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陽だまりの檻(著:くるっぽー)

 時計の針が午後二時を指す頃になると、ドアのチャイムが鳴る。

 今日もだ。

 彼女は来る。

 毎日、決まった時間に。


「こんにちは、今日も元気?」


 ドアを開けると、懐かしい声が部屋に差し込む。

 白いブラウスに膝丈のスカート。

 季節に合わせて変わるカーディガンの色は、今日も私の気分に寄り添うような淡い桜色だった。

 私は頷きで返す。

 声を出すのが面倒だったわけじゃない。

 ただ、声より先に彼女が笑ってくれるから、それで充分だった。


 彼女──元担任の先生は、私が高校を辞めてからずっと、こうして会いに来てくれる。

 毎日。

 雨の日も、風の日も。

 理由は「様子を見に来てるだけ」と口では言うけれど、本当の理由なんて、私にはもうわかってる。


 彼女は、私の恋人だ。


 おかしいって思うだろうか。

 担任と生徒だった二人が、こうして、恋人になるなんて。

 でも、私たちには特別なことじゃなかった。

 ただ、自然にそうなった。

 退学届を出した数週間後、家にやってきた彼女が涙ぐみながら抱きしめてくれて、その夜から私は彼女のものになった。


「今日はケーキ買ってきたよ。ショートケーキ。好きだったでしょ?」


 そう言って彼女がテーブルに箱を置くと、部屋の中が甘い香りに満たされた。

 彼女の選ぶものは、いつも私の好みばかりだった。

 私が外の世界と接しなくてもいいように、ここだけの小さな世界を丁寧に作ってくれる。


「……先生って、ほんと暇だよね」


 思わず、口に出た言葉。

 彼女はくすっと笑って、私の頬を指でつついた。


「暇じゃないよ。あなたのための時間だから、これは特別枠なの」


 その言葉を聞いて、私は小さく笑った。

 おかしな人だ。

 自分の人生を、私のためだけに使うなんて。


「……外、行かなくていいの?」


 ふと、そんなことを聞いてしまった。

 私の部屋に差し込む光の向こうには、街がある。

 人がいて、喧騒があって、でも私はそこにいない。ずっと、部屋の中にいる。


 彼女は少しの間、黙って私を見つめていた。


「……行かなくていいよ。行かせないから」


 それは、優しい声で言った言葉だった。

 でも、どこか少し怖くて、胸の奥がきゅっとなった。

 彼女の指先が、私の髪に触れる。

 撫でるというより、絡め取るように丁寧に。


「このままでいいの。だって、私はあなたを外になんか出したくないもの」

「……独占欲、強すぎ」


 呆れたように言いながら、笑ってしまった自分がいた。

 そして次の瞬間、彼女は私の唇を奪う。


 口づけは浅く、でも熱く、私の考えをすべて攫っていくようだった。

 彼女は私の呼吸を盗むように、何度も唇を重ねる。

 思考がとろけて、言葉が消えて、ただこのままでいいと思ってしまう。


 この場所だけが、私の世界。

 外なんて、もうどうでもいいかもしれない。

 彼女が毎日ここに来て、笑って、キスして、甘やかしてくれるなら──


 私の世界は、彼女でできている。

 そう思ったら、胸が少しだけあたたかくなった。


 彼女が私の家に通い始めてから、どれくらいの月日が経ったのか、もう分からなくなっていた。

 日付の感覚も、曜日の意識も、外の世界の音も、私の中にはとうに存在していない。

 ただ、彼女の声と、彼女の匂いと、彼女の温度だけが日々を刻んでいた。


「……お風呂、沸かしたよ。今日は一緒に入ろう?」


 彼女は微笑んで、私の髪に手を添える。

 最近は、自分で髪をとかすことすら面倒で、全部彼女に任せてしまっている。


「……べつに、一人で入ってきてもいいよ」


 そう呟くと、彼女は少しだけ寂しそうに眉を下げる。


「ダメだよ。今日みたいな日は、あなたをずっと抱いていたい気分なんだから」


 彼女は、私の言葉を否定しない。

 ただ、上書きする。

 拒む理由を考える前に、彼女の優しさに全てを包まれて、溶かされてしまう。


 バスタオルを巻いた彼女が、何のためらいもなく隣に入ってきて、私の背中に腕をまわす。

 湯気の向こうで、ふたりの輪郭が曖昧になっていく。


「ねえ……」


 ふいに彼女がぽつりと呟いた。


「あなたってさ、今、幸せ?」


 私は答えに詰まった。


 幸せ、という言葉を最後に使ったのがいつだったか思い出せない。

 ただ、彼女がいる毎日は、寂しくない。

 苦しくもない。

 でも、これが幸せと呼べるのかは分からなかった。


「……わかんない。けど、先生がいなくなったら、多分、生きていけない」


 それは、思ったよりも重い言葉だった。

 彼女は少し驚いたように目を見開いた後、すぐにまた笑った。


「ならよかった。じゃあ、もう絶対にどこにも行かないでね」


 私は、黙って頷いた。

 もしかしたら、その時に感じたのは──安心じゃなくて、閉じ込められる感覚だったのかもしれない。



 眠る前、彼女は私のベッドの中で、いつものように抱きしめてくる。

 背中から、腕をまわして、首筋に唇を落としてくる。

 眠る前の儀式のようなキスは、優しくて、甘くて、息苦しいほどに愛おしかった。


「ねえ、先生……」

「うん?」

「私が外に出たいって言ったら……どうする?」


 彼女の指先が、一瞬止まる。


「……どうして?」

「別に、なんとなく。最近、考えることがあって」


 しばらく沈黙が落ちて、そのあと彼女はまるで冗談みたいに言った。


「じゃあ、その時は……あなたの足を折るしかないね」


 私は、心臓が跳ねるのを感じた。


 笑っていた。

 彼女は、いつものように冗談みたいな顔で笑っていた。

 でも、私は知っている。

 この人は、私のためなら笑いながら私を壊す人だ。


「ねえ、怖いって言わないの?」


 彼女は、私の耳元で囁いた。


「……うん、怖くない」


 本当に、怖くなかった。

 彼女が私を壊すなら、それはきっと、私のための壊し方なんだろうと信じられたから。


 次の日も、その次の日も、彼女はやってきた。

 変わらない日々。

 閉ざされた部屋の中の、小さな天国。

 でも、少しずつ、私は変わっていった。


 鏡を見て、自分の顔が知らない誰かみたいに思えた。

 時間の感覚も、自分の名前さえ、曖昧になっていく。

 気づけば私は、私でいるために、彼女のキスを必要としていた。


「キスして……?」


 求めるのは、もう言葉でも、優しさでもない。

 ただ、私をここにいると感じさせてくれるもの。

 彼女は何も言わずに、私の唇を塞いだ。

 それはとても深くて、重くて、まるで呼吸を奪う呪いのようだった。


「あなたはもう、大丈夫」


 ベッドの上で、彼女は微笑む。


「わたしのものになったから。もう、どこにも行かなくていいんだよ」


 私は、その言葉を聞いてふと笑った。


「……ずるい人」


「うん、ずるくていい。あなたを手に入れられるなら」


 この部屋は、小さな檻だ。

 でもその檻は、やわらかい陽だまりでできていた。

 痛くない鎖で繋がれた私は、逃げることをもう考えない。


 彼女に溺れて、壊れて、愛されて──

 それで、全部でいいと思えた。


 世界に背を向けたふたり。

 恋人という名の、甘い監獄の中で。


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