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歌と缶ココア(著:積戸バツ)

 夜の駅前は、誰のものでもないような顔をして、そこにある。

 今日も終電のひとつ前。私は駅から少し離れた裏道を抜けて、安アパートへと帰る途中だった。

 財布の中には、今日の“報酬”が入っている。

 シャワーを浴びる前に、石けんで手を何度も洗う癖がついたのは、いつからだったっけ。別に嫌悪してるわけじゃない。これが私の仕事。

 性と若さを換金して、それで生きている。それだけの話。

 家に帰っても誰も待ってない。そもそも、“家族”と呼べるような人間関係なんて、最初から無かった。

本当の父親の顔は知らない。母は毎晩のように、知らない男を連れ込んで、壁の向こうで行為に及んでいた。私がまだ中学生のころからだ。

 風邪をひいて寝ていても、母は誰かの膝の上にいた。冷蔵庫にあったプリンを勝手に食べたら殴られた。そういう記憶ばかりが残っている。

 だから、私もきっと、似たような大人になっただけのこと。

 高校ではバイトに打ち込んだ。コンビニ、居酒屋、日雇い。卒業してすぐ、家を出た。

 電話番号も変えて、それっきり。母がその後どうなったのか、知らない。でも、どうだっていい。

 夢なんてない。やりたいこともない。ただ、明日が来て、体がまだ使えて、お金がもらえるなら、それでいい。“誰も私を愛さない”ということだけが、私の真実だった。


 その夜、なぜか足がまっすぐ帰宅方向へ向かわなかった。駅前のロータリーで、ギターの音が聞こえたからだ。あまり人は集まっていない。

 小さなアンプから、こじんまりとした音量で歌が流れていた。二十代前半くらいの男。Tシャツにダボっとしたシャツ、履き潰したスニーカー。でも、声は真っ直ぐだった。

「誰かのことを、ちゃんと見つめて 少しだけ、待っていたいだけだった――」

 そのフレーズに、なぜか心が引っかかった。誰かに“待ってほしい”なんて思ったこと、一度もなかったのに……でも、立ち止まってる場合じゃない。

 私は踵を返し、コンビニの方向へ歩き出した。

 だけど数歩進んで、足が止まる。

 なにやってんだろう。別に興味なんてないのに。それなのに、あの声が、耳から離れなかった。

 結局、戻ってきてしまった。小さな輪の外に、ひとり立って、彼の歌の続きを聞いていた。歌は終わっていた。だけど、その余韻だけがまだ残っていた。

 そのとき彼がこちらを見て、声をかけてきた。

「こんばんは。……元気なさそうだけど、大丈夫?」

 私は、ふと顔を触った。頬が濡れていた。泣いていたのだと、その時初めて気づいた。

「え、ごめん、なんか怖がらせた?」

 彼はそう言って、慌てた様子でギターのストラップを外した。

 私は、首を横に振った。

「ちがう、……なんか、勝手に涙が出てただけ」

「歌、ヘタだった?」

「ううん。……なんか、温かかった」

 彼は少しだけ笑った。

 私は、その笑顔に息を飲んだ。

 恋とかじゃない。ただ、“優しい人”ってこういう顔するんだって、思った。

「名前、訊いてもいい?」

「……今は、いいや。訊かれるの、ちょっと苦手」

「そっか。じゃあ、俺も名乗らない。フェアでしょ?」

 そう言って、彼は自販機でココアを買い、私に差し出した。

「夜は冷えるからさ。歌のギャラってことで」

 私は受け取った。温かい缶の感触が、ずっと冷たかった手のひらをじんわりと包んだ。

 それだけの時間だった。名前も知らない。連絡先も交換しなかった。でも、あの夜だけは、誰かとちゃんと向き合った気がした。“誰も私を愛してくれない”と思っていた私に、“私も誰かを見つめていいのかもしれない”という気持ちをくれた夜だった。


 翌朝、起きた私は、手を洗う前にふと立ち止まった。

 机の上には、飲み干したココアの空き缶。いつもなら、すぐ捨ててたはずだった。でも、今日はそれを置いたまま、シャワーを浴びに行った。

 それがなんなのか、自分でもうまく説明できない。ただひとつ確かなのは――私の中に、「誰かに触れられた夜」が、ちゃんと残っているということだった。


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