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それだけだったのかもしれないけれど(著:積戸バツ)

 その日、俺はまったく別の目的で会場に足を運んでいた。

 地方の小さな展示ホール。派手さのないブースが連なる中で、ふと目に入った横顔。間違いないと確信するまでに、時間はかからなかった。

「……久しぶり」

 声をかけると、彼女は驚いたように目を見開いて、次いで少し困ったような笑みを浮かべた。

「うわ、ほんとだ。元気そうだね」

 会話は短くて、それ以上はどう続けたらいいのか分からなかった。でも、自然に彼女が言ってくれた。

「このあと予定ある? 久々に会ったし、ごはんでも行かない?」

 断る理由なんて、どこにもなかった。

 

 電車の中。週末の午後、空いていた車内の一角に二人並んで座る。偶然にも、二人とも半袖だった。

 発車と同時に軽く揺れ、彼女の肩が少しだけ触れた。あの頃と同じ、すべすべした肌。たったそれだけのことで、過去の記憶が一気に胸の奥からこぼれ出す。

 ――あの夜のこと。

 彼女が20歳になった誕生日。大学の飲み会の帰り道、「周りが彼氏とか彼女の話をしていて、この歳になっても未経験って――」と言う自虐をされた後に「一回だけでいいからさ」と言われて、深く考える余裕もないまま、彼女の家に足を踏み入れた。お互い初めてで、ぎこちなくて、それでも体温が混ざったあの一晩。

 なのに、翌日からも彼女は変わらずに、他の友達と同じように「○○くん、車出してー」と気軽に言ってきて、その夜のことには一切触れなかった。彼もその空気に合わせて、同じように振る舞った。卒業と同時に連絡も途絶えて、今ではもうLINEの個チャさえ最後が何年も前の既読スルー。

 だから、まさかこんなふうに偶然、再会するなんて思っていなかった。

 

「……相変わらず車、乗ってるの?」

「うん。通勤に使ってる」

「へえ、便利そう。私はペーパーのままかな」

 会話は弾むようで、どこかぎこちなかった。触れてはいけない記憶の壁が、どちらの胸にもあったのかもしれない。無言になる時間が、妙に長く感じる。

 彼女の腕がまた、少しだけ触れた。まるで心拍がそこから伝わってくるようで、息を飲む。期待しちゃいけない。あれはただの好奇心。大学のノリ、若さの勢い。彼女にとっては、きっとそうだったはず。

 

 レストランは静かなバルだった。照明はほどよく落ちていて、二人の影をテーブルに落としていた。

「このお酒、甘い。飲みやすいね」

 彼女は笑いながらグラスを傾ける。その仕草が昔と変わらない。変わったのは、彼女の髪型と、少し大人びた横顔くらいだった。

「まだ一人?」

 不意に聞かれて、少し戸惑う。

「うん。ずっと、かな」

「そうなんだ。……私も」

 それ以上は続かなかった。でも、沈黙はすぐに苦にはならなかった。どちらかがまた話し始めて、昔話や最近の仕事の話で笑い合ううちに、グラスのワインは2人とも二杯目に進んでいた。

 

 店を出たときには、あたりはすっかり夜だった。

「終電、そろそろかな」

「そっか、じゃあそっちの線まで送るよ」

 酔いのせいか、二人とも歩幅が少しだけ不安定だった。けれど、隣に誰かがいるだけで心強い夜だった。別れ際、彼女が小さく言った。

「……また会えるよね?」

 一瞬、言葉に詰まる。けれど、「もちろん」とゆっくりうなずいた。

 それだけ言って、互いに手を振って、背を向けた。

 振り返ればよかったかもしれない。でも、それができるほどの勇気は、まだなかった。

 

 電車の座席で触れた、あのやわらかい感触。彼女の肌のぬくもり。今でも、腕のどこかに残っている気がする。

 一度だけの夜。あれはただの通過点。若さゆえの過ち。

 ――そう思っていた。

 けれど今は、もしかしたらあれが何かの始まりだったのかもしれないと、ふと考える。

 交差し、すれ違い、それでもまた巡ってくる。

 大人になるって、そういうことなのかもしれない。

 

 それだけだったのかもしれない。けれど――それだけじゃなかったと願いたい自分が、どこかにいた。


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