の顔が脳裏に浮かぶ。

 最初はただの仕事だった。

 金のための護衛。爆弾を運ぶだけの任務。

 だが、いつの間にか俺は、あいつらの中に「かつての自分」を見ていた。

 理不尽な世界に抗い、傷つきながらも前へ進もうとする、あの愚直な眼差し。


 俺が失ったものを、あいつらはまだ持っている。

 俺が守れなかった未来を、あいつらは掴もうとしている。


 だったら、大人の役目は一つだろ。

 その未来への道を、掃除してやることだ。


「なぁ、マイク。……俺たち、どこで間違えちまったんだろうな」


 俺は懐のペンダントを取り出した。

 血まみれの手で握りしめる。

 中に入っているのは、二人の笑顔の写真と、もう一つ。

 小型の起爆装置。


 走馬灯が見える。

 俺の人生のハイライト。

 初めて戦闘機に乗った時の高揚感。

 妻と出会った日の、恥ずかしいくらいの青空。

 娘が生まれた日の、あの小さく温かい重み。


 『パパ、お月様に行こうね!』


 娘の声が聞こえた気がした。

 ああ、そうだ。

 約束したんだったな。

 月へ行くって。


「……待たせたな。今、帰る」


 俺は笑った。

 恐怖はない。あるのは、やり遂げるという確信だけ。


 マイクがゆっくりと近づいてくる。

 止めを刺すつもりだ。

 その掌に、ブラックホールのような闇が凝縮されていく。


「なぁ、マイク。……お前も、空に行きたかったんだろ?」

「俺たちは間違っちゃいなかった。……ただ、時代が悪かっただけだ。神様アルテミスの機嫌が悪かっただけだ」


 俺は残った右腕で、ライフルの銃身を奴の懐へと突き出した。

 撃つんじゃない。

 突き刺すんだ。

 奴の重力圏の内側、ゼロ距離まで。


「重力なんざで……俺たちのソウルまで縛れると思うなよッ!」


『警告。接近ヲ――』


 遅い。

 俺は既に、トリガーに指をかけている。

 だが、引くのはライフルの引き金じゃない。

 俺の心臓ハートに直結した、最後のスイッチだ。


 俺はこのフロアの構造を知っている。

 この真下には、タワーのメイン動力炉へ続くパイプラインが通っている。

 ここで俺が自爆すれば、そのエネルギーは連鎖し、タワー全体を揺るがす巨大な一撃となるはずだ。

 レンたちが上へ行くための道を、俺の命で切り拓く。


 だからこそ、俺はここで終わらせる。

 俺たちの世代の負債は、俺たちが払う。

 次の世代に、この呪いを持ち越させるわけにはいかねえんだよ。


「さよならだ、相棒。……地獄でまた、一杯やろうぜ」


 坊主。美月嬢。

 後は頼んだぜ。

 お前らなら、きっと変えられる。

 1+1が無限大になるような、そんな馬鹿げた世界に。


「……いい旅だったぜ、坊主」


 俺は呟いた。

 通信機は生きている。奴に聞こえているはずだ。

 これが俺からの、最後の教えだ。


 大人はな、子供のためなら笑って死ねるんだよ。


 俺はスイッチを押した。


 カチリ。


 その瞬間、世界が白く染まった。

 熱も、痛みも、重力さえも消え去り。

 俺はただ、青い空へと吸い込まれていった。


 そこには、妻と娘が待っていた。

 手を振って、俺を迎えてくれている。

 俺は翼を手に入れた。

 誰にも縛られない、自由な翼を。


 さあ、行こうか。

 約束の場所へ。




(Side:Ren Tsukioka)


 ドォォォォォォン……!


 足元から突き上げるような衝撃。

 タワー全体が悲鳴を上げ、壁に亀裂が走る。


 俺は立ち止まった。

 美月も息を呑んで振り返る。


 下層からの熱風が、通気口を通って吹き上げてくる。

 その風には、硝煙の匂いと、どこか懐かしいタバコの香りが混じっていた気がした。


 爆音の余韻が、鼓膜ではなく、骨を震わせている。

 足元の床から伝わってくる熱量。

 それは単なる火薬の熱ではない。一人の男の命が燃え尽きた、魂の熱波だ。


 俺は立ち止まり、その震動を足の裏で感じ取っていた。

 逃げなければならない。一刻も早く、上へ行かなければならない。

 頭では分かっているのに、体が鉛のように重い。


「レイモンド……さん……」


 美月が口元を押さえて泣き崩れる。

 俺は拳を握りしめた。

 爪が食い込み、血が滲む。


 分かっていた。

 あの時、彼がどんな顔をしていたか。

 死にに行く人間の顔じゃなかった。

 役目を全うしようとする、誇り高い男の顔だった。


 レイモンド・フォックス。

 出会った時は、ただの胡散臭いオッサンだと思っていた。

 皮肉屋で、酒臭くて、どこか投げやりで。

 でも、その背中は誰よりも広かった。

 あの荒野で、何度も俺たちを庇ってくれた。

 剣の振り方を教えてくれた。

 生きるための狡さと、死ぬための覚悟を教えてくれた。


 失った父さんの代わりに、俺を導いてくれた人。


『……いい旅だったぜ、坊主』


 耳元のインカムから、ノイズ混じりの最期の言葉が聞こえた。

 震える声でも、悲鳴でもない。

 満足げな、いつもの軽口のような声。


 いい旅?

 ふざけるな。

 こんな血みどろの逃避行のどこが良い旅なんだ。

 もっと美味いものを食って、柔らかいベッドで寝て、馬鹿話をしながら笑い合う。

 そんな旅をしたかった。

 あんたともっと、くだらない話をしたかった。


「……くそッ!」


 俺は壁を殴りつけた。

 拳から血が滲む。痛みで涙を誤魔化そうとしたが、視界が滲んで止まらない。

 悲しみじゃない。

 これは怒りだ。

 こんな理不尽な別れを強いる世界への。

 大切な人を次々と奪っていく神への、底なしの憎悪だ。


「……ああ」


 俺は噛み締めるように答えた。

 涙は出なかった。

 泣いている暇なんてない。

 彼が命を賭して切り拓いてくれたこの道を、一歩でも無駄にすれば、それこそ彼への冒涜だ。


「レンくん……」


 美月が俺の拳に、そっと自分の手を重ねた。

 彼女も泣いていた。

 でも、その瞳は強い光を宿していた。


「行こう。……レイモンドさんの想いを、無駄にしちゃいけない」


 彼女の言葉が、俺の心臓を叩いた。

 そうだ。

 ここで立ち止まっていたら、あのおっさんにあの世で笑われる。

 『泣いてる暇があったら剣を振れ』って、煙草の煙を吹きかけながら言われるに決まってる。


 俺は涙を拭った。乱暴に、袖口で。

 顔を上げる。

 螺旋階段の先、遥か上空に、アルテミスの中枢がある。


「行くぞ、美月」


 俺は美月の肩を抱き、立たせた。


「彼がくれたチャンスだ。……絶対に、神の首を獲る」


 俺の瞳に宿るのは、復讐の炎ではない。

 託された意志の光。

 それはどんな闇よりも熱く、鋭く輝いていた。


 待っていろ。

 俺は『月影』の柄を握りしめた。

 その冷たさが、燃えるような俺の心を冷やし、鋭利な殺意へと研ぎ澄ませていく。


 レイモンドの分まで、俺が斬る。

 その傲慢な神の座から引きずり下ろし、地べたに這いつくばらせてやる。


 俺は一歩を踏み出した。

 その足音は、先ほどまでの迷いを含んだものとは違う。

 確固たる意志を持った、復讐者であり、継承者の足音。


 背後の爆炎が、俺たちの影を長く、黒く伸ばしていた。

 それはまるで、死んでいった者たちが俺たちの背中を押してくれているようだった。

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