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世界でいちばん美しいもの(著:くるっぽー)

 午前零時を過ぎる頃、私はアパートの鍵をそっと回してドアを閉じる。音は立てない。指先でノブを押さえ、靴を脱ぐ動作すら息を殺して行う。居間の明かりは消えていて、代わりにキッチンの小さな手元灯だけが、ぼんやりと室内を照らしていた。

 冷え切った空気に、ほんの微かに柚葉の紅茶の香りが残っている。カモミール。あの子の眠りを誘う一杯だ。私はその残り香に、まるで罪を嗅ぎ取られているような気持ちになる。


「……ただいま」


 小さく呟いても、返事がないのはいつものことだ。柚葉は夜更かしの癖があっても、私が散歩に出かける日は、気を遣って先に眠っているふりをする。それが本当に眠っているのか、それとも察しているのかは、まだ聞いたことがない。

 私は静かに洗面所で顔を洗い、髪の毛に紛れた細かな埃やガラスの欠片を拭い落とす。鏡に映った自分の顔は、誰とも似ていない仮面のように無機質で、でもどこか今夜は熱を帯びていた。


 私は、怪盗だ。


 世間を騒がせている〈夜影〉と呼ばれる女。それが私だということを、柚葉は知らない。


 いや、知られてはいけない。


 なぜ盗むのかと聞かれたら、私は「美しいものが欲しい」と答えるだろう。それが真実の一端だからだ。

 私は昔から、美しいものに異常なほどの執着を持っていた。絵画、宝石、装飾品──完璧な造形、調和した色彩、非現実的なまでの洗練。そういうものにだけ、私は安心できた。人間の世界はあまりにも雑で、嘘に満ちていたから。

 でも、何かが違った。どんなに高価な宝を手にしても、私は心のどこかで渇きを覚えていた。たとえ完璧なカットのダイヤを奪っても、魂に触れるような充足はなかった。


 そんな時に、柚葉と出会った。


 彼女は、美大を出たばかりの絵描きだった。部屋には未完成のキャンバスと乾きかけの油絵具が散らかっていて、少しも秩序なんてなかった。でも、彼女の目だけが、私をまともに見つめていた。


「……名前、なんていうの?」

「……綾女」

「うん、似合ってる。静かで綺麗な名前」


 その綺麗という言葉が、彼女の口から出た時、私は胸の奥に熱を感じた。ああ、この人は私に価値を見出したんだと、そう思った。

 それからだった。私は宝を盗む一方で、柚葉に嘘をつくようになった。夜の散歩という仮面をかぶって。そうしなければ、彼女と過ごす日々は守れなかった。


 午前二時。私はベッドに入る前に、彼女の頬に触れようとした。


「……綾女、今夜も散歩?」


 その声に、心臓が跳ねた。


 柚葉は起きていた。いや、最初から眠ってなどいなかったのかもしれない。まるで、今夜を待っていたかのような声音だった。

 私は言葉を探す間もなく、ただ黙って彼女の隣に腰を下ろした。


「……何を、見てきたの?」

「夜景」

「それだけ?」


 私は答えなかった。


 沈黙のなかで、柚葉が私の手を取った。冷えている。冷たさの理由を、彼女はきっと分かっている。なのに、何も責めない。


「……綺麗なもの、見つかった?」


 その問いが、ひどく優しくて、そして残酷だった。

 私は息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。苦い煙草の味が喉に残っていた。


「──まだ。けど、少しだけ分かってきた」

「ふぅん」


 柚葉はそれだけ言って、布団に潜り込んだ。


 私はしばらくその寝息を聞いていた。美術館から盗み出したルビーの光が、バッグの中で微かに瞬いている。


 でも──


 それよりも、ここに眠る彼女のほうが、ずっと眩しいと思った。

 あまりにも静かで、私はその沈黙が怖くなって、柚葉の寝顔から視線を逸らす。

 自分が何者で、何をしているのかを、誰にも知られたくなかった。

 けれど、あの問いかけが、私の中に楔を打ち込んだまま離れない。

 あの言葉は、真っ直ぐで、どこまでも優しくて、逃げ道を塞ぐようだった。

 朝、目を覚ますと、柚葉は台所にいた。髪を後ろに束ね、猫の描かれたエプロンを身につけて、フライパンを振っている。


「おはよう」


 その声が、何事もなかったように響いて、私は返事をするのが怖くなった。


「……おはよう」


 言葉は自然だった。でも、それは私の中にある不自然さをますます浮き彫りにする。自分を欺いているのは、自分自身だ。


「今日は、行かないの?」

「……うん。今日は、もう充分だから」


 本当は、盗むべき美術品の情報をもう掴んでいた。明日になれば、行動に移すこともできる。だが、今の私はそれよりも、ここにある静けさの方がずっと重くて、大切に思えた。

 私が手に入れた完璧な美たちは、ただ所有された瞬間に価値を失っていった。でも柚葉は、そうじゃない。

 この人は、触れても、そばにいても、何も褪せない。むしろ、時を経るごとに美しくなる。笑っている顔も、ふとした瞬間の横顔も、全部。


 ……全部、盗みたいと思ってしまう。


 夜、久しぶりに二人で外食をした。


 チェーンの小さなイタリアン。洒落た場所ではなかったけれど、柚葉は嬉しそうにメニューを眺めていた。私も、何気ない日常に溶け込んだ気がして、少しだけ心が軽くなっていた。


「ねえ、綾女」


 ワインのグラスを傾けながら、彼女が言った。


「わたし、なんとなくだけど、気づいてるんだ」


 私は、その言葉が自分の中の何かを凍らせる音を聞いたような気がした。


「気づいてるって、何が?」

「あなたが夜に消える理由」


 柚葉の声は、いつもと変わらなかった。どこにも怒りはなかった。ただ、静かで、底の見えない湖みたいな目をしていた。


「……言ってみて」


 喉が焼けるようだった。

 彼女は少しだけ唇を噛んだ後、そっと言った。


「本当は、夜に何かを探しに行ってるんでしょ?ただの散歩じゃない。きっと、誰にも知られたくない場所に行ってる」


 私は答えられなかった。

 でも、柚葉はそれで充分だったらしい。彼女は微笑んで、グラスの中の赤を見つめた。


「だから、本当のことを言ってくれなくてもいいよ。わたしは、あなたのいちばん綺麗なものになりたいから」


 胸が締めつけられた。

 私は何をしてきた?

 誰かの美しさを奪い、輝きを踏みにじって、何度も満たされない欲望を追いかけてきた。

 その果てに、ようやく見つけた光に、自分の正体すら晒せないでいる。


「柚葉」


 私は震える声で彼女の名を呼ぶ。正体を明かすことが、すべてを壊すかもしれないという恐れを飲み込んで、それでも──


「私は、怪盗〈夜影〉よ」


 空気が止まった。

 厨房のざわめきが遠ざかり、彼女の視線だけが、この世界の全てになった。


「……やっぱり」


 そして彼女は、穏やかに笑う。


「どうして、わたしにだけは見せてくれなかったの?」

「それは──」

「わたしが綺麗じゃなかったから?」


 その言葉に、私は咄嗟に首を振った。必死に否定した。そんなわけがない。むしろ、その逆だ。


「違う。綺麗すぎて、壊したくなかった。傷つけたくなかった」


 柚葉はしばらく黙っていた。グラスを置き、視線を私に戻して、囁くように言った。


「でも、綾女。わたしは、あなたに盗まれてもいいって思ってたよ?」

「……なに、それ」

「だって、あなたが欲しいなら、全部持っていってくれたらいいじゃない。心も、時間も、人生も」


 彼女の目に浮かんだ涙を見て、私はもう何も言えなかった。

 柚葉は、美しい。

 どんな宝石よりも、どんな絵画よりも。

 世界でいちばん美しいものは、確かに今ここにある。


 それが私の罪だとしても、私は──

 もう手放せない。


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