微熱と指先(著:くるっぽー)
私は昔から、あまり長く歩けない。
持久走なんて問題外だし、体育祭は見学がデフォルト。朝のホームルームの間に貧血で保健室に運ばれたことも一度や二度じゃない。
そんな私が、あんなに太陽みたいな子と付き合ってるなんて、誰も思わないだろう。
ひまり──
校内の陸上部でも注目のスプリンターで、背は高くて、足も腕もすらりと長い。
笑うと眩しいし、動きの全てが弾んでいるような子。
でも、その彼女が私のベッドの上で、汗ばんだ息を漏らしている。
不思議だと思う。
どうして私なんかに、ひまりがこんな表情を見せるのか。
「ねえ……ほんとに、ずるい……」
彼女はそう言って、私のシャツの襟元を掴んでくる。
その手も、少しだけ震えている。
私の体は、本当に非力だ。
階段を二段飛ばしで登るなんて芸当は一度もできたことがないし、雨の日に少し走っただけで立ち止まるような軟弱さ。
でも──私は観察するのが得意だ。
誰が、どこに触れると敏感なのか。何を言うと、呼吸が詰まるのか。
どんな順番で、どんな間を置くと、相手の理性がふやけていくのか。
目で、耳で、指で、唇で。
私は、ひまりのことを、細胞のひとつずつまで知り尽くしていた。
「ちょっと触れただけで、もう……こんなに熱いよ」
私は囁いて、彼女の鎖骨にそっと唇を落とす。
唇の下で、ひまりの呼吸が引き攣るように変わるのが分かる。
「ずるくないよ……ひまりが可愛いだけ」
「ほんと……ほんとにさぁ……なんで、あたしが……」
彼女の言葉が、次第に熱とともにほどけていく。
大きな瞳が、私を見上げるたびに、涙みたいな光を含んで揺れる。
ひまりは、私の指がどこに来るか、もう分かってしまっている。
でも、それでも毎回、律儀に反応してくれる。
頬を赤らめて、膝を引き寄せて、背中を小さく反らして。
そういうところが、たまらなく愛おしい。
「ここ、苦手だよね」
私はそっと、耳の下のくぼみに指を沿わせた。
その場所が、呼吸の境界線にあることを、もう知っている。
肌の熱が集中して、声にならない声が押し出される。
──息を呑んだ。ほんの一瞬。
私はそのタイミングで、彼女の指を優しく解いた。
手のひらと指の節、どこにキスをすれば彼女が黙るのか。
どんな距離感で視線を絡めれば、彼女の脈が跳ねるのか。
ひとつひとつ、私は全てを覚えている。
頭じゃなく、身体で。皮膚で。空気で。
「……あんた、ほんとに体弱いの?」
ひまりが、かすれた声でそう言った。
その顔は、悔しそうで、嬉しそうで、そしてちょっと甘えていた。
「弱いよ。でも、ひまりのことは、誰よりも研究してるから」
私の指が、彼女の腰をそっと撫でる。
何もしていないのに、びくんと身体が跳ねた。
「……やっぱり、ずるい」
私は彼女の額に唇を触れさせた。
まつげが震えて、頬が熱を帯びる。
私の身体は壊れやすい。
でも、彼女を壊すくらいの技術なら、持っている。
そして私は、それをひまりだけに使いたいと思っている。
ひまりは私の胸に額を押しつけたまま、小さく息を吐いた。
そのまま聞こえるか聞こえないかの声で言う。
「……もう、ほんと無理。勝てない……」
私の指先に、喉の震えが伝わってくる。
いつもは全身で風を切って走るような彼女の身体が、今はすっかり熱に溺れている。
汗ばんだ肌と、解かれた制服の間から覗く体温に、私はそっと唇を寄せた。
「勝ち負けで言えば、最初からひまりの勝ちだよ……私は、ひまりしか好きになれないし」
それを聞いた彼女が、少しだけ眉を寄せる。
弱った表情を見せたくないとき、彼女はよくそうする。
普段の自分を壊されるのが怖いのか、それとも、私の前だけ壊されるのが悔しいのか。
「ほんと、……やめてよ、そういうの……」
「やめない……っていうか、やめられない」
私は彼女の指を握り、絡めた。
何度繋いでも、新鮮に熱を持つ手。
いつだって、ひまりの手のひらはあたたかい。
そのぬくもりにふれていると、自分の体が本当に壊れそうになる。
「ひまりの反応、全部可愛すぎるんだもん……試したくなるでしょ?」
「うるさい……っ」
怒ったように吐き捨てながら、彼女の声がほんの少し震えていた。
私はまた、ひまりの耳元をくすぐるように囁く。
「でも、気持ちよかった?」
「……バカじゃないの……あんなの……気持ちよくないわけないでしょ」
その一言に、私の胸の奥が軽くなった。
言葉の端々に、彼女の素直さがにじんでいる。
ひまりは、嘘がつけない。
どれだけ悔しがっても、負けたふりをしても、顔に全部出てしまう。
だから私は、ひまりが可愛いと思う。
「ねえ……」
私は彼女の肩に頬をのせて、喉の奥で声を転がすように囁く。
「こんなに可愛いの、私だけが知ってていいんだよね?」
彼女は返事をしなかった。
でも代わりに、ぎゅっと私の背中に回した腕に力が入った。
それが答えだった。
少し時間が経って、シャワーを浴びたひまりは、タオルを巻いたまま私の部屋に戻ってきた。
濡れた髪が首筋を伝って、艶やかな光を放っていた。
私はその姿を見て、また身体の奥がざわつくのを感じた。
でも、もうひとつの感情が、私を抑えていた。
──倦怠感。
やっぱり、無理をした反動はやってくる。
頭がじんわり重い。心臓が早くて、指先が少し痺れている。
ひまりがその異変にすぐ気づくのも、いつものことだった。
「……澪。しんどい?」
私は無言で頷いた。
ひまりが膝をついて、私の額に手を当ててくる。
「ダメじゃん。無理しないって約束したのに……」
「うん、ごめん。でも、我慢できなかった」
ひまりはしばらく私を見つめていた。
目を伏せ、唇を噛むような仕草をしてから、
タオルを巻いたまま、私の隣に静かに横たわった。
「じゃあ、次は私の番だからね。ぜったい」
「ふふ。言うようになったね」
「ほんとに……次は、こっちが全部覚えてやるから……」
でもきっと、それはまたうまくいかないだろう。
彼女は優しすぎて、私が苦しそうな顔をしたら、全部止めてしまう。
結局また、私がリードすることになる。
それでも、いい。
私はひまりがいなければ、きっとこの世界に興味を持たずに終わった。
ベッドの上で天井を見つめながら、季節が変わるのを待つだけの人生。
でも今は、彼女の笑顔と体温がある。
そして、彼女の中にある無防備な弱さを、私だけが知っている。
こんな私でも、ひとりの女の子をこんなにも熱く、赤く、震わせることができるんだと、
彼女が教えてくれた。
だから私は、これからも彼女の弱いところを、何度でも、繰り返し確かめていくんだと思う。
あの耳の裏も、首筋も、腰のくびれも。
触れるだけで、息が詰まるような敏感な場所を。
それが、私の愛し方だ。




