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水音(著:積戸バツ)

17歳になってからというもの、私は、毎朝カーテンを開けるたびに、自分が檻の中にいる気がしていた。

寝起きの視界はぼやけていて、目の前の障子も、遠くに見える山も、霧がかかったように曖昧だった。だけど、その奥にある「1か月後の未来」だけは、やけに鮮明で、酷く、冷たい。

私は名家の娘だ。

幼い頃から言われ続けてきた。「この家を継ぐのは、お前なのだから」と。

兄弟はいない。母は私を産んで間もなく亡くなった。父は昔からほとんど口を利かない。祖母が、家のこと、しきたりのことをすべて取り仕切っている。

「女子は十八までに、家の血を繋がねばならぬ」

「嫁に行くのではない。この家の“器”になるのだ」

それがこの家に伝わる掟だという。

それを聞くたびに、私の体は誰のものでもなくなる気がして、心がどこかへ逃げてしまいそうになった。


ある朝、家の者が取り仕切った婚姻相手候補の“名簿”を見せられた。

大人たちが、「この子なら品もある」、「この家柄なら文句も出ぬ」と無機質な声で話し合うのを聞いていると、自分が精密な飼育計画のなかで管理されている家畜のように思えた。

その夜、私は家を出た。旅行鞄に最低限の着替えと財布、母の遺影の裏に隠していた形見の簪を忍ばせて。スマホは電源を切って、カバンの奥にしまった。


目的地なんてなかった。ただ、この家と姓と血からできるだけ遠く離れたかった。

電車を乗り継いで、東京に着いたのは明け方だった。

すれ違う誰もが、私に興味がないふりをしてくれて、どこかほっとした。

ネカフェで寝泊まりし、スーパーでバイトを始めた。

特別な知識も度胸もないから、品出しとレジ打ちだけを繰り返す。

知らない街、知らない人、知らない生活。なのに、どこか静かな呼吸ができた。

私は、初めて“誰のものでもない時間”を過ごしていた。


ある日、雨が降った。

バイトの帰り道、傘を持っていなかった私は、駅ビルの裏手にある細いトンネルで雨宿りをしていた。湿気と冷気がじわじわ服に染みて、体が震える。

誰も来ないだろうと思っていたら、誰かが隣に座った。

20歳くらいの女性だった。

濡れた髪をタオルで拭きながら、私の方をちらりと見た。何も言わずに自分のカバンから紙パックのココアを取り出し、こちらに差し出した。

「いる?」

私は少し迷ってから、うなずいて受け取った。

言葉が出てこなかった。

でも、その無言を彼女は気にする様子もなく、黙ったまま隣に座っていた。

数分が過ぎて、ようやく雨脚が弱まった。

彼女が立ち上がったタイミングで、私も立ち上がった。なぜか、別れ際に声をかけたくなった。

「……ありがとうございます」

彼女は少しだけ驚いた顔をしたあと、笑って言った。

「うん。じゃあ、またね」

名前も聞かなかった。けれどその日から、雨が降ると同じ場所に雨宿りするようになった。

そんな中、たまたま同じバスに乗っていたり、道端で見かけたりするうちに、彼女と話すようになった。

彼女は、近くの服飾学校に通っている学生だった。

「私、自分の着たい服を、自分で作るのが好きなの」

「誰かの“らしさ”を作るのも、自由を手伝う感じがしていいよね」

私は彼女の言葉に、心が少しずつ溶かされていくのを感じていた。


ある夜、私はとうとう自分の話を少しだけした。

「私、逃げてきたんです。家から、名字から、血から、しきたりから。誕生日が来たら、誰かの子どもを作らされる予定だった。名前も顔も知らない相手に。それが“家のため”って」

彼女は黙って私の話を聞いていた。そして、少しだけ目を細めて言った。

「……言っていいかわかんないけど。たとえ誰かがそれを“当然”って言っても、その“当然”の中にあなたがいなかったら、意味ないよ」


それから数日後、私はもう一度、家に戻ることを選んだ。

駅のホームで電車を待つ間、指先が冷たくなっていくのを感じながら、何度もスマホの電源を入れては切った。

行き先は“戻る場所”であって、“帰る場所”じゃない気がして、怖かった。

けれど、それでも私は、あの家に押し込められる誰かじゃなく、自分の足で境界をまたぎたかった。

母の簪を、鞄の奥から取り出して手に握る。それが、私の持っている精一杯の“武器”だった。

あの日、ココアをくれた彼女に会うことは、もうないかもしれない。

けれど、あの雨の中でもらった言葉は、今も胸の中にあって、少しだけ私を強くしてくれている。


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