最後のページをめくる前に(著:積戸バツ)
週末の午後。曇り空が店の窓を白くぼかしていた。
古本屋の奥、文学の棚。ふと手を伸ばした先に、別の手があった。
「あっ、すみません……」
「いえ、そちらこそ」
手を引っ込めて、お互いに少し笑った。棚には1冊の文庫本──川端康成の『雪国』。
「川端康成、好きなんですか?」
「そうですね。ちょっと読み返したくなって」
女性は僕より少し年上に見えた。淡いグレーのニットとスカート。落ち着いた雰囲気に、本が似合っていた。
「どうぞ、先に」
「いいえ、あなたが」
「じゃあ……半分ずつ?」
冗談めかして言うと、彼女は少し笑った。
「それじゃ感想交換ってことで、読み終わったらお茶でもどうですか?」
不思議な申し出に戸惑いながらも、僕は頷いていた。
その日のうちに、僕たちは近くの喫茶店で待ち合わせた。読み終わった本をテーブルに置いて、感想を言い合った。
「読み返してみると、川端康成ってすごくフェチっていうか、細かい部分の美しさをよく描いてるよなって思います」
「わかる。雪国だとまつ毛とかが良く描かれてた気がする」
彼女の言葉は、するりと腑に落ちた。自分とは違う視点を持っていて、でも共感もできる。そんな人。
「大学生なんですよね?」
「はい。文学部で、今、就活どうしようかって感じで」
正直、言いづらかった。僕は就活に身が入らない。説明会にも行ってるけど、心のどこかで違和感があった。
「本当は、小説家になりたいんです」
彼女は驚いた顔をしたあと、すぐに微笑んだ。
「いいじゃないですか。そういう夢、素敵です」
茶色い瞳がまっすぐ僕を見ていた。
「でも現実問題、なかなか……。受賞歴もないし、就職しないと食べていけないし」
「わかりますよ。私も、もともとは演劇がやりたくて上京したんです」
「えっ、そうなんですか?」
「ええ。でも、途中で辞めて、今は地元Uターンで就活支援の会社にいます」
彼女は苦笑いした。
「いろんな人の“現実”に触れてきたから、余計に思うんです。夢を追うことが、どれだけ尊いかって」
僕はコーヒーを一口飲んで、言葉を探した。
「でも、追いかけても届かない夢も、ありますよね」
「あるかもしれない。でも、“やらなかった後悔”は、長く残りますよ」
彼女の声は柔らかく、それでいて背中を押すようだった。
「私、今の仕事も嫌いじゃないんです。人の節目に立ち会えるのは、ある意味、舞台よりリアルだから」
彼女の言葉を聞きながら、僕は少しだけ前を向けた気がした。
「もし書いたら、読んでくれますか?」
気づけば、そんな言葉が口をついていた。
「もちろん。でも、買うからね? ちゃんと書店に並べてよ」
彼女は笑って、スマホを取り出した。
「じゃあ、連絡先、交換しとこうか。あなたが書き終えるまで、私、ちゃんと待ってるから」
LINEを交換しながら、僕は心の奥にある小さな灯を、大事にしようと思った。
夢はまだ途中だ。現実は厳しいかもしれない。
でも、誰かと感想を分かち合える人生なら──最後のページをめくる前に、書きたい物語がまだある。




