あなたの声に恋をした(著:積戸バツ)
その日、私はまた、彼の声に会いに行った。
待ち合わせ場所は、いつもの噴水の前。風が吹くと、あの水音が軽やかに響いて、なんだか恋の始まりみたいな気持ちになる。季節は春。桜の花びらが風に舞って、通りを歩く誰かの髪にひっそりくっついている光景が、目に浮かぶようだった。
彼はいつも少し遅れてくる。だけどそれが心地よかった。だって、彼が近づいてくる音で私は「ああ、今日も来てくれた」って、ちゃんとわかるから。
「待たせた?」
声がした。やっぱり今日も、ちゃんと来てくれた。
「ううん、私も今来たところ」
いつもと変わらない会話。でも、今日は少しだけ特別な気がして、私はポケットの中に忍ばせていた小さな箱に、そっと指を添えた。
「この前言ってた映画、もう上映終わっちゃうらしいよ」
「えっ、ほんと? じゃあ今から行く?」
彼は少し笑って、「君がそれでいいなら」と言った。
それでいいに決まってる。だって、あなたとなら、どこだって映画館になる。
映画の内容は覚えていない。けれど、彼の笑い声や、ポップコーンをつまむ音、隣に座る体温の確かさ、それらのほうがよっぽど、映画よりも映画みたいだった。
夜になって、帰り道。駅までの道を、二人でゆっくり歩いた。
「今日も、楽しかった」
私が言うと、彼は少し黙って、それから何かを探すように空を見上げた気配がした。
「うん。……でもさ、ちょっと気になってたんだけど」
「うん?」
「君、さ。俺のこと、ずっと見てないよね」
心臓が、ひとつ跳ねた。
「うん……そうかもしれないね」
「もしかして……俺、嫌われた?」
「違うよ、違うの。ただ……怖いの。あんまり好きすぎて、顔を見ると、泣きそうになるから」
彼は笑った。優しくて、少しだけ困ったみたいな笑い方。
「じゃあ、無理には見ないで。でも……これだけは、信じて」
彼は私の手を取って、言った。
「俺は、君のこと、ちゃんと見てるよ」
それから何度も季節は巡って、今日という日が来た。
彼の誕生日。私は朝からキッチンに立って、彼の好きなクリームシチューを煮込んでいた。
彼が部屋に来る。ドアの音でわかる。
「おかえりなさい。お腹すいてるでしょ?」
「うん、めっちゃすいてる」
「今日はね、シチューにしたよ。あなたの好きなやつ」
私は笑った。彼も笑っている気がした。
食卓に並べた料理の向こうから、彼の声がする。
「なあ、ひとつ聞いていい?」
「なに?」
「……本当は、見えてないんだよね?」
私は、少し黙って、それから小さくうなずいた。
「うん、最初から、ずっと。光がね、あるのはわかるの。でも、文字とか物の形はもう……あの日から」
彼は、静かに息を吸った。
「そっか」
その一言が、まるで全てを受け止めてくれた気がして、私はやっと、少しだけ泣いた。
「それでもね、私は幸せだったんだよ。だって、あなたの声があったから」
その声に会いに行くために、私は今日も、春の噴水の前で待ち続ける。
そして、あなたの足音が聞こえたら、きっとまたこう言うの。
「ううん、私も今来たところ」




