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第十一話:神殺しの前夜祭(イヴ・オブ・デストラクション)

 帰ってきた。

 そう実感したのは、匂いのせいだった。


 地下搬入路の重厚なハッチをこじ開けた瞬間、鼻腔を満たしたのは、懐かしくも忌まわしい人工空気の匂い。

 埃っぽさも、鉄錆の臭いもしない。

 無臭であることが逆に鼻につく、徹底的に濾過され、消毒され、管理された「清潔」という名の悪臭。


 ネオトーキョー。

 かつて俺が生まれ育ち、そして捨てた故郷。


「……空気が薄いな」


 隣でレイモンドが顔をしかめた。

 彼は荒野の荒々しい風に慣れてしまった肺を、この無菌室のような空気に馴染ませようと、浅く呼吸を繰り返している。


「酸素濃度は最適化されてるはずだ。……ただ、生気がないだけだ」

「違いねえ。まるで死体安置所の空気だぜ」


 俺たちは地下搬入路の陰から、地上エリアを窺った。


 深夜二時。

 環境制御ドームの天井には、偽物の星空が投影されている。

 街は眠っている。いや、機能停止スリープモードに入っていると言った方が正しい。

 規則正しく並んだ高層ビル群の窓には明かりがなく、道路を行き交うのは清掃用ドローンと、巡回警備の自律型ロボットだけ。


 静寂。

 それは安らぎではなく、圧倒的な「管理」の重圧だった。


「さて、どうする? 正面からタワーに殴り込みってわけにゃいかねえぞ」


 レイモンドが携帯端末で地図を表示させる。


 アルテミス・タワーは都市の中央、第一区画にそびえ立っている。

 ここ、第十三区画からは直線距離で約一〇キロメートル。

 だが、その間には数え切れないほどの検問と、監視カメラ、そして自動防衛システムが張り巡らされている。


「地下鉄跡を使う」

「またか? 芸がないな」

「一番確実だ。……それに、俺には土地勘がある」


 俺は美月の手を引いた。

 彼女はフードを目深に被り、震える体温を隠すように身を縮めている。

 その顔色は悪い。

 反乱軍のアジトでの一件以来、彼女の中の「何か」が、急速に侵食を進めているのが分かる。時折、彼女の瞳が金色に明滅し、焦点が合わなくなる。


 時間がない。


「行こう。……夜明けまでには、タワーの足元までたどり着く」


 俺たちは闇に溶けるように、巨大都市の胃袋へと潜り込んだ。



 地下鉄の廃線跡は、地上の清潔さとは裏腹に、かつての東京の残骸がそのまま放置された墓場だった。

 崩落したトンネル。水没した駅のホーム。

 壁にはスプレーで描かれた古いグラフィティが残っている。『NO FUTURE』『AI IS GOD』。

 かつての人々が抱いた絶望と狂信の痕跡。


 俺たちは線路の上を歩いた。

 枕木の腐った匂いと、澱んだ水の音が響く。


「……ねえ、レンくん」


 美月がポツリと口を開いた。


「ここ、来たことある気がする」

「え?」

「ううん、私じゃない。……私の中の『誰か』が、ここを知ってるって言ってるの」


 彼女は自分の胸元をぎゅっと握りしめた。


「アルテミスが作られる前……もっと昔の記憶。……ここで、誰かと手を繋いで歩いた記憶があるの」

「……それは、志村博士の記憶かもしれないな」


 レイモンドが前を歩きながら言った。


「博士はこの計画のために、自分の脳データの一部をアルテミスの基礎設計に使ったって噂があった。……もしそうなら、お前さんの中にあるのは、母親の記憶そのものかもしれねえ」


 母親の記憶。

 美月はハッとして、周囲を見回した。

 その瞳に、懐かしさと寂しさが混じった色が浮かぶ。


「お母さん……」


 彼女が立ち止まったのは、古びたベンチの前だった。

 朽ち果てて、骨組みだけになったベンチ。

 そこに、幽霊のような影が見えた気がした。

 幼い子供を膝に乗せて笑う、若い女性の姿。


「……ここで、お母さんは泣いてた」


 美月が夢遊病のように呟く。


「『ごめんね』って。……『あなたをこんな世界に産んでしまってごめんね』って」


 彼女の頬を涙が伝う。

 それは美月の涙なのか、それとも母親の記憶が流させているのか。


「……謝る必要なんてないのに」


 俺は彼女の肩を抱いた。


「お前が生まれてきてくれて、俺は嬉しかった。……出会えてよかったと思ってる」

「レンくん……」

「だから、泣くな。……母親の記憶に引きずられるな。お前はお前だ」


 俺の言葉に、彼女は小さく頷き、涙を拭った。

 だが、その指先が微かに震えているのを、俺は見逃さなかった。

 境界線が揺らいでいる。

 過去と現在。自分と他人。人間と機械。

 その全てが混ざり合い、彼女という個を溶かそうとしている。


 俺は彼女の手を強く握り直した。

 離さない。

 たとえ世界が彼女を消そうとしても、俺だけは彼女をここに繋ぎ止めてやる。


 その時。

 ブォン……という低い駆動音が、トンネルの奥から響いてきた。


「……チッ。お出ましだ」


 レイモンドがライフルを構える。

 闇の奥から現れたのは、球体のボディに無数のセンサーを備えた、自律型偵察ドローン『アルゴス』だった。

 戦闘能力は低いが、一度見つかれば即座に位置情報を送信し、戦闘部隊を呼び寄せる厄介な監視者ウォッチャー


「隠れろ!」


 俺たちは物陰に身を潜めた。

 アルゴスのサーチライトが、トンネル内を舐めるように走査する。

 青白い光が、俺たちの隠れている瓦礫の山を掠める。

 息を殺す。心拍数を下げる。

 体温を感知されないように、美月を抱き寄せて俺の体温でカバーする。


 ウィーン……カシャッ。


 ドローンが首を振り、何かを探すように旋回する。

 見つかったか?

 俺は『月影』の柄に手をかける。

 斬るなら一撃だ。通信を送られる前に、中枢回路を断つ。


 だが、ドローンは数秒の停滞の後、興味を失ったように飛び去っていった。

 遠ざかる駆動音。


「……ふぅ。危ないところだったな」


 レイモンドが安堵の息を吐く。


「この地下道も、もう安全じゃねえってことか。……急ぐぞ。夜明けまであと数時間だ」


 俺たちは再び歩き出した。

 闇の中を。

 希望という名の微かな光を求めて。



 タワーへの侵入ルートを探すため、俺たちは一時的に地上へ出る必要があった。

 選んだ場所は、第十三区画の端にある廃墟エリア。

 七年前の爆撃で壊滅し、そのまま封鎖されたゴーストタウン。

 そこは、俺の生家があった場所でもあった。


 マンホールを押し上げ、地上へ顔を出す。

 冷たい夜風が頬を撫でる。

 周囲には、崩れかけたビルの残骸が墓標のように並んでいる。


「……ここか」


 俺は瓦礫の山を見上げた。

 かつて、ここに俺の家があった。

 父がいて、母がいて、平凡だけど温かい日常があった場所。

 今はただのコンクリートの塊と、捻じ曲がった鉄骨があるだけだ。


「懐かしいか?」


 レイモンドが聞いた。


「いや。……ただの残骸だ」


 強がりを言ったつもりだったが、声が震えていたかもしれない。

 俺は瓦礫の中に足を踏み入れた。

 何かを探すわけでもない。ただ、確かめたかった。

 自分がここで生まれ、ここで全てを失ったという事実を。


 足元に、何かが埋もれているのが見えた。

 拾い上げる。

 それは、煤けて変色した、一枚の写真立てだった。

 ガラスは割れ、中の写真は半分焼けてしまっていたが、そこに写っている笑顔は判別できた。

 幼い俺と、父と母。

 七年前のあの日、俺が見ていた光景。


「……親父、母さん」


 胸の奥が締め付けられる。

 復讐のために生きてきた。

 AIを憎み、世界を憎み、刀を振るい続けてきた。

 だが、本当に欲しかったのは、敵の首なんかじゃない。

 ただ、この写真の中にあるような、当たり前の幸せを取り戻したかっただけなんだ。


「レンくん……」


 美月がそっと、俺の背中に手を添えた。


「辛かったね」

「……ああ。でも、もういいんだ」


 俺は写真を懐にしまった。

 過去は過去だ。

 今の俺には、守るべき「現在いま」がある。


「ここを拠点にする。……レイモンド、タワーへのルート解析を頼む」

「了解。……AIの警備網の穴を見つけ出すには、少し時間がかかるぞ」

「構わない。……少し休もう」


 俺たちは廃ビルの地下室、かつて駐車場だった場所に身を隠した。

 湿気てカビ臭いが、外よりはマシだ。

 レイモンドが携帯端末を展開し、複雑な立体地図を表示させてハッキングを開始する。

 キーボードを叩く音だけが響く。


 俺と美月は、コンクリートの床に座り込んだ。

 疲労がどっと押し寄せてくる。

 ここ数日、まともに眠っていない。体力の限界は近い。


「……ねえ、レンくん」


 美月が膝を抱えて、ぽつりと言った。


「もし……もしも私たちが、普通の高校生として出会ってたら、どうなってたかな」

「普通?」

「うん。……AIもなくて、戦争もなくて、機械の体でもなくて。……ただのクラスメイトとして」


 彼女は目を閉じて、想像の世界に遊ぶように語り始めた。


「きっと、最初は話しかける勇気がなくて、遠くから見てるだけだったと思う。……レンくん、いつも怖い顔して窓の外を見てたから」

「……そんなに怖い顔してたか?」

「うん。一匹狼って感じで、近寄りがたかった。……でも、放課後の掃除当番とかで一緒になって、少しずつ話すようになって……」


 彼女の空想(if)の物語。

 それはあまりにも些細で、平凡で、そして眩しい日常の風景だった。

 一緒に教科書を忘れて怒られたり、購買部のパンを半分こしたり、テスト勉強をしたり。

 そんな、どこにでもある青春。

 でも、俺たちには決して手に入らない奇跡。


「……俺は数学が苦手だからな。お前に教えてもらってたかもしれない」

「ふふっ。スパルタだよ? 私、教えるの厳しいから」

「勘弁してくれよ」


 俺たちは笑い合った。

 薄暗い地下室で、泥だらけの服を着て、明日死ぬかもしれない状況で。

 それでも、この会話をしている時だけは、俺たちはただの高校生になれた気がした。


「……行きたかったな」


 美月の笑顔が、ふっと曇った。


「修学旅行も、文化祭も、卒業式も。……全部、やってみたかった」

「……」

「でも、もう無理なんだよね。……私、ここから生きて出られる気がしないの」


 彼女の声が震える。

 死の予感。

 それは彼女の中の「神」が告げる、冷徹な未来予測なのかもしれない。


「言うな」


 俺は彼女を強く抱き寄せた。


「無理じゃない。……俺が叶えてやる。文化祭も、卒業式も、全部だ」

「レンくん……」

「俺たちは生きる。生きて、このクソったれな世界を変えるんだ。……だから、諦めるな」


 俺の言葉は、自分自身への言い聞かせでもあった。

 諦めたらそこで終わりだ。

 確率ゼロの壁を、もう一度ぶち壊すんだ。


 その時。

 レイモンドが手を止めた。


「……ビンゴだ」


 彼は端末の画面をこちらに向けた。

 そこに表示されたのは、タワーの地下深くに伸びる一本の通気ダクト。

 それは、建設当時の古い図面にしか載っていない、廃棄されたメンテナンスルートだった。


「ここだ。……『アルテミスのへそ』」

「臍?」

「ああ。メインフレームの冷却システムの排熱口だ。……ここからなら、警備網をスルーして、一気に最上階近くまで登れる」


 レイモンドが不敵に笑う。


「ただし、地獄の熱さだぞ。……生身の人間が通れば、蒸し焼きになるかもしれねえ」

「構わない」


 俺は立ち上がった。


「地獄なら慣れっこだ。……行こう、神殺しの時間だ」

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