涙のあとに咲くもの(著:くるっぽー)
ひとくち飲むたびに、胸の奥がヒリつく。
それが焼酎のせいなのか、涙を飲み込んでいるからなのか、もう分からなかった。
「……もう、だめだよ、私。あんなの……ひどいじゃん!」
テーブルに突っ伏したまま、私はまた泣いていた。
鼻の奥がツンとして、目の縁がずっと熱い。
お酒を飲めば紛れると思ってたのに、むしろ感情が全部むき出しになってしまってる気がした。
「なにが君のこと、大切な友達としてしか見られないだよ……ならなんで、付き合ったの……?」
「……それ、三杯目のときも言ってたよ、柚」
「言ったっていいじゃん……ひどいもん……」
グラスがカラカラと音を立てた。
持ち上げようとして手が滑った。
目の前に座るのは、私の同僚で──そして親友の、結城あさひ。
短めの髪を耳にかけて、何も言わずに微笑む顔がぼんやり滲んで見える。
あさひはずっと隣にいて、慰めてくれていた。
何も責めず、ただ私の涙を受け止めて、グラスが空けば注いでくれて──
「もう、やめとこっか」
「やだ……もうちょっと飲ませて……」
「……酔い潰れて後悔しても知らないからね」
その口調はいつもと同じで、だけど少し優しくて。
私の弱さを知っていて、でも突き放さない人。
彼がどこか遠くを見て、別れようと言ったときも、私が無理して笑って答えたときも、結局泣き崩れたこの瞬間も──あさひはずっと、そばにいてくれた。
それだけで、救われたような気がしてしまう。
「……あさひ、ありがとね」
「ん。礼言うのは、明日ちゃんと覚えてたらでいいよ」
そう言って笑うあさひの手が、私の背中に軽く触れる。
その指先がやけに温かくて、ちょっと泣きそうになった。いや、もう泣いてるか。
そのあとの記憶は、あいまいだ。
歩いてる途中でよろけて、あさひが支えてくれた。
タクシーに乗った気がする。肩を抱かれて、寄りかかって。
寝てていいよって、優しい声が耳の奥で響いて──
そして、次に目を開けたときには、見慣れない天井だった。
「……え、ここ、どこ……?」
ふわふわしたベッド。
やけに柔らかいシーツの感触。
あの居酒屋の店内じゃない。
タクシーの中でもない。
身を起こそうとしたそのとき、バスルームのドアが音を立てて開いた。
「──起きた?」
湯気をまとった空気の中から現れたのは、バスローブ姿のあさひだった。
細い鎖骨と濡れた髪。
いつもと違う、その姿。
ドクン、と胸が跳ねる。
「……あさひ? ここ……えっ……」
声がうまく出ない。
頭が回らない。
この場所の意味が、やっとわかって、わたしは一瞬で酔いがさめた気がした。
「ごめんね。帰るの無理そうだったから、泊まるとこ探したんだけど……駅前のビジホは満室だったの。たまたま、ここだけ空いてて」
「……ここって、ラブホじゃん……」
「うん。そうだよ」
さらっと答えるその声に、少しだけいたずらっぽい響きが混じる。
わたしが状況を飲み込めないままでいると、あさひが静かにベッドへと近づいてくる。
「介抱、おつかれさまって言ってくれる?」
「うん、ごめん、ほんとにありがとう。私ひとりだったら今ごろどこで……」
そこまで言いかけたところで、あさひの手がわたしの肩に添えられた。
体がゆっくりと押し倒される。
背中がベッドに沈む。
「──ねえ、柚」
そのまま、バスローブがほどけた。
「男と付き合うから、あんたはそんなに泣く羽目になるんだよ?」
囁きが耳元に落ちてきた瞬間、唇が首筋に触れる。
甘く、湿った音。
わたしの全身が、一瞬で熱を持つ。
バスローブの布が、音もなくシーツに落ちる。
その下にあった素肌を、私はまともに見ていられなかった。
心臓が喉までせり上がってくるような鼓動。
手も足も、声さえも、どうにか正気を保とうとしていた。
──でも、それよりも。
首筋に触れた唇のやわらかさと、耳元に落ちてくる吐息の熱さと、あさひの声が頭の中を真っ白に塗り替えていく。
「……あさひ、まって……私……まだ……」
言葉にならない言葉を吐き出すと、あさひが少しだけ動きを止めた。
そのまま、わたしの額に優しくキスを落とす。
「怖くないよ。なにもしないで終わりにするなら、それでもいい」
「……でも」
「でも、わたしは、あんたに本気。ずっと好きだった」
まっすぐな目。
冗談やお酒の勢いなんかじゃないと、すぐに分かった。
たぶんずっと前から、わたしは気づいていた。
でも、それを見ないふりしてきた。
男の人を好きになるのが普通だと思ってたし、親友を恋愛の対象にするなんて、そんな風に思いたくなかった。
だけど──
「わたしなら、柚を泣かせない。幸せにする……ちゃんと、大事にするから」
その言葉に、何度もこぼれ落ちた涙がまた、頬をつたった。
今まで誰かに優しくされた時、私は嬉しかった。
でも、こんなふうに真っ直ぐに自分ごと愛されるなんて、知らなかった。
私は、泣きながらあさひの首に腕を回した。
「……あさひ」
「ん?」
「……好きになっても、いい?」
問いかける声は震えていた。
でも、あさひは迷いもせずに言った。
「いいよ。むしろ、好きになって?」
笑ってるのに、少しだけ目が潤んでいた気がした。
その後、私たちは言葉の代わりに身体で想いを伝え合った。
ゆっくりと。
丁寧に。
抱きしめる腕が、ほどけないように。
私が初めて見る景色を、あさひの優しさが埋め尽くしてくれた。
──そして、朝。
私が目を覚ましたとき、隣にはあさひがいた。
シーツの上で裸の肩を見せたまま、静かに寝息を立てている。
濡れた髪はもう乾いていて、少しだけ寝癖がついていた。
「……うそみたい」
ぽつりと呟いて、わたしは自分の両手を胸の前で握った。
思い出す。
昨夜のぬくもりと、あさひの声。
重なった体と、解けていった心。
好きになってもいい?
いいよ、好きになって?
あの言葉たちが、まだ胸の奥でやさしく響いている。
「……惚れちゃったじゃん、ばか」
誰にも聞こえない声で、そうこぼす。
すると、隣で寝ていたはずのあさひがふと目を開けた。
わたしと目が合って、柔らかく微笑む。
「ん、おはよ……」
「おはよう……起こしちゃった?」
「ううん、柚の声で目が覚めた……惚れたって言ってた?」
「……っ、聞こえてたの?」
「うん。嬉しかった」
あさひはシーツを引き寄せながら、私の手を握ってきた。
その手のぬくもりに、私はすっと身を委ねる。
「ねえ、あさひ」
「なに?」
「……このまま、付き合ってくれる?」
あさひの目が、ぱっと明るくなる。
「付き合うもなにも、もう離さないよ?」
くすぐったいセリフなのに、どうしてか心にすっと馴染んでしまう。
わたしはそっとその胸に頬を預けて、目を閉じた。
昨日までの涙は、もうどこにもない。
たぶん私は、ようやくちゃんと恋を始めたのかもしれない。
ひとりじゃない朝。ふたりで迎える、新しい毎日。
それが、こんなにあたたかいものだなんて──
昨日の私には、きっと想像もできなかった。