約束の日に(著:積戸バツ)
3月の海は、まだ冬の匂いを引きずっていた。
波打ち際に立ち止まり、僕は腕時計を確かめる。午後3時。あの約束をした時間だ。15年前の、中学の卒業式の日。
「私たち、30歳までお互い独りだったらさ、そのときは結婚しよっか」
たしか、そんなことを言ったのは、美咲の方だった。
冗談だったのかもしれない。僕も笑ってうなずいた気がする。けれど、僕たちはそのあと、自然と疎遠になってしまった。高校は別々になり、手紙もいつしか来なくなった。気がつけば、名前もどこかで聞いたことのあるようなものに変わっていた。
だけど、今日ここに来ている自分がいる。それはきっと、忘れたことがなかったからだ。
ふと、視界の端で誰かがこちらに向かってくるのが見えた。
自分より少し若く見える女性が、ためらいがちに会釈をしてくる。
「尚人さん……ですか?」
「ええと、はい」
「美咲の、中学の同級生だった方ですよね」
彼女の名を聞いて、少しだけ胸がざわめいた。
「美咲は、今日は来られないんです」
返事の言葉を探す前に、次の言葉を待っていた。
女性は小さくうなずいて、立ち話で話せることじゃないかもしれませんが、と前置きをしてから口を開いた。
「高校のときに、いろいろあって……学校をやめてしまったんです。部活の先輩に……その……ちょっとした事件があって」
声がかすれていた。言葉の輪郭が曖昧になる。
「それで……妊娠したんです。たった一度のことで。だけど、その子は生まれませんでした。流産してしまって……そのときに、体の方も、もう……」
風が吹き抜けた。海の音だけがしばらく耳に残った。
「ごめんなさい、こんな話をいきなり……」
「いえ……」
それしか言えなかった。
「美咲は、もう会う資格がないって。ずっとそう言ってて。でも、この約束のこと、最後まで忘れてませんでした」
女性は、折りたたんだ紙を1枚、ポケットから取り出した。
「これ、美咲の今の住所です。でも、行っても、きっと喜んだりはしないと思います。たぶん、追い返されるかも」
それでも、メモを受け取った。ポケットにしまうと、指先がかすかに震えていた。
住所を頼りに訪ねたアパートは、どこにでもあるような古びた建物だった。表札には、見覚えのある字で「佐倉」とだけ書かれていた。
インターホンを押すと、しばらくしてドアがゆっくり開いた。
そこに立っていたのは、美咲だった。面影はそのままだったけれど、ずいぶん痩せていて、目の下の隈が目立っていた。
「……来ないでって言ったのに」
「いや、言われてないから」
それは半分冗談だった。けれど、美咲は目を伏せたまま、小さく肩をふるわせた。
「どうして……来たの?」
「来たかったから」
間が空いた。
やがて、美咲は部屋に招き入れてくれた。6畳の部屋。窓際に小さな椅子があり、そこに腰かけて、彼女は静かに口を開いた。
「ほんとは、ずっと好きだったんだよ。あんたのこと。だけど……あの頃は素直になれなかった。高校が別々になるし、携帯もなかったし、私の家は引っ越す予定だったから……。だから、あんな約束、冗談みたいに言ったの」
彼女の言葉を黙って噛み締める。
「でも、高校であんなことがあって……ひとりで産む覚悟してたのに、最後は産めなくなって。体も心も、全部壊れて。何年経っても、あんたのことが心から離れなかった。でも、会っちゃダメだと思った。私なんか、もう……」
美咲の目に涙がたまっていた。手のひらで顔を隠すようにして、声を震わせた。
「会いたかったよ。でも、会っちゃいけないと思った。ずっとずっと、美咲の事が忘れられなかった……」
椅子から立ち上がって、そっと美咲の肩に触れた。
彼女は驚いたように顔を上げた。
「来てよかった。俺、来てよかったよ」
そう言って、彼女をそっと抱きしめた。
細くて、壊れてしまいそうな身体だったけど、たしかに生きていて、ここにいるのが分かった。




