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あなたにだけ甘くなる(著:くるっぽー)

月曜の朝、オフィスの空気はいつもよりも幾分、張り詰めていた。

 エントランスで会釈を交わす社員たちの表情にも、どこか緊張が滲む。

 そんな中、相川千遥は手に抱えた資料ファイルの重みを感じながら、決まった時間に自席を離れた。


 向かう先は、藤堂彩花部長のデスク。

 千遥の直属の上司であり、この会社で最も厳格と噂される女性だ。


「部長、今朝分の報告書です」


 言葉と同時に差し出されたファイルを、藤堂は手元のキーボード操作を止めることなく受け取った。

 そして中身に目を通すでもなく、わずかに眉をひそめて言った。


「遅い。五分前行動って言葉、あなたの辞書にはないの?」


 その声には、何の感情も乗っていない。

 ただ、事実を突きつけるような冷たさだけが漂っていた。


「申し訳ありません」

「改善して。次はないと思いなさい」


 小さくうなずきながら席へ戻る千遥の背中に、同僚たちの視線が刺さる。

 中には、またやられてるよとでも言いたげな顔もあったが、本人は何も気にする様子を見せなかった。


 ──それどころか、どこか満足げですらある。


 なぜなら、千遥だけは知っている。

 藤堂彩花の、その完璧な仮面の裏側を。


 誰よりも厳しく、誰よりも冷たく見えるその人が、自分と二人きりになると途端に別人のようになることを──


 終業のチャイムが鳴ったのは、定時である夕方6時。

 藤堂はすでにコートを羽織っており、誰よりも早くフロアを後にした。

 千遥はそれを視線だけで見送り、静かに自分の荷物をまとめる。


 誰も知らない。

 あの背中が、どれほど急ぎ足で帰路をたどるのか。


 そして、二人の本当の時間が始まるのは、オートロックの玄関の向こうからだ。


「……ちーちゃん、ただいま……」


 普段の冷徹な声とはまるで別人の甘ったるい声が、部屋の中に響く。

 ドアが閉まるやいなや、彩花は脱ぎかけのコートをまとったまま、千遥の胸にすがりついてきた。


「ねぇ、怒ってる……?今日のこと……私、言い過ぎちゃったかなって思ってて……」

「思っててじゃなくて、言い過ぎてたでしょ」

「やっぱり……!ちーちゃん怒るとこわいよぅ……ごめんなさい、ほんとにごめんなさい……」


 鼻を鳴らして服の裾を握ってくる姿は、会社でのあの氷のような女性と同一人物とは到底思えない。

 千遥は小さく息を吐いて、そっとその背中に腕を回す。


「……あれが上司としての姿ってのは分かってるけどさ。あんまり人前で突き放されると、ちょっと堪えるよ」

「うぅ……でも、私がちーちゃんを一番ちゃんと見てるってこと、ちゃんと伝えたくて……!私なりに応援してるつもりなんだけど、つい怖い顔になっちゃう……」

「自覚あるなら、なおさら気をつけてよ。泣きながら謝っても、もう許さないかも」

「えっ……うそ……本気……?」


 震えた目で見上げてくる。

 あんなに多くの部下を黙らせてきた眼差しとは思えない、子どものような潤んだ瞳だ。


「冗談だよ」

「よかった……」


 彩花はそのまま千遥の胸に顔をうずめて、ぴたりとくっついたまま離れない。


「今日はね、一緒にお風呂入ってほしい……あと……寝るときも、ぎゅーってしてて……いい?」

「甘えすぎ」

「ちーちゃんにしか甘えられないもん……」


 誰にも知られたくない、けれど誰よりも大切な関係。

 千遥は微笑みながら、そっと彩花の髪に手を伸ばした。


 浴室から上がった彩花は、髪の先から湯気を立ちのぼらせながら、リビングにふらふらと歩いてきた。

 すでにメイクも落とし、部屋着に身を包んだ彼女は、オフィスでのキリっとした姿からは想像もつかない、完全に脱力モードだった。


「ちーちゃん……髪、乾かして……」


 言いながら、彩花はドライヤーを手に持って千遥の膝の上にごろんと頭を預けた。

 まるで猫のような仕草。

 千遥は苦笑しながら電源を入れ、手櫛で梳きつつ風を当てる。


「自分でできるでしょ」

「うん……でも、ちーちゃんがやってくれると気持ちいいんだもん」


 完全に甘えた口調。

 あれほど厳しかった上司の姿は、もうどこにもない。

 千遥は指をゆっくりと動かしながら、彩花の濡れた髪をやさしく整えていく。


「それにね……ちーちゃんの手って、すごく好き。あったかくて、安心する」

「それ、会議中に言ってくれたらなぁ」

「そんなの言えるわけないじゃない、ばか……!」


 ぴしゃり、と膝を軽く叩かれる。

 ふたりの間に流れる空気は、まるで湯船のようにぬるく、心地よい。


 ドライヤーの風が止まると、彩花はそのまま千遥の胸にすり寄って、猫のように喉を鳴らした。


「ねぇ……ずっとこうしてたい」

「こうしてたいのに、昼間はあんなに冷たくするんだ」

「……だって、会社でちーちゃんに甘えたら、止まらなくなりそうで……それに、みんなの前で、変な目で見られたくないし……」

「誰も、部長が私に甘えてるなんて想像すらしないよ」


 千遥は笑いながら、彩花の頬にキスを落とす。


「でも……わたしは、外でも少しは大切にされてるって思いたいな」


 彩花は顔を赤らめ、小さく身体を震わせた。

 やがて、千遥の手をきゅっと握り返す。


「明日、会議のあと……飲みに誘う。信頼してる部下って、みんなの前で言うから」

「……うん、それだけでいい」


 それだけで、十分だった。

 会社では言葉にできないこの関係も、自分たちの中ではずっと続いている。

 それがわかるだけで、千遥はもう何も不満はなかった。


 ふたりがベッドに入る頃には、外の街はすっかり静まり返っていた。

 同じ枕に顔を寄せて、彩花がぽつりと漏らす。


「……ちーちゃん、今日怒らないで許してくれて、ありがとう」

「怒ったよ、ちょっとだけ」

「……ふふ、でも許してくれるって思ってた。だって、ちーちゃんだもん」


 甘くて、少しわがままで、けれどその言葉には絶対の信頼が宿っていた。

 彩花の小さな指が千遥の手のひらに絡まってくる。

 そのぬくもりが、夜の静けさに染み込んでいくようだった。


「……これからも、会社では厳しいかもだけど、家ではいっぱい甘えるから……いい?」

「うん、いいよ。でもひとつだけ条件」

「え、なに……?」

「ちゃんと、毎晩好きって言うこと。そしたら、今日みたいな怒った顔もしないで済むから」

「……えぇぇ、それはハードル高い……!」


 彩花はむくれた顔をしていたが、しばらくして観念したように頷いた。


「……好き……だいすき」


 まるで告白のような声。

 それは職場では聞けない、特別な言葉。

 千遥はゆっくり目を閉じながら、その言葉を胸に抱きしめた。


 きっと明日も、厳しい叱責が飛んでくるだろう。

 でも、その後に待っているのは、こうしてただ寄り添うだけの時間。


 ふたりだけの秘密が、今夜も甘く、ほどけていく。

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