コーヒーの温度(著:積戸バツ)
朝、彼は私より少し早く目を覚ます。
キッチンでマグカップの音がする。コーヒーメーカーの唸る音も。私は布団の中で目をこすりながら、それを聞いている。
「おはよう」
リビングに向かうと、彼はもう着替えていて、ソファの端に座っている。
マグカップを2つ。私のは、取っ手が欠けてない方。彼が欠けてしまった自分のと交換してくれたっけ。
少し冷ました黒い液体を啜りながら、私はふと彼の横顔を見る。
ぼさぼさの前髪の隙間から覗く瞳が、まだ少し眠そうで、でもどこか遠くを見ているような表情をしていた。
「今日、何時に帰ってくる?」
「たぶん、7時くらい」
私は頷いて、洗い物を始める。
昨夜の食器と、今朝のマグカップ。スポンジをこすっていると、ふいに彼が後ろから抱きしめてきて、私はちょっと驚く。
「服、濡れるって」
「いいじゃん、ちょっとだけ」
彼の声が耳元でくすぐったくて、私は笑いながら彼を追い払う。そういう、何でもない朝だった。
夕方、スーパーで買い物をしていたら、彼の好きなポテトサラダが特売になっていた。
今日は肉じゃがにしようかと思っていたけど、急遽メニューを変更。ついでに、缶チューハイも1本。
彼が帰ってくる頃を見計らって料理を始める。
ポテトサラダにレタスを敷いて、彩りよく盛り付ける。
唐揚げは冷凍。チンするだけ。でも、あの人はそれが好きだった。
テレビをつけて、食卓に並べる。
彼はなかなか帰ってこない。LINEも既読がつかない。
でも、私は食べずに待つ。
時計の針が8時を過ぎたあたりで、ようやく玄関の鍵が開く音がした気がした。
私は立ち上がって、玄関を見た。でも、そこには誰もいなかった。
気づけば、ご飯は冷めていた。
冷蔵庫にしまっておくべきだったかな、と思いながら、それでも私は片づけを始める。
マグカップを洗い、皿を拭き、2人分の箸を元に戻す。
そのときふと、気づいた。
今日は、一度も誰とも会話をしていない。
スマホを見ても、通知はなかった。
LINEのトーク画面を開くと、最後のやり取りは1ヶ月前。
「ごめん、やっぱ一緒に住むの、無理かも」
それきり、既読もつかないままだ。
私はスマホを伏せて、部屋の電気を落とす。
静まり返った部屋。
足音も、カーテンの揺れる音も、なにもない。
眠る前に、コーヒーを淹れる。欠けた方のマグカップに。湯気はすぐに消えていく。
私の前に座る彼を想像する。
ぼさぼさの髪。ちょっと不機嫌そうな顔。無口で、でも優しかった背中。
だけど、そのマグカップは冷めたままだ。
きっと、私が冷めるのを待っていただけなんだ。
コーヒーが冷めるのを待つように。
今日も私は、1人分の布団に潜り込む。
「おやすみ」と呟くと、部屋の壁がそれを静かに呑み込んだ。
返事はなかった。最初から、なにもなかった。
目を閉じれば、彼がここにいる気がする。
それだけでいい。今は、それだけで。