第十話:誰のための平和(ピース・フォー・フーム)
目が覚めると、そこは鉄格子の向こう側だった。
冷たいコンクリートの床。
薄暗い裸電球。
そして、鼻をつくカビの臭い。
反乱軍のアジトの最下層にある、独房エリアだ。
「……目が覚めたか、眠り姫」
隣の独房から声がした。
鉄格子の隙間から覗くと、レイモンドが壁に寄りかかって座っていた。
彼の手足には手錠はかけられていないが、武器はもちろん没収されている。
「……どれくらい寝てた?」
「3時間ってとこだ。……まだ夜明け前だ」
俺は頭を振る。後頭部がズキズキと痛む。
状況を確認する。
『月影』がない。携帯端末もない。
完全に丸腰だ。
「美月は……?」
「調整室だろうな。……明日の朝には、タワーに向けて出発だ」
「くそっ……!」
俺は鉄格子を拳で殴りつけた。
ガンッ!
虚しい音が響くだけだ。
「なんで止めなかったんだ、レイモンド! あんたも分かってただろ! あいつらが美月を殺そうとしてるって!」
「分かってたさ。……だから、俺は一度ここを抜けたんだ」
レイモンドは懐から、隠し持っていたタバコを取り出した。
火をつけるライターはないが、彼はそれを口にくわえて、苦い顔をした。
「俺はな、元々この計画の警護主任だった。……志村博士とも、美月嬢とも面識があった」
「……」
「博士は言ってたよ。『娘を兵器にするなんて狂ってる。でも、そうしなきゃ人類に未来はない』ってな。……泣きながら、娘の体にメスを入れてた」
彼はタバコを噛む。
「俺はそれに耐えられなかった。……自分の家族を守れなかった俺が、他人の子供が犠牲になるのを見過ごすなんて、何の冗談だってな。……だから俺は逃げた。軍を辞めて、荒野を彷徨った」
彼の独白。
彼の中にも、俺と同じ葛藤があったのだ。
「でも、戻ってきた。……結局、俺には何もできなかったからな。……美月嬢を連れてきたのも、心のどこかで『これが正しいのかもしれない』って思おうとしてた自分がいたからだ」
レイモンドは自嘲気味に笑った。
「70億人を救うために1人を殺す。……算数としては正解だ。大佐の言う通り、これが大人の正義ってやつなんだろうよ」
「……違う」
俺は否定した。
静かに、だが明確に。
「それは正義じゃない。ただの諦めだ」
「あ?」
「1人を犠牲にして得られる平和なんて、アルテミスが与えてくれる『飼育』と何が違うんだ? ……誰かを泣かせて笑う世界なんて、俺は認めない」
俺はレイモンドを睨みつけた。
「あんたは言ったよな。俺の計算外の行動が武器になるって。……だったら、今ここで計算してみろよ。ここから脱出して、美月を助け出して、世界も救う確率を」
「……ゼロだ」
「いいや。俺とあんたがいれば、100%だ」
根拠のない自信。
馬鹿げた理屈。
だが、俺の言葉を聞いて、レイモンドの目が少しだけ見開かれた。
そして、彼はニヤリと笑い、くわえていたタバコを床に吐き捨てた。
「……ハッ。相変わらずイカれたガキだ」
彼は立ち上がり、鉄格子に近づいた。
「ああ、そうだ。俺たちは大人ぶって、賢いフリをして、一番大事なもんを忘れちまってた。……ヒーローってのは、いつだって計算間違いをするもんだ」
彼の目に、地下水路で見た時のような狂気が宿る。
「乗ったぜ、坊主。……ここを出るぞ。そして、あのお偉いさんたちの自慢の作戦を、俺たちでグチャグチャに書き換えてやろうじゃねえか」
反撃の狼煙が上がる。
牢獄の中で結ばれた、世界への宣戦布告。
俺たちはもう、誰の正義にも従わない。
俺たちの正義で、この世界を救ってやる。
鉄格子の冷たさが、頬に伝わってくる。
地下五層。反乱軍アジトの最深部にある独房エリアは、地上から最も遠い場所であり、希望からも最も遠い場所だった。
空調の音が、低い唸り声のように響いている。
「……なぁ、坊主」
隣の独房から、レイモンドの低い声がした。
「看守の足音が聞こえるか?」
「ああ。二人だ。……五分おきに巡回に来る」
「規則正しいこった。AIの真似事でもしてるつもりかね」
レイモンドは鉄格子に背中を預けながら、手の中にある「何か」を弄んでいる。
それは、さっき彼が靴底のゴムを剥がして作った、小さな即席の道具だった。
「俺が合図したら、お前は大声で騒げ。腹が痛いでも、吐きそうだでも何でもいい」
「分かった。……で、どうするんだ?」
「古典的だが、一番確実な手さ」
彼はニヤリと笑った。
カツ、カツ、カツ。
軍靴の音が近づいてくる。
二人の兵士だ。自動小銃を肩から下げ、腰にはスタンロッドを吊るしている。彼らの表情は仮面のように無機質だが、その奥には倦怠と油断が見え隠れしていた。
ここは地下深くの牢獄。
武器も持たない囚人が暴れたところで、何ができるというのか。
そんな慢心が、彼らの隙を生んでいた。
足音が俺たちの独房の前で止まる。
「異常なし。……おい、起きろ。点呼だ」
兵士の一人が、警棒で鉄格子を叩く。
ガンッ!
不快な金属音。
今だ。
レイモンドが指を鳴らした。
「う、うあぁぁぁッ!」
俺は腹を押さえて、床に転げ回った。
「い、痛い! 腹が……腹が裂けるッ!」
「なんだ? どうした!」
「水……水をくれ! 毒を盛られたんじゃないか!?」
俺の迫真の演技に、兵士たちが顔を見合わせる。
毒殺などありえない。だが、もし「重要なサンプル」である美月の護衛役がここで死ねば、彼らの責任問題になる。
「おい、鍵を開けろ。様子を見るぞ」
「でも、大佐の許可が……」
「死なれたら困るんだよ! 早くしろ!」
電子ロックが解除される音がした。
プシュッ。
扉が開く。
兵士が中に入ってくる。
「おい、しっかりしろ。どこが痛いんだ」
兵士が俺の肩を掴んで覗き込もうとした、その瞬間。
ヒュッ。
空気を切る音がした。
隣の独房から、黒い影が飛び出してきた。
レイモンドだ。
彼はいつの間にか、靴底のゴムで作った即席のピッキングツールで、自らの独房の鍵を解錠していたのだ。
「悪いな、お休み(おやすみ)の時間だ」
レイモンドの手刀が、見張りの兵士(外にいた方)の首筋に深々と突き刺さる。
声もなく崩れ落ちる兵士。
中の兵士が振り返ろうとした時には、俺はすでに動いていた。
腹痛など嘘だ。
俺は跳ね起き、兵士の顎を下から掌底で打ち上げた。
ガッ!
脳が揺れる衝撃。
兵士の目が白黒する。
俺はそのまま彼の襟首を掴み、壁に叩きつけた。
「ぐっ……!」
二人の兵士は、わずか数秒で沈黙した。
俺たちは彼らのポケットを探り、IDカードと通信機、そしてスタンロッドを奪った。
「上出来だ」
レイモンドが気絶した兵士から自動小銃を奪い、慣れた手つきで弾倉を確認する。
「ここから先はステルスミッションだ。……と言いたいところだが、俺たちは派手に行くぞ」
「ああ。隠れてる時間なんてないからな」
俺はスタンロッドを握りしめた。
軽い。いつもの『月影』に比べればオモチャのような軽さだが、今はこれが俺の牙だ。
「まずは武器庫だ。俺の刀と、あんたの装備を取り返す」
「了解。……武器庫は第三層だ。そこまで行くのに、最低でも二つの検問がある」
レイモンドがIDカードを端末にかざし、エリアマップを表示させる。
「エレベーターは使うな。あそこは監視が厳しい。……通気ダクトか、整備用の通路を使う」
「整備通路にしよう。ダクトじゃ狭すぎて戦えない」
俺たちは倒れた兵士を独房に押し込み、鍵をかけた。
これで少しは時間稼ぎになるだろう。
廊下に出る。
冷たい空気が肌を刺す。
俺たちの反撃が始まった。
整備用通路は、アジトの血管のように張り巡らされていた。
配管が剥き出しになり、蒸気が噴き出す狭い通路。
そこには、かつての採掘作業で使われていた旧式のドローンや、錆びついたトロッコが放置されていた。
俺たちは足音を殺して進む。
「……止まれ」
レイモンドが手信号を送る。
角の向こうから、話し声が聞こえてきた。
「……本当かよ? あの娘をタワーに突っ込むって」
「ああ。大佐の命令だ。……なんでも、生きたまま脳みそを焼き切るらしいぜ」
「げぇっ。可哀想になぁ。……ま、それで俺たちが美味い飯を食えるようになるなら、安いもんだがな」
二人の整備兵が、タバコを吹かしながら歩いてくる。
その会話の内容に、俺の血が沸騰する。
可哀想? 安いもん?
あいつらは美月の命を、自分たちの明日の対価としか思っていないのか。
殺意が湧く。
飛び出して殴りつけたい衝動に駆られる。
だが、レイモンドが俺の肩を強く掴んで制止した。
「……冷静になれ。ここで騒ぎを起こせば、美月嬢の元へたどり着く前に蜂の巣だ」
「でも……!」
「感情で動くな。目的を見失うな」
彼の目は冷徹だった。
俺は深呼吸をして、荒ぶる心を鎮める。
整備兵たちが通り過ぎるのを待つ。
彼らの背中が遠ざかった後、俺たちは再び動き出した。
第三層。武器庫エリア。
ここは警備が厳重だ。
重厚な鋼鉄の扉の前には、二体の自律型警備ロボットと、四人の完全武装した兵士が立っている。
「……正面突破は無理だな」
「どうする?」
「陽動だ。……俺が配電盤をショートさせて停電を起こす。その隙に、お前は換気口から中に侵入しろ」
レイモンドが懐からプラスチック爆弾(先ほど武器庫からくすねてきたわけではなく、靴底に隠していた少量のものだ)を取り出す。
「3分やる。……その間に、自分の刀と、俺の『恋人』を見つけ出せ」
「分かった」
俺は天井付近にある換気口へとよじ登った。
狭いダクトの中を這い進む。
埃と油の臭いが鼻をつく。
下からは、兵士たちの話し声と、ロボットの駆動音が聞こえてくる。
武器庫の真上まで来た。
格子の隙間から下を覗く。
広大な倉庫には、数え切れないほどの銃火器、弾薬、そして押収された俺たちの装備が並べられていた。
『月影』は、一番奥の棚に置かれていた。
まるで、危険物として特別扱いされているかのように。
その時。
バヂヂッ!
遠くでショート音が響き、照明が一斉に落ちた。
「なんだ!?」
「停電か! 予備電源を入れろ!」
「侵入者か!?」
混乱する兵士たち。
ロボットのセンサーライトが赤く明滅し、闇を切り裂くように動き回る。
今だ。
俺は格子のネジを外し、音もなく床へと降り立った。
闇の中を疾走する。
兵士たちのライトが交差する中を、影のようにすり抜ける。
目指すは『月影』。
あった。
俺は愛刀の柄を掴んだ。
ずしり、とした重み。
冷たい鞘の感触。
これだ。これがなければ、俺は俺でいられない。
鯉口を切る。
微かな金属音に、近くにいた兵士が反応する。
「誰だッ!」
ライトが俺を照らす。
俺はニヤリと笑い、刀を抜いた。
「忘れ物を取りに来ただけだよ」
兵士が銃を構えるより早く、俺は踏み込んだ。
峰打ち。
首筋に一撃。
兵士は声もなく崩れ落ちる。
「敵襲ッ! 倉庫内に侵入者あり!」
サイレンが鳴り響く。
予備電源が入り、薄暗い赤色の照明が点灯する。
武器庫の扉が開き、外にいた警備兵たちが雪崩れ込んでくる。
レイモンドもまた、その混乱に乗じて正面から突入してきた。
「お待たせ! パーティーの始まりだぜ!」
彼は奪ったアサルトライフルを乱射し、警備ロボットのセンサーを破壊する。
俺はレイモンドの元へ走り、彼の愛用していた対物ライフルと装備一式を投げ渡した。
「サンキュー、坊主! やっぱこいつがねえと落ち着かねえ!」
レイモンドは水を得た魚のように動き出す。
対物ライフルの轟音が、狭い倉庫内に反響する。
ロボットの装甲が紙屑のように吹き飛ぶ。
「行くぞ! 次はラボだ!」
俺たちは弾幕を張りながら、武器庫を脱出した。
アジト全体が蜂の巣をつついたような騒ぎになっている。
だが、それがいい。
混乱こそが、俺たちの味方だ。
第四層、研究区画。
ここは先ほどまでとは空気が違った。
白一色の無機質な廊下。消毒液の臭い。
そして、立ち塞がるのは一般兵ではない。
黒い強化スーツに身を包んだ、反乱軍のエリート部隊『黒の近衛兵』。
「止まれ。ここから先は立ち入り禁止だ」
隊長らしき男が、両手に持った高周波ブレードを構えて立ちはだかる。
その後ろには、十数名の部下たち。
彼らの目は、洗脳されたように冷たい。
「……ジョージか」
レイモンドが足を止めた。
彼の声に、苦い色が混じる。
「知り合いか?」
「ああ。……俺がここにいた頃の、元部下だ。真面目で、融通の利かない優等生だったよ」
ジョージと呼ばれた男は、レイモンドを見ても表情を変えなかった。
「フォックス大尉。……いや、今は裏切り者のフォックスか。残念です。あなたがこのような愚行に走るとは」
「愚行ね。……子供一人を犠牲にして得る平和が、そんなに大事かよ?」
「大義のためには、犠牲はつきものです。あなたも軍人なら理解できるはずだ」
ジョージがブレードを交差させる。
キィィィン……と不快な音が鳴る。
超振動する刃。触れれば鉄骨さえもバターのように切断する凶器だ。
「俺は軍人である前に、人間でありたいんでね」
レイモンドがライフルを構える。
俺も『月影』を正眼に構えた。
交渉の余地はない。
「排除する」
ジョージの号令と共に、黒の近衛兵たちが一斉に襲いかかってきた。
速い。
強化スーツのアシストにより、彼らの身体能力は人間の限界を超えている。
俺は先頭の兵士のブレードを、刀の側面で受け流す。
ガギッ!
重い。
パワーでも負けている。
だが、動きが単調だ。強化スーツの予測プログラムで最適化された動きは、俺たちにとっては「読みやすい」。
「甘いッ!」
俺は力を抜き、相手の力が流れる方向に体を合わせる。
柔道の要領。
相手の勢いを利用して、背負い投げを決める。
兵士が壁に激突し、スーツの制御系がスパークする。
レイモンドの方はもっと派手だった。
彼はライフルを鈍器のように振り回し、接近してくる敵を殴り飛ばしながら、ゼロ距離射撃でスーツの関節部を撃ち抜いていく。
『ガン・カタ』のような、洗練された暴力。
「坊主! ジョージは俺がやる! お前は先に行け!」
「でも!」
「美月嬢が待ってるんだろ! ここは俺に任せろ!」
レイモンドがジョージと激しく斬り結ぶ。
高周波ブレードと、ライフルの銃身が火花を散らす。
かつての上司と部下。
互いの手の内を知り尽くした者同士の、悲しい殺し合い。
「……死ぬなよ、レイモンド!」
「誰にモノ言ってやがる! とっとと行け!」
俺はレイモンドの背中を見送り、奥の扉へと走った。
背後で爆発音がする。
俺は振り返らない。
信じるしかない。
あの男が、こんなところでくたばるタマじゃないことを。
最深部、調整室。
重厚な気密扉を、俺はIDカードのハッキングで無理やりこじ開けた。
プシュウウウ……と空気が漏れる音と共に、扉が開く。
中は、まるで巨大な手術室のようだった。
中央に鎮座する、ガラス張りのカプセル。
無数のケーブルとモニターに囲まれたその中に、美月がいた。
彼女は裸で、培養液のような青い液体の中に浮かんでいた。
体中に電極が貼り付けられ、目を閉じている。
口には呼吸器が装着され、胸元のアルテミス・ユニットが、激しく明滅している。
「美月ッ!」
俺が駆け寄ろうとした瞬間、行く手を阻む者がいた。
「……やはり来たか。愚かな」
ギルバート大佐だ。
彼はモニターの前で腕を組み、冷ややかな視線を俺に向けていた。
その横には、二体の巨大な警備用パワードスーツが控えている。
「そこをどけ! 美月を返せ!」
「返せ? 彼女はもう、我々のものではない。……間もなく、彼女は神となる」
大佐がモニターを指差す。
そこには、データ転送の進捗状況を示すバーが表示されていた。
『初期化プロセス:80%完了』。
『人格データ消去:進行中』。
消去。
その二文字が、俺の理性を焼き切った。
「やめろぉぉぉぉッ!」
俺は咆哮し、『月影』を振り上げた。
パワードスーツが立ちはだかる。
鋼鉄の拳が、俺を押し潰そうと迫る。
見えた。
その軌道。その圧力。
俺の中で、何かが弾けた。
リミッターが外れる音。
斬る。
鉄だろうが、運命だろうが、全部斬る。
「――一ノ太刀・月読ッ!」
俺は刀身に全神経を集中させる。
物理的な切断力だけではない。
俺の意志、俺のエゴを刃に乗せる。
ズンッ!
鈍い音がした。
パワードスーツの腕が、肩から滑り落ちる。
断面は鏡のように滑らかだった。
分厚い装甲も、複合素材の骨格も、関係ない。
俺の『月影』は、そこに在るという「概念」ごと断ち切ったのだ。
「なっ……!?」
大佐が目を見開く。
俺は止まらない。
二体目のパワードスーツの懐に飛び込み、そのコクピットハッチを突き破る。
中のパイロットを引きずり出し、床に叩きつける。
「システム停止させろ! 今すぐだ!」
俺は大佐の胸倉を掴み、モニターへと押し付けた。
「で、できん! プロセスは不可逆だ! 今止めたら、彼女の脳が焼き切れるかもしれんぞ!」
「……っ!」
俺は舌打ちをし、大佐を突き飛ばした。
カプセルを見る。
美月は苦しそうに眉を寄せている。
彼女の中で、何かが壊れようとしている。
どうする?
止める方法は?
物理的に破壊するか? それとも電源を落とすか?
どれもリスクが高すぎる。
その時。
美月の目が、カッと開かれた。
金色。
いや、虹色。
あらゆる色が混ざり合った、カオスの瞳。
『……レン……くん……』
カプセル越しに、彼女の声が聞こえた気がした。
テレパシー? 違う。
彼女のアルテミス・ユニットが、周囲のスピーカーをジャックして声を発しているのだ。
『……助けて……。私が……消えちゃう……』
彼女のSOS。
俺は迷いを捨てた。
理屈じゃない。計算じゃない。
俺の手で、彼女を引っ張り出すんだ。
「どいてろッ!」
俺は『月影』を逆手に持ち、カプセルのガラス面に突き立てた。
ガシャァァァン!
強化ガラスが粉砕される。
青い培養液が奔流となって溢れ出し、床を水浸しにする。
俺はその中に飛び込み、美月の体にしがみついている無数のケーブルを引き千切った。
バチバチッ!
電撃が俺の指を焼く。
構うものか。
最後の一本、脊髄に繋がれた太いコネクタを、渾身の力で引き抜く。
「うおらぁぁぁぁッ!」
ブチリッ!
嫌な音がして、コネクタが外れる。
美月の体がぐらりと傾き、俺の腕の中に倒れ込んできた。
「……はぁ……はぁ……」
彼女はぐったりとしている。
だが、胸は上下している。心臓の光も、落ち着いた青色に戻っている。
「美月……? おい、美月!」
俺が頬を叩くと、彼女の瞼が震えた。
ゆっくりと開かれた瞳。
そこにあったのは、いつもの茶色の瞳だった。
「……レン、くん……?」
「ああ。俺だ。……遅くなってごめん」
俺は彼女を強く抱きしめた。
冷たい体。でも、確かに生きている。
「貴様……! 何ということを!」
大佐が震える声で叫んだ。
モニターには『プロセス中断。データ破損』のエラーメッセージが表示されている。
「これで計画は台無しだ! 人類を救う唯一のチャンスを、貴様は潰したんだぞ!」
「知るかよ」
俺は美月を抱きかかえて立ち上がった。
全身ずぶ濡れで、泥と油にまみれて。
でも、気分は最高に晴れやかだった。
「人類なんて大層なもん背負って生きるより、一人の女の子を守って死ぬ方が、よっぽどマシだ」
俺は大佐を睨みつけた。
「俺たちは行くぞ。……邪魔するなら、今度はあんたを斬る」
その殺気に、大佐は一歩後ずさった。
彼は腰のホルスターに手を伸ばそうとしたが、震えて抜くことができなかった。
恐怖。
そう、俺は今、彼らにとっての「災厄」そのものだ。
ラボを出ると、廊下は死屍累々だった。
黒の近衛兵たちが、折り重なるように倒れている。
その中心で、レイモンドが壁に寄りかかり、タバコを吹かしていた。
彼の体は傷だらけで、片足を引きずっているが、その瞳は獣のように輝いていた。
「……遅えぞ、坊主。待ちくたびれた」
「悪い。ちょっと手間取った」
「嬢ちゃんは?」
「無事だ。……少し疲れてるけどな」
俺の腕の中の美月を見て、レイモンドはニッと笑った。
「上出来だ。……ジョージの野郎も、これであの世で文句は言えまい」
「……殺したのか?」
「いや。手足を撃ち抜いて動けなくしただけだ。……元部下を殺すほど、俺は落ちぶれちゃいねえよ」
彼は足元に転がるジョージを一瞥した。
ジョージは意識を失っているが、命に別状はなさそうだ。
「行くぞ。正面玄関は封鎖されてる。……非常用の搬出口から出る」
「装甲車は?」
「俺が確保しておいた。……俺の可愛い愛車を置いていくわけにゃいかねえからな」
俺たちは走った。
サイレンが鳴り響くアジトの中を。
追手の銃撃をかいくぐり、爆発炎上する通路を駆け抜ける。
搬出口。
巨大なシャッターをレイモンドが爆破し、こじ開ける。
その先には、夜明け前の薄暗い荒野が広がっていた。
装甲車に飛び乗る。
レイモンドがエンジンを始動させる。
アクセル全開。
装甲車は咆哮を上げ、地上へと飛び出した。
背後で、反乱軍のアジトから黒煙が上がっているのが見えた。
俺たちはもう戻れない。
あそこは希望の地ではなかった。ただの別の形の牢獄だった。
「……どこへ行く?」
レイモンドがハンドルを握りながら聞いた。
その問いに、俺は迷わず答えた。
「ネオトーキョーだ」
「は?」
「アルテミス・タワーに行く。……そして、俺たちのやり方でケリをつける」
反乱軍の作戦(美月の犠牲)は失敗した。
ならば、残された道は一つ。
俺たちの手で、アルテミス本体を叩く。
犠牲なしで。
計算外の方法で。
「……ハッ。最高にイカれたピクニックだな」
レイモンドは笑い、車を東へと向けた。
地平線の向こうから、朝日が昇り始めていた。
汚染された大気を通して見る太陽は、血のように赤かった。
それは、これから始まる最後の戦いを予感させる色だった。
美月が俺の腕の中で身じろぎした。
「……レン、くん」
「ん?」
「ありがとう……」
彼女は俺の胸に顔を埋め、また静かに眠りに落ちた。
その寝顔を守るためなら、俺は悪魔にだってなってやる。
俺は『月影』を抱き寄せ、流れる景色を見つめた。
世界中が敵だ。
アルテミスも、反乱軍も。
上等だ。
全員まとめて相手になってやる。




