見えない場所で血を吐いて(著:くるっぽー)
カーテンを閉めきった部屋で、私はキーボードに額を預けていた。
締切は三日後。あと一万字。
だけど、もう十時間も前から一文字も進んでいない。
頭の奥が痺れて、眼球の裏が痛い。
カップに放り込んだティーバッグは四つめで、気づけば湯は冷めていた。
──私は、なんでまだ書いているんだろう。
もう充分売れたはずなのに。もう、評価も、賞も、あるのに。
それなのに、私はまだ、追われるように書いている。
「相原さんって、やっぱり天才ですよね!」
インタビューで何度も言われた、その言葉。
毎回、胃の中がぐしゃぐしゃにかき混ぜられるような気分になる。
天才。
その言葉は、私の努力の全てを見えない場所に押しやる。
私は──血を吐くような努力をしてきた。
恋も友情も、睡眠も、健康も、全て犠牲にして、何度も落選して、何度も落ち込んで、それでもやめなかった。
それを、なかったことにされるのが、一番つらい。
……そんな夜だった。
インターホンの音に、私は一瞬、現実に引き戻された。
時計は午後十時を回っている。宅配便にしては遅すぎる。
玄関を開けると、そこには少女が立っていた。
「……久しぶり、相原さん」
細身の制服に、無地のマフラー。
冬の空気の中で、白い息が彼女の口元からふわりと揺れていた。
「……望月さん?」
望月優芽。17歳。
新人賞を総ナメにして鮮烈に登場した天才少女。
周囲から相原玲子の再来とも言われ、私はその度に、自分の名前を飲み込んできた。
「勝手に来てごめんなさい。でも、渡したいものがあって」
彼女はそう言って、バッグから原稿用紙の束を取り出した。
「……手書き?」
「うん。あなたに、これだけは読んでもらいたくて──私が、あなたをどう見てたか、書いた話」
紙の端が震えている。
彼女の指も、声も、どこかぎこちない。
「みんな、あなたのこと天才って言うけど、私はちがうと思ってる。あなたが書く前に、何をどれだけ捨ててきたか、私は知ってるから」
「……なんで、そんなこと……」
「あなたが、血を吐いて書いてたの、見てたから。売れない頃のあなたのツイート、毎晩3時に更新されるnote、同じ言葉を何度も書き直してる文体、癖……全部、見てた」
優芽は言葉を選ぶように、ゆっくりと続けた。
「私はたぶん、楽して書いてきた。だからこそ、分かるの。本当に苦しんでる人の筆の重さって、読めば分かる──あなたは、努力して書いてきた人だよ、相原さん」
その一言で、私は急に言葉をなくした。
どこにも届かなかったと思っていた声が、誰にも見えなかったと思っていた痛みが、ちゃんとひとりの誰かに届いていたんだ。
私は手を伸ばし、彼女から原稿を受け取った。
その時初めて、気づいた。
この手は、書くためにしか動かなかった。
だけど今、誰かの言葉を受け取るために、ちゃんと開いたんだ。
「……ありがとう、望月さん。その言葉だけで、今日、書いてよかったって思える」
優芽が、ふっと照れたように笑った。
「じゃあ、明日は続きを書いて。あなたの物語、私はずっと読みたいから」
その夜、私は彼女の原稿を最後まで読んだ。
そこには、誰にも言えなかった私の心が、そっと綴られていた。
私は朝まで眠らなかった。
いつもなら、眠れなかったと言うべきだけれど──
今夜ばかりは違う。
眠りたくなかった。
優芽の原稿を読み終えたのは、深夜三時を過ぎたころ。
そのまま手から原稿用紙が零れても、私は床に散ったそれを抱き寄せたまま、息を殺していた。
書かれた言葉は、たしかに私のためのものだった。
血のにじむ努力を、傷だらけの歩みを、誰も見ていないと思っていた足跡を、彼女は拾って、こんなに美しく描いてくれた。
「……ほんとに、見ててくれたんだ」
ぽつりと呟くと、喉の奥から熱が上がってくる。
私の苦しみは、独りよがりじゃなかった。
認められないことを嘆いた夜も、報われないと笑った日々も──
ひとりの少女が、ちゃんと見つめてくれていた。
胸の奥が、初めて解けた気がした。
その日の夕方、私は彼女に会いに行った。
自分から誰かに会いに行くのなんて、いつ以来だろう。
私はずっと、誰かに向かって書いてきたはずだった。
でも本当は、誰にも会いたくなかっただけだ。
優芽は駅前のベンチで、制服姿のまま、文庫本を読んでいた。
薄い灰色のコートが風になびいて、髪が頬にかかる。
その横顔に見とれて、私は一瞬、声をかけるタイミングを逸した。
──綺麗な子だ、と思った。
華やかさじゃない。
言葉をまとっているひとの顔だ。
「……相原さん」
気づかれた。目が合った。
私は息を整える暇もなく、彼女の隣に腰を下ろす。
何を話すべきか分からなかった。
でも、彼女がそっと目線を下げ、囁くように言った。
「原稿、読んでくれた?」
「うん……泣いたよ」
「えっ……」
「途中で、読めなくなるくらい。こんなふうに、誰かに見てもらえたんだって思って……安心した。初めてだった、あんな気持ち」
優芽の手が、わずかに震えた。
私はその手にそっと触れた。
冷えていて、小さくて、それでも私の書いた言葉よりずっとまっすぐだった。
「望月さん」
「……優芽、って呼んで。私、あなたに名前で呼ばれたくて、ずっとここまで来たから」
まぶたの裏がまた熱くなる。
あなたに名前で呼ばれたくて──
そんな告白みたいな言葉を聞かされたら、私はもう逃げられない。
「……じゃあ、優芽」
そう呼ぶと、彼女が少しだけ顔を赤らめた。
「ありがとう。私を、見ていてくれて」
その言葉の重さを、彼女はちゃんと理解しているようだった。
頷く優芽の目が、濡れたように光っていた。
「相原さんのこと、ずっと追ってた。プロットの作り方、展開の伏線、地の文のリズム……何度も真似した。だけど、書けば書くほど分かった。私はあなたみたいには書けない。あれは、努力して生まれたものだった。天才なんかじゃない。血の積層だった」
私は思わず、息を呑んだ。
血の積層──
それは、私が十代の頃に書きかけて消した、自作のタイトルだ。
どこにも載せていない。見せたこともない。
だけど、彼女はそこに辿り着いていた。
「……ねえ、相原さん。私の書く言葉じゃ、あなたを救えないかもしれない。でも、隣で言葉を拾うことならできる。もしよかったら、これからも、私の中に相原さんの言葉を刻ませてほしい」
その言葉は、告白だった。
淡くて、あたたかくて、なにより、誠実だった。
私はもう一度、彼女の手を強く握った。
「……私、今やっと書きたいって思えた」
「……相原さん」
「あなたに読んでほしい物語がある。今までずっと、誰にも届かなくても書くって自分に言い聞かせてきた。でも違った。私、誰かに届いてほしかった……優芽。あなたに、届いてほしかった」
彼女の手が震える。指先が、私の手の甲を撫でるように揺れる。
その感触が、まるで一編の詩みたいだった。
「……じゃあ、また書いて。私にしか読めない言葉を」
「うん。あなたのために、書くよ」
それは、恋だった。
恋であり、祈りであり、誓いだった。
その夜、私は机に向かい、何度も「優芽」と書いて、その名前を指でなぞった。
血で書いたわたしの物語が──
彼女によってようやく、恋になった。




