好きって言ったのはどっち(著:くるっぽー)
六月の陽射しは、去年よりもやわらかい気がした。
雲ひとつない空の下。
私は彼女の右手を握って、駅前のロータリーを歩いていた。
アスファルトの照り返しも、電線に止まるスズメの鳴き声も、どこか懐かしくて──
この場所が、私たちの始まりだったからだろうか。
「ねぇ、覚えてる?ここに来たの、ちょうど二年前だよ」
彼女が笑いながらそう言って、私の腕に絡んだ。
制服じゃなくて、私服で会うのは久しぶりだった。
白のブラウスに淡い紫のロングスカート。
風に揺れる髪と同じ色のリップ。
少しだけ背の高い彼女に並んで歩くたび、私は何度も心を奪われる。
「もちろん覚えてるよ……あの日、駅の改札を出た瞬間から、ずっと緊張してたの」
「えー、嘘でしょ?あの時のあなた、全然そんな風に見えなかったよ?」
「見せなかっただけ。ほんとは、お昼食べた後もずっと手汗止まらなくて……」
「そうだっけ?ふふ、それは可愛いな」
彼女は私の手のひらを、そっと包み込むように握った。
すこしだけ汗ばんでいたけれど、今はもう気にならない。
それすらも、心地よいと思えるほど私は彼女に恋をしていた。
──二年前、私たちが最初に入ったカフェに向かう。
あの時はテーブルの向こう側に座っていた彼女が、今日はすぐ隣にいる。
肘が触れ合うたび、くすぐったくて、嬉しくて、それでも緊張して、思わず視線を逸らしてしまう。
「アイスカフェラテ、また頼んでいい?」
「うん、いつものでしょ。シナモン多め、ミルク少なめ」
「さすが。私より覚えてるね」
「それ、前も言ってたよ」
彼女は笑って、メニューを閉じる。
その笑顔が、昔よりもすこしだけ大人びて見える。
だけど私は、その瞳の奥にあるものを、いつも読み取ろうとしてしまう。
──寂しさ?
安堵?
それとも、別のなにか?
「今日さ、行きたい場所があるんだ」
彼女が、ふいに口を開いた。
「どこ?」
「……あの公園。覚えてる?初めて、ちゃんと好きって言ったときの」
思い出すだけで、顔が熱くなった。
あの夜のことを、私は一生忘れないと思ってた。
でも──
「えっと……うん、たぶん、覚えてる」
記憶が、少しだけぼやける。
確か、あの時は──
「わたし、あそこで初めて勇気出したんだよ?」
彼女が照れくさそうに言った。
「ずっと言おうと思ってて、でも言えなくて……帰り道、あのベンチに座って、思い切って言ったの。あなたが好きですって」
あれ?
言ったのは……私じゃなかったっけ?
喉の奥まで出かけた疑問を、私はカフェラテの冷たさでごまかす。
──夕方になって、公園に着く。
あの日と同じ、赤いベンチ。
セミの声が降るように響くなか、彼女は静かに座り、私を隣に招く。
「ここ。ここで、わたし言ったんだよ。好きって」
「……そうだったね」
うなずきながら、私は自分の記憶を手繰る。
たしか、私は──彼女が黙り込んだあの時、「大丈夫だよ、私も好きだから」って、先に言った気がした。
「……ふふ、あの時、手が震えてたの。覚えてる?」
「ううん……私、震えてた?」
「あなたじゃなくて、わたしの方」
笑いながら、彼女は私の肩に頭を預けてきた。
私たちは何度もキスをして、何度も触れ合ってきたけれど、今日はまた少し違う。
唇が触れた瞬間、私は心の底から、彼女を愛していると感じた。
「これからも、ずっと一緒にいようね」
「うん……二周年、おめでとう」
沈む夕陽が、赤く二人を染めていた。
この日々が続いてほしいと思った。
ずっと、永遠に。
──でも、私は知っている。
何かがおかしい。
私の記憶と、彼女の言葉が、少しずつズレていることに。
だけど今は、目の前にいる彼女の笑顔だけを、信じていたいと思った。
夜風が、彼女の髪をふわりと持ち上げた。
昼間よりもひんやりした空気が、夏の終わりを感じさせる。
私たちは最後の目的地。
河川敷の土手に向かっていた。
初めてふたりで星を見た場所。
──いや、そうだと思っていた。
「このあたりだったかな?」
私は空を仰ぎながら言った。
「うん。そう、ここだったよ」
彼女が微笑んで、ぴたりと私の横に立つ。
街灯の届かない草むらの上、ブランケットを広げて座り込むと、背中越しに草が擦れる音がした。
遠くに車の音、虫の声、風の音。
そして隣から聞こえる、彼女の深い吐息。
「ねぇ、あなたは……最初に好きって言った時、どんな気持ちだった?」
彼女がふいに、そんなことを尋ねてきた。
私は少しだけ考えてから、笑って答える。
「怖かったよ。振られるんじゃないかって思ってた。でも、あなたが黙って笑ってくれて──あの時、世界が変わった気がした」
「そっか……嬉しかったんだね」
「うん。あなたは?」
問うと、彼女はほんの一瞬だけ間を置いてから、答えた。
「わたしはね……ちゃんと伝わったか、ずっと不安だったの。ずっと、ずっと」
彼女はゆっくり、私の手を握った。
──そのとき、私は唐突に気づいてしまった。
私たちの初デートの日。
この河川敷には──私は来てない。
初めて星を見た夜は、私は風邪をひいて会えなかったはずだ。
彼女が「一人でも行ってみる」と言ったあの夜。
翌日、撮った写真を送ってくれた彼女に、私は「ごめんね」とだけ返した。
でも彼女は、こう言った。
ここでふたりで星を見たね──と。
心のどこかにひびが走る。
けれど私は、笑顔を崩せなかった。
おかしい。
私がおかしいのか。
いや──
「ねぇ……わたしと付き合って、何年目だったっけ?」
突然、彼女がそう聞いてきた。
不意打ちのような問いに、私は反射的に答える。
「……二年。今日が、ちょうど二周年だよ」
彼女は、静かにうなずいた。
「そうだよね──二年、だったね」
その言い方が、どこかおかしかった。
だったって、どういう意味?
私はもう一度、問いかけようとして、言葉を飲み込んだ。
彼女が、少しだけ離れた場所に立ち上がったから。
「ふふ……ほんとに楽しかったな、今日は」
風に髪が揺れ、彼女の影が、ブランケットの上に落ちる。
暗がりの中でも、彼女の輪郭ははっきり見えた。
「思い出も、景色も、言葉も、全部覚えてる」
「うん。私も──」
「……あなたの、じゃないけどね」
胸が冷たくなる。
今、なんて言った?
「わたしが覚えてるのは、あの子との記憶。あなたのじゃない」
彼女の声は、静かで、淡々としていた。
「でも、あなたはよかったよ。あの子と、声も似てたし、笑い方もそっくりだった……たまに違和感あったけど、まあ許容範囲だった」
「──なに、言ってるの……?」
「二周年なんだよ、今日は。あの子と、わたしが付き合ってから、ちょうど二年目の日。だから、最後にこうして、思い出をなぞるの……わたしだけの、記念日」
目の前が、ぐらりと揺れた。
私は彼女を見つめたまま、言葉を探す。
でも──
「あの子は、もういないから」
彼女は微笑みながら、ポケットから何かを取り出す。
それは、見覚えのある──
私がつけていた、白いヘアピンだった。
「わたしが持ってるって、おかしいよね……でも、最後にね」
彼女は、ヘアピンをそっと自分の胸に当てた。
その仕草が、あまりにも自然で、優しくて、ゾッとするほど美しかった。
「これだけは捨てられなかったんだ」
私は立ち上がれなかった。
足が震えて、声が出なかった。
冷たい夜風が吹く中で、彼女はただひとり、静かに語り続ける。
「本当は、わたしの中であの子を再生したかったの。でも無理だった。だから代わりに、あなたを見つけたの」
私の頭のなかで、過去の記憶がぐしゃぐしゃに壊れていく。
思い出したはずの景色が、すべて彼女の言葉と食い違っていく。
いや、そもそも──
彼女と出会ったのは、いつだった?
気づいたときには、もう遅かった。
彼女は私の頬に触れて、微笑んだ。
「ありがとう。二年間、わたしの幻に付き合ってくれて」
その手は、冷たいのに、どこか懐かしい匂いがした。
最後の記憶が、唐突に蘇る。
──雨の中、駅のホームで見た、制服の彼女。
傘もささず、電車に吸い込まれていったあの横顔。
あの日、私はまだ好きなんて言ってなかった。
そしてあの日以来──彼女を、見ていなかったはずなのに。
なのに、どうして。
私は今、彼女の手を握っているの?
──その夜。
河川敷でひとり、佇む制服姿の少女が目撃された。
隣には誰もいなかったはずなのに、彼女はずっと、誰かと話していたという。
笑ったり、泣いたり、手を握る仕草までしていたそうだ。
その場所は、二年前に転落事故があった現場と、まったく同じだった。
好きって言ったのは──
どっちだったっけ?




