となりの恋人(著:くるっぽー)
風がほんのり春めいてきた日曜の午後。
陽射しがカーテン越しに差し込む部屋で、桜庭優花は何度目かの深呼吸をしていた。
自室の窓から見えるのは、隣の家の玄関。
そこに、ついさっき出てきた小柄な影。
短く整えられた髪が風に揺れ、男物のパーカーを羽織った姿は一見すると男の子に見える。
でも彼女は、れっきとした女の子。
そして少し前から恋人。
名前は中野凛。
優花とは家が隣同士の幼なじみで、物心ついたときからずっと一緒だった。
だけど、少し前。
高校に入って初めての春休み──
優花は思い切って、凛に好きと伝えた。
結果は、OK。
言葉にしたとたんにふたりの空気はがらりと変わった。
今までは遠慮なく家にあがってきた凛も、今日はなぜかチャイムを押すらしい。
それを聞いて、優花の心臓はまた跳ね上がった。
「……来た」
インターホンの音。
優花は息を整えて玄関へ向かう。
ドアを開けると、そこにはいつも通りの顔。
けれどその目が、少しだけ泳いでいた。
「よ、よう……」
「うん……いらっしゃい、凛」
挨拶だけで、空気がどこかよそよそしい。
今まで何百回と繰り返したやり取りなのに、恋人としてとなるとたった数語すらうまく出てこない。
靴を脱いで上がり込む凛の後ろ姿を見つめながら、優花はそっと手を伸ばしたくなる衝動をこらえた。
──手をつなぐ、って、恋人らしいこと、だよね?
──でも、急にそんなことしたら驚かれるかな。
ふたりの関係が変わったばかりで、何が普通で何が変なのか、まだ境界線が分からない。
優花はそんな迷いを抱えながら、リビングへ向かった。
「なんか、部屋……片付いてるな」
「そ、そう? いつも通りだよ」
本当は昨日の夜から大掃除して、クッションもカバーも新調した。
気づかれたら恥ずかしい。
でも気づかれなかったらちょっと寂しい。
そんな感情の波をぐるぐる泳ぎながら、優花はお茶を出した。
ふたり並んでソファに座るのは、いつもなら自然な光景なのに、今日は数センチの距離がやたら遠く感じる。
どちらからともなく、話題を探すように視線が泳いだ。
「……優花、さ」
「う、うん?」
「今日、呼んでくれて……ありがとう。なんか、うれしい」
照れたように笑う凛の顔に、優花もつられて微笑む。
「私のほうこそ……うれしい。凛と、ちゃんと“恋人”になって、ふたりきりで過ごすの……」
「……うん」
会話が止まる。
だけどそれは、沈黙というよりも、ふたりの距離を少しずつ確かめるための余白のようだった。
優花はふと思い立って、手をそっと凛の近くに伸ばした。
凛も、それに気づいて一瞬ためらった後、ゆっくりと自分の手を重ねてきた。
初めて繋いだ、恋人としての手。
その温度に、心がふわりとほどけた。
繋いだ手は、小さく震えていた。
それがどちらのものか、もう分からない。
優花と凛の指先は、ぎこちなく絡まり合いながら、まるでお互いの輪郭をなぞるように確かめ合っていた。
「……ねえ、凛」
「ん?」
名前を呼ぶと、それだけで凛がこちらを見てくれる。
幼なじみだった頃と変わらないのに、何かが少しずつ違っていく気がして、優花は胸がくすぐったくなった。
「恋人ってさ、もっとこう……ドキドキするのかなって思ってたんだ」
「……してるけど?」
「えっ……?」
返ってきた声は意外と真っ直ぐで、思わず目を見開く。
凛は視線をそらしながらも、ほんの少しだけ口の端を上げた。
「優花の前じゃ、落ち着いてるつもりだったけど……さっきから、ずっと心臓がうるさい」
「……わたしも、だよ。凛の隣にいるだけで、こんなにそわそわするなんて思わなかった」
「でもさ……そのそわそわが、けっこう好きかも」
凛が小さく笑った。
優花も笑い返す。
その笑顔の間に流れる空気は、今までの親友ではなくて、恋人特有のものだった。
どこか頼りなくて、不安定で、でもそれが妙に嬉しい。
「凛って、意外と……甘えん坊なのかな」
「なっ、ちがっ……!」
「顔、赤くなってる」
「ちょ、優花だって赤いじゃん……!」
からかい合いながらも、ふたりの指はほどけることなく重なったまま。
照れ隠しのやり取りも、今はどこか愛おしい。
「さ、さっきさ……勇気出して手つないでくれたでしょ」
「うん」
「わたしも……なにか、頑張りたいなって思って」
そう言いながら、凛はほんの少し身を寄せた。
優花の肩に、そっと頭をもたれかける。
重さはないけれど、確かな温もりだけがじわりと伝わってくる。
「……こういうの、してみたかったんだ。恋人っぽいこと」
「わたしも……こうされるの、憧れてた」
声が、自然と囁きになる。
テレビは消えたまま、部屋は春の光だけに照らされていた。
窓の外では、風が木々を揺らしている。
それが、ふたりの沈黙をそっと包み込むようだった。
「優花って、すぐ緊張するよね」
「凛だって。部屋に入るとき、ドアノブ握りしめてたくせに」
「……見てたのかよ」
「見てたよ。かわいかったから」
素直な言葉が、すこしずつ言えるようになっていく。
そのたびに、凛は不器用な顔をして、それでも逃げないで優花の隣にいてくれる。
──ああ、これが恋人なんだ。
言葉にしなくても、分かる気がした。
照れたり、黙ったり、くだらないことで笑ったり。
そういう全部を、隠さなくていい相手。
優花はそっと凛の髪を撫でた。
凛が、ふにゃっとした笑みを浮かべる。
「もう少し……ここにいても、いい?」
「うん。むしろ、ずっといて」
「……お泊まり、しちゃおっかな」
「え、それは……!」
思わず声が裏返って、ふたりで笑い合う。
「──って、親に怒られるかもだけど」
「お隣さんだし、明日ちゃんと帰ればセーフかも」
いつだって、近くにいた。
だけど今は、もっと近くにいる。
ふたりでつくる初めての距離。
初めての、恋のかたち。
名前を呼ぶたびに、笑うたびに、心があたたかくなる。
「凛」
「……なに?」
「好きだよ」
素直に、まっすぐに。
その一言が言えた瞬間、優花の世界がやさしく色づいた。
ぎこちないまま、でも確かに、ふたりは恋人になっていく。