Mi amas vin(ミ・アマス・ヴィン)(著:積戸バツ)
※この物語には異国の言語が登場します。読み方はローマ字読みで構いません。
カメラを首から下げて歩く癖がついてしまった。
何気ない風景を撮るのが好きで、どこか遠くへ出かけるわけでもなく、ただ近所の公園を歩き回る。
この日もそうだった。
夕方の光がやわらかくて、どこか浮いていた。シャッターを切るたび、少しだけ呼吸が整っていく気がしていた。
レンズ越しに、小さなベンチが見えた。そこに誰か座っている。……いや、正確には寝ていた。
髪の長い女の子だった。ブーツのかかとを脱ぎかけて、まるで木の葉のようにまどろんでいる。
どこの国の人だろう。日差しが作るまぶたの陰が、まるでこの世界と別のリズムで生きているようだった。
カメラを下ろして、その場を離れようとしたとき、ふいに彼女が目を開けた。
そして、少しだけまぶしそうに、こちらを見た。
「Saluton...」
――え?
「…Saluton. Ĉu vi fotas?」
言葉が、わからない。だけど、明らかに敵意はなかった。
おそるおそる、「ごめん、わかんない」と日本語で返すと、彼女は少し困ったように微笑んでから、指を差した。
それは、僕のカメラだった。
「あ、撮ってるの?」とジェスチャーを交えて聞くと、彼女はこくりと頷く。
そのまま立ち上がり、少しだけ距離を詰めてきた。そして、レンズに手をかざし、なにか言葉を紡ぐ。
「Bela... lumo. Ĉi tie... bela lumo estas」
やわらかく笑う声と、風に揺れる髪。
意味は分からなかったけれど、その一言は風景の中に染み込んだ。
それから、何度か彼女と会った。
といっても、会う約束をしたわけじゃない。彼女はいつも同じベンチにいて、本を読んだり、寝ていたりした。
僕は、写真を撮っていた。彼女を撮ることもあった。シャッター音で目を覚ましては、にやっと笑われた。
言葉は、あまり通じなかった。
それでも、彼女が「Muziko」と言えば、イヤホンを片方渡してくれて、一緒に聴いた。
「Amiko」と言えば、空を見ながら肩をすくめ、手を振って笑った。
僕も真似して、「アミーコ」と言って笑い返すと、彼女はうれしそうに頷いた。
不思議な関係だった。会話じゃなく、交換だった。
笑い声、身振り、手渡すもの。そのどれかで、お互いを少しずつ知っていった。
彼女の名前は「リーア」。小さな紙にそう書いてくれた。
その横に「Esperanto」と書かれていた。エスペラント語 どこかで聞いたことがある。世界中の人が話せるようにと作られた言葉らしい。
ある日、ベンチに座る彼女が、静かに僕の方を向いた。
「Vi... ŝatas min?」
声の調子が、いつもと違っていた。
僕は、「え?」と間の抜けた声を返した。
すると、彼女は指で胸のあたりをさしながら、繰り返した。
「Mi... amas vin」
彼女の声は、まるで空気に溶けるように細くて、それでもまっすぐだった。
意味は……なんとなく、分かった気がした。
"amas" たぶん、愛する。
"vin" たぶん、君を。
僕は、笑って、深く息を吸った。
そして、彼女の目をまっすぐ見てから、たどたどしく言った。
「……ミ、アマス、ヴィン」
彼女は目を丸くして、それから笑った。風が吹いて、落ち葉が舞った。
手を伸ばすと、彼女はそっとそれを握り返した。
会話はできなかった。でも、たしかに伝わった。
音の響きだけで、心に届くものがあることを、僕は初めて知った。
数日後、彼女はいなくなった。
紙に「Dankon」とだけ書かれたメモを残して。
連絡先もなかったし、それ以上の言葉もなかった。
だけど僕のカメラの中には、光の中で笑う彼女が、たくさん残っていた。
そして、あの言葉も。僕がたしかに交わした、たった一度の告白の言葉が。
「Mi amas vin」
もう一度、声に出してみる。
意味が分かると、少しだけ胸があたたかくなる。




